七杯目 奇跡
久し振りに、陽太の荷物が収まっているクローゼットの扉を開けた。まだほんの少し、陽太の匂いがした気がして、苦しくなる。
最後に、一目、見ておきたい――――
そして、陽太がよく使っていた、バックパックを取り出した。
滅多に、出掛けることも無くなっていた、休日の午後。公園のある街へ向かう電車に乗っていた。しばらく、足を運ぶことも
カフェに着き、中に入ると、所々、クリスマスの飾り付けがされていたが、ああ、変わっていない、という安堵感に包まれた。
「紗羽ちゃん…!」
時間的に空席が目立ってはいたが、まだ、客が居るにも関わらず、調理場から御夫婦がかけ寄ってきた。
心配を掛けてしまっていた申し訳なさや、またここに来ることができて、久し振りに会えた嬉しさ。同時に、自分一人がここにいる現実が合わさり、涙が溢れ始めた。
冬の日の入りは早く、カフェを出ると、既に外は黒々とした、澄んだ空気に変わっていた。
街灯は青白く、等間隔に浮いて
その時――――
一本の街灯の下に、シルエットが浮き出ていた。
近くになるにつれ、それは猫とわかった。飼い猫なのだろうか、真っ白で、毛艶の良い綺麗な猫だ。逃げる気配はなく、近くにしゃがんでみたが、猫は尾を、ゆっくりと一振りしただけだった。
ゆっくりと手を伸ばそうとしたが、途中で、手が止まる。触れたいが、触れることに戸惑う。更に、白い猫ということで、戸惑いはより濃くなった。
あれ以来、猫を、避けてしまっている。猫が悪い訳じゃない。わかっている。今でも、猫は好きだ。でも―――
よく見ると、猫の瞳は綺麗なオッド・アイで、思わず吸い込まれそうになる程のブルーと、片方は琥珀色だ。
「綺麗ね…あなたは、どこからきたの…?」
戸惑いつつも、猫に話し掛けていた。
すると、猫はゆっくりと歩み寄ってきたかと思うと、しゃがんでいる私の膝に手をついて身体を伸ばし、顔を近付けてきた。
同時に、私の
その瞬間、
(クスノキの下に、いるよ)
「……えっ……?」
今のは、一体……
我にかえり、辺りを見回したが、猫はもう、どこにも見当たらなかった。思考が停止するということは、こういうことをいうのだろう。きっと、一瞬だったのだろうけれど、時が止まっていたかのように感じた。
「クスノキの下に……いるよ……?」
走り出そうとした。足がもつれ、コンクリートの冷たい地面に両手をついてしまったが、すぐに立ち上がり、公園へと急いだ。
真っ先にクスノキに近付いて行くが、公園内にも、誰の影もなかった。
バックパックから、レジャーシートとブランケットを取り出して、座った。
それにしても、さっきの猫は、喋ったのだろうか?喋ったというか、頭の中に響いてきたような…でも、猫が喋るなんて…
考えを巡らせながらも、今度は、暗い中、女一人で木の下に座ってるなんて、だいぶ滑稽だな、と、可笑しくなってきてしまった。
そんな自分に、驚いた。陽太のことばかり考えていたのに、他のことに考えを巡らせ、そればかりか、可笑しくもなるなんて。
空を見上げると、一段と輪郭を際立たせている満月が、夜に映えていた。
「今日、来れて、良かったのかな…」
呟いた、その時。
「紗羽」
――――陽太の、声が聴こえた。
聴き間違えるなんてことは、絶対にない。今でも、陽太の声は、ちゃんと覚えている。
「紗羽…?」
でも、だけど、どうして……
「陽太……!!」
後ろから聴こえた声を頼りに、振り返ろうとした瞬間、私の肩は、何かに包まれた。驚きと、それを上回るほどの懐かしく、温かい感覚。
それは、陽太の腕だった。
「ねえ、陽太なの…?陽太だよね…?!ねえ、見せてよ…!見たい!陽太の顔が見たいよ…!」
振り返ろうとするが、陽太は、優しいが強い腕で、それを許してはくれなかった。
