八杯目 旅立ち、そして
部屋の、模様替えをした。
久し振りに、珈琲豆も買った。
キッチン横のパントリーから、袋を被ったミルや、珈琲マシンを取り出した。
――――最後に、陽太と逢えたあの日から、数ヶ月が経った頃。
休日だったが、急遽会社へ出向かなければならなくなり、その日、結局帰りは夕方になってしまった。スーパーで買い物をし、家の近くに差し掛かると、電信柱の下に猫が佇んでいた。すぐにあの子だとわかった。近付いてみたが、逃げる気配はない。あの日よりも、毛色は薄汚れていた。
いや、初めて見た日も、そうだったのかもしれない。きっと暗い場所だったから、真っ白に見えただけだったのかもしれない。
「ニャー」
猫は、オッド・アイの眼を細めながら短く鳴き、緩やかに尻尾を一振りした。
「あなた、お家は、あるの?」
答えるはずはない。案の定、左手で、ゆっくりと顔を洗い始めただけだった。
そもそも、家猫なら薄汚れてはいないだろうし、外にもいないだろう。
一人なのか…。
それが心境の変化なのか、只の気まぐれや思いつきなのか、自分にもよくわからなかった。
又、この子と逢えるなんて、運命なのかもしれない。奇跡なのかもしれない。
そう思った瞬間。
「あなた、家に来ない?――ううん、家に、帰ろう」
ゆっくりと手を伸ばすと、
――――ピンポーン
珈琲豆を挽いていると、ドアホンが鳴った。琴葉が来た。話したいことが、聞いて欲しいことが、山ほどある。きっと琴葉は、茶化すことなく、聞いてくれるだろう。あの日のこと、今後のこと。
そして、ソファの上で丸まっている、新しい家族のことも――――
車通りが途切れると、微かだか、波の音が聴こえる。
程よく賑やかで、程よく田舎のこの街は、私と陽太の故郷だ。厳密にいうと、私の生まれ育った町は、三駅離れているけれど。
緊張と期待と、少しの不安を抱えながら、オープンしたカフェ。
『Camphor tree(カンファーツリー)』
オープンしてからすぐに客足は伸び、常連のお客様もできた。窓辺のカウンター中央に、身体を存分に伸ばして横たわっている白い家族の名は『コハク』。
この子のおかげかもしれない。
「コハク、気持ち良いの?」
コハクを撫でようとした。
その時―――
一瞬、温かく、優しい風が、店内を吹き抜けた。
コハクは、ウィンクのように、ブルーの眼だけをそっとあけて、吹き抜けた風を見送っている。
ねえ、陽太。
見てくれてる?
陽太との夢、叶えたんだよ。
あの日の約束は、これからも、ここで――
陽太の生まれ育った街で、私は今、しっかりと、生きている。
クスノキの下で、逢いましょう。 三浦彩緒(あお) @sotocamp2022
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