6、現実世界にいってらっしゃい



「ひっ……! い、いやぁぁぁ――――っ⁉」

「っ、エリゼ様!」


 押しつぶされそうな巨躯が猛然と迫りくる光景に、少女は腰を抜かしていた。頭では火を出せばいいと分かっているのに、恐怖に支配された体は動かない。

 女騎士が少女を守ろうと狼男との間に身を乗り出すが、丸太の如き剛腕から繰り出される横なぎにあっけなく吹き飛ばされてしまった。


 ずん、と山のような男の影が少女に重なる。


「あ、あぁっ……!」

「……油の匂いだ。お前の言う通り、火をつけようとしたらしい」

「ええ、だから言ったでしょう? 彼女に直接人を殺せるだけの根性はないと。まだ子供ですもの」


 黒い目をぎらつかせた男が鼻を鳴らし、その背に乗った少女が答える。白い肌に青い髪が絹糸のようになびき、微笑みを浮かべたその表情は見惚れるほどに美しい。もちろん、こんな状況でなければの話だが。


「では、後は私にお任せを」

「……本当にオレは立っているだけでいいのか」

「ええ。彼女にとってはそれだけで十分でしょうから」


 青髪の少女が男の背から降り、腰を抜かした江利瀬へと近づいてくる。男の方は何もしないようだったが、上から見下ろされているだけで彼女には十分な恐怖だった。


「あなたは燃垣もえがき江利瀬えりぜさん。十四歳の、中学二年生。合ってますね」

「え、あ……な、なんでそれ」


 近づいてきた少女が、鈴が転がるような声色で話しかけてくる。その微笑み顔に江利瀬は詰めていた息を吐き出すが、彼女しか知らない事実を次々と言い当てる相手に再び緊張を走らせた。


「何で、なんで知ってんの? あたし、何も言ってな――――」

「ふふふ。それはね、私が女神だからです」

「め、がみさま?」

「そう。私はね、あなたを家に帰しにきたんですよ」

「――――っ、いや!」


 優しい、春風のような声色。けれどその内容は到底受け入れがたいことで、江利瀬は思わず少女を突き飛ばしていた。その行動に少女の背後で男がピクリと手を動かしかけるが、突き飛ばされた少女は微笑みを崩さないまま、手で男を制す。


「やっ、やだ! 絶対、絶対やだ! 帰りたくなんかない!」

「……それは、居場所がないから?」

「ないよ! あんなとこ、あんなとこ地獄だもん……!」


 江利瀬は過去に起こったことを思い返しながら目に涙を浮かべる。自分を見つめる嫌悪の眼差しに、陰口、嫌味。思い出すだけで胃がひっくり返りそうな、針の筵に座らせられるような日々。


 だから異世界に呼ばれた時、江利瀬はホッとしたのだ。もうあんなところで生きなくていいと。


「嫌だよ、女神様……。誰もわかってくれないとこなんて、あたし、帰りたくなんかないよぅ……」

「それはそれは、ずいぶんと辛い日々を過ごされてきたのですね」


 女神の小さな手が背に回され、そのぬくもりに安心して江利瀬はぐずぐずと鼻を啜った。慰めるような言葉に「ああ、彼女は自分の気持ちをわかってくれるのだ」と恐怖が和らぎ、穏やかな声に安堵する。


「けれどね、一つだけ間違っていることがありますよ。江利瀬さん」

「……間違ってること?」

「居場所をなくしたのはまわりのせいじゃない。――です」

「……え?」


 しかし、女神の雰囲気は突然変わった。まるで突き放すかのような硬い声に驚いて顔を上げればそこには変わらないにこやかな微笑みがある。けれど微笑んでいるように見えたものの奥にある、酷く冷たい金色の瞳を見てしまい、江利瀬はその恐ろしさに息を呑んだ。


「いじめていた同級生が自殺未遂。遺書からあなたの過激ないじめが明らかになり、芋づる式に他の悪事も見つかっていった」

「え、え? どうして、どうして、それ」

「カツアゲに暴力、他にも色々……ああ、カツアゲだけはすぐにやめたんでしたっけね。調子に乗って会社員を狙ったらガラの悪い人で、やり返されちゃったから。だからほら、あなたは今も背の高い男性に怯えてる」

「って、適当なこと言ってんじゃないわよ! あたしはそんなこと――」

「そんなこと?」

「……っ!」

「そんなこと、なんです?」


 背筋に氷を這わされているような気分だった。江利瀬はなんとか女神の腕から逃れようとするが、華奢な腕のどこにそこまで力があるのか背についた手はなかなか離れない。

 冷気を帯びた声で、少女は話し続ける。


「お父様お母様の態度も、周囲の皆さまの目も、当然です。あなたは人を殺しかけたのですから」

「ちがっ、あたしは殺そうとなんてしてない! あいつが勝手に」

「……あなたが追い込んだから、彼は死のうとしたんです。だから全部あなたのせいです。全部全部、あなたが引き起こしたことです」


 背中が冷えて、江利瀬はそこで初めて自分の背にあてられた女神の手が白く発光していることに気が付いた。こいつは自分に何かしようとしている。その事実に彼女は悲鳴を上げるが、やはり女神の手は離れない。どんどんと体が冷たくなっていく。


 その時、絶望する江利瀬の目に騎士たちの姿が映る。


「『女神アオイの名の元に、汝を元居た場所へと帰そう』」

「や、っやだ! やだやだやだっ! やめて! 助けて!」


 女騎士が応援を呼んだのか、それとも時間になっても命令が来ないことに気が付いて探しに来たのか。どちらにしろ、それは江利瀬に垂らされた一本の蜘蛛の糸だった。


「助けて! こんな女早く殺しなさい! 早く!」


 けれど、騎士たちは動かない。何故か彼らは揃いも揃って固まったまま、江利瀬を抱く女神の方を向いている。


 日が昇り、江利瀬は女神の後ろから見える太陽の眩しさに思わず目を細めた。もう指先も動かない程に、体は凍えている。


「誰も助けてはくれませんよ。だって、あなたは踏みにじって見捨ててきた人だから」

「い、や――――誰か、誰か、たす、け」

「だから、とっとと居場所のない日常に帰れ。クソガキ」


 聞こえたのは幻聴かそれとも真実か。それがわからないまま、江利瀬の視界は白み始める。


 異世界で最後に彼女が見たものは、朝日に照らされた、恐ろしいほどに美しい女神の微笑みだった。

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