「紗羽、聴いて。紗羽が振り返ったら、僕は、消えてしまうんだ。そういう約束なんだ…。ごめん、紗羽…」
そう言いながら、私を包む陽太の腕に、また少し力が入った。
「紗羽…。一人にして、ごめん…。本当に、ごめん…」
陽太の声は、震えていた。
「謝りたいのは、私のほうだよ!あの日…陽太から電話がきた時、すぐに陽太の所に行けば良かった…!そうすれば…陽太は…!!」
今まで、何度押し寄せたかわからない後悔を、口にした。夢だとしても、例え、今誰かに見られていて、気が触れたのかと思われても、構わない。
「陽太っ……!!」
陽太を、離したくなかった。
「紗羽。あの日、紗羽を待っている時、紗羽が好きな花を見掛けて、買いに行ったんだ。只、それだけだったんだ。でも、子猫が飛び出したのを見て、思わず、かけ寄った――俺のせいで辛い思いをさせて、紗羽が好きな物も、俺が全部、奪ってしまったと思う」
「…陽太のせいじゃない…。わかってる、わかってるの…」
痛い程、わかっている。現実を、受け入れられない、受け入れたくないのは、自分。
「陽太は…今まで、どうして居たの…?陽太は…近くに居たの…?」
「…近くに、居たよ。どうしても、行けなかったんだ。でも、ある人に会えたおかげで、こうして、紗羽に、逢えることが、できた」
ある、人…?その、誰かのおかげで、陽太に、逢えた…
「あのね、紗羽。俺、本当は、入社する前から、紗羽のこと、知ってたんだ」
「え……?」
初めて聞く話だった。
「知ってたっていっても、大学に通ってる時だった。大学三年の頃ぐらいかな…同じ電車で見かけるようになって。よく、本、読んでたでしょう?読んでる姿が、凄く綺麗な子だなって思ったのが、きっかけ。俺もたまたまその時、同じ本読んでて」
大学三年といえば、ちょうど住んでいた所から、大学に近い場所に引っ越した頃だ。そのため、最寄り駅が変わった。
「それにね、気付いてないだろうけど、紗羽、本読んでる時、表情が、ころころ変わるの。それがとても可愛かったんだ。ブックカバー掛け始めてから、今、何の本読んでるのかな、って気になったり、話しかけてみようかって、何度も考えた。でも、変な人って思われたらどうしようとか、避けられたらどうしようとか、そんなこと考えて、話しかけられなかった」
そういう風に見ていてくれたのかと考えながらも、そんな状況の陽太を想像できてしまうと、思わず笑ってしまった。
「変な人だなんて、思わなかったよ。話しかけてくれたら良かったのに」
少し、笑いながら答えた。
「名前すら知らなくて、その内、電車でも見掛けなくなって…でも、同じ会社に就職して、紗羽が研修で僕の隣に座った時。神様って、居るんだって、本当に信じた」
陽太も、少しだけ笑いながら、言った。
私を後ろから抱きしめる腕は、上半身全体を覆うほどの位置に変わった。
そして、二人の記憶をすり合わせながら、今までの思い出を遡った。
抱きしめられた感覚が、上半身にしっかりと、上書きされたと実感するくらいの時間が経った頃。
「…もし、勇気を出して、紗羽に話しかけていたら、状況は変わって、もっと、紗羽と一緒にいられたかな…」
そう言うと、苦しい程に、陽太の腕に力が入った。
―――理解できた…もう、本当に、これで最後なんだと。
「――紗羽。短い間だったけど、凄く、幸せだった。一緒にいられなくて、ごめん……でもね、心から、愛してる」
私も、精一杯の、想いを伝える。
「陽太、ありがとう…!私もだよ…!私も、とても幸せだった。ずっと、ずっと、愛してるよ――」
私の頬に、陽太の手が触れた。
「紗羽は、紗羽を、生きて―――」
私と、陽太の口唇が重なる。
そして、もう本当に、陽太は居なくなった。
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