五杯目 後悔

 結婚するということが、これほど大変だとは思っていなかった。するべきこと、しなければならないことが山のようにあり、あっという間に月日が経った。

 そんな日々も、もうすっかりと落ち着き、穏やかな日々が続いていた。

 たまに、琴葉がふらりとやってきて、陽太と三人で過ごすこともあった。

 カフェの御夫婦とも交流は続いていて、一緒に食事をしながら、時折、カフェ経営についての話を聞かせてもらっては、夢への希望をどんどん膨らませていった。

 自分達なりに、経営についての情報収集をしたり、体験セミナーにも二度ほど参加した。

 休日に家でいれる珈琲は、お気に入りの豆をミル挽きしたり、ちょっと奮発して購入した珈琲マシンを使い始めた。

 どんな小さな変化も、とても幸せだった。


「今日、仕事、早く終わりそうだから、食事して帰らない?」

 医療機器の問い合わせ対応依頼が入ったため、向かう準備をしながらスマホを確認すると、陽太からメッセージが入っていた。

 スケジュールを確認したところ、今のような依頼が入らなければ、時間には終わる予定であった。

「私も多分、時間であがれると思うから、行くね」

 送信し、少し足早に会社を出た。


 対応は、思ったよりも時間がかかったが、このままならば予定通り退社できそうだった。

 スマホを見ると、陽太からニ件、メッセージが入っていた。

「わかった。会社の玄関出た所で、待ってるね」

「ごめん、急遽、機器対応入ったから、遅れる」

 ニ件目は、十五時過ぎに届いていた。

 

 少し考えたのち、急ぎではないが、他に少し残している仕事もあったため、待ち時間を使うことにした。

「うん、わかった。少し残してる仕事あるから、待ってる間終わらせることにする。気をつけてね」

 返信し、会社へと戻った。

 

 一旦手をつけ始めると、思いのほか、集中でき、終盤に差し掛かろうとしているところで、スマホのバイブが鳴った。陽太からだった。

「ごめん、今終わった!そっちはどう?終わりそう?」

 もう少しで終わるけど、どうしようかな…

 少しだけ、待っててもらっちゃおうかな…

 時計を見ながら考えた後、返信した。

「あと、三十分だけ、待たせても良いかな。ごめんね」

「わかった、急がなくて良いからね。玄関出た所で待ってる」

 早く終わらせて、行こう。キーボードを打つ指が速まる。

――――外では、今年初めての雪が、はらはらと、舞い始めていた。



 随分と、冷え込んできた。

 会社に戻って来た時よりも、一段と。

 そういえば、朝のニュースで、今日は、今季一番の冷え込みって言ってたな―――

「食事、今日にしたの、不味まずかったかな」

 寒さでつい、声に出してしまった。

 空からは、ハラハラと雪が舞い落ちてきた。

 雪と一緒に視界に入ったのは、目の前を横切った女性だった。女性が、というよりも、女性が抱えていたもの。

 紗羽が好きな花だった。近くに、フラワーショップはあったかな―――

 コートのポケットからスマホを取り出し、検索してみた。五件ほど表示されたが、大通りから、一本奥の道にある店が一番近いようだ。少し急げば、待たせずに戻って来れる。

 僕は、フラワーショップへ向かった。

 

 到着すると、男性客は僕一人だけだった。

 何度か、周りから視線が感じられ、少し居心地が悪い気がしたが、レジの近くに、その花を見つけた。

 プレートに、「ネリネ」と、書かれているその花は、白やピンク、紫など、綺麗に揃えられていた。色、迷うなあ…こういう時、優柔不断さが出てしまう。

 決めた――――白と、紫。

 紫は、余り見かけることが無かったからだ。早速、店員さんに声を掛け、花束にしてもらった。


 腕時計を見ると、遅れずに戻れる時間だった。外に出ると、まだ、雪が降っていて、地面に落ちては溶け、また落ちては溶ける、粉雪。大人になっても、雪が降ると、わくわくするのは何故なんだろう。そんなことを考えていると、大通りが見える場所まで差し掛かった。

 すると、白いボールのようなものが見えた。よく見ると、それは、雪のように真っ白な子猫だった。

 子猫は、反対側の歩道を歩いている人の大きな笑い声に驚いたのか、道路の真ん中に飛び出したと思うと、うずくまってしまい、動かなくなった。

 危ない――――

 

 そう思った瞬間、身体が勝手に、動き出していた。

 そこに、バイクが近付いてきていたことも、知らずに。



 終わった―――


 待ち時間に、と思って始めたが、返って陽太を待たせることになってしまった。

 帰り支度をして、エレベーターで一階へと急いだ。ロビーは、人の出入りと共に冷気が流れ込み、外の寒さを容易に想像できた。私は少しだけ身構え、外に出た。

 

 外に出ると、陽太の姿は無かった。周りを見渡しながら、少しばかり歩いてみたが、やはり陽太の姿は無く、スマホを見るが、着信などは入っていない。

 やけに、救急車やパトカーのサイレンが騒がしく、近くで事故でもあったのかな?と、考えながら、スマホを操作する手は止まらなかった。


 あの時、陽太から連絡があった時に、すぐに切り上げていれば―――――


 そんな、後悔ばかりの日々が続くなんて、この時の私は、考えもしなかったのだから。

 

 



               

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