四杯目 忘れられなくなる日
付き合い始めて、二年近くが経つ、八月の終わり――――
「ねえ、紗羽。今度の日曜日、ここ、行ってみない?」
とある情報誌を読んでいた陽太は、記事の一部を指で囲いながら、キッチンで珈琲を入れている私に見せてきた。そこには、一軒の古民家を改装したカフェが掲載されていた。
「わあ……素敵な雰囲気だね」
一見、京町家の様な造りの、間口は狭いが、奥行きのあるそこは、奥には小さな庭が見えていて、写真だけでも、十分に素敵なカフェだった。
「この記事見つけた時、凄く惹かれてさ。少し前の雑誌なんだけどね」
確かに雑誌は、半年近く、前のものだった。
入れたての珈琲をゆっくりと飲み始めた陽太は、
「―――仕事も慣れてきたし、ここだけは、紗羽とゆっくり、行きたかったんだ」
そう言って、いつに無く、深く、真っ直ぐ、私を見た。
九月に入ってからも、暑さは変わらず続いていたが、雲はすっかりと高くなり、空気はしっかりと、秋を
約束の日曜日。
目的の場所は、電車を降りて徒歩十五分程の場所にあった。
写真で見るよりも一層、
「いらっしゃいませ」
綺麗な女性だった。すらりと伸びた手足と、バランス良く整った顔立ちに、ショートヘアがとても良く似合っていた。
開店して間もなくであったため、まだ席には余裕があり、私達は少し奥の、店内を見渡せる席を選んだ。
メニューを見るよりも先に、私は店内をじっくりと見渡し始めた。
レジ下は
次に来た時は、どの席に座ろうかと選ぶ楽しみもあり、自分の中で、お気に入りの一席を決めたりするのもよい。
「紗羽、口元緩んでるよ」
思わず両手で口元を覆ったが、そういう陽太も、テーブルに両肘をつきながら、口元を覆っていた。
「陽太もじゃない」
お互いのその姿に、笑わずには居られなかった。
十六穀米がドーム状に型どられ、メインのチキンのトマト煮、サラダや小鉢などが彩りよく盛り付けられたワンプレートランチを頂いたあとは、珈琲を注文した。
「お待たせ致しました」
注文した珈琲がテーブルに運ばれてきた。
「ランチは、お口に合いましたか?」
ショートヘアのよく似合うその女性は、トレーを小脇に抱えながら、言った。
「とても美味しく頂きました。それに、お店の外観も、店内も、どこも素敵で。御夫婦で営まれてるのですよね?」
と、陽太は答えた。
そうなんだ、御夫婦で―――
「そう仰って頂けて、嬉しいです。オープンして、一年近くになりますね。元々、夫婦共にカフェ経営が夢で、主人と共に脱サラしました。四十になるまでには、始めたいなあ、と、思っていたので、思い切って――」
奥様が振り返り、視線を向けた先には、洗いたての食器を丁寧に拭き上げている御主人が居た。目の合った二人は、穏やかに微笑み合っている。
そんな二人を見て、とても温かい気持ちになった。
ここは、二人にとって、大切な夢の証――
「素敵な、御夫婦ですね」
御世辞ではなく、心からそう思った。
「――ありがとうございます。お客様も、お似合いで、素敵な御夫婦ですよ」
一瞬、返答に迷っていると、
「ありがとうございます。嬉しいです。…まだ、良い返事が貰えるか、分かりませんが―――」
陽太は、すかさずそう言って、私を見た。
奥様は、満面の笑顔で、
「では、ごゆっくり」
何故か嬉しそうに、その場を去った。
「――ねえ、紗羽」
陽太は真面目な表情で、居住まいを整え、私に向き合い直した。
「手を、出してくれる?目を瞑って――」
え?何、この雰囲気…
右手?左手?両手?
ぎゅっと目を瞑り、恐る恐る、両手を差し出した。すると、陽太は、差し出した私の手に、そっと、何かを置いた。
「目、開けて―――」
綺麗にラッピングされた、正方形の物が、私の手の上にある。
「紗羽、僕と、結婚してくれますか?」
予想外の出来事が、目の前で起きていた。
人が感じる、“怒”と“哀”以外の感情は、一瞬で全て感じたのでは無いだろうか。中々、言葉が出て来なかった。
――――でも、最後には、嬉しいという気持ちしか、残っていなかった。
私も、陽太を真っ直ぐと見た。
「―――はい。宜しくお願いします」
秋の、心地良い風が、店内に流れてきた。
――――少しだけ冷めた珈琲を飲み始めた時。
「おめでとうございます」
カフェの御夫婦が足を運んできた。どうやら、一連の流れを見られていたようだ。かと思うと、私達のテーブルの上に、プレートが二つ置かれた。運ばれたプレートには、カットされたケーキやフルーツがお洒落に盛られ、粉砂糖やチョコレートで綺麗にデコレーションされていた。
「あの、これは…」
そして、御夫婦は、ゆっくりと頷いた。
「差し出がましいのですが、これは、私達からの、ささやかですが、感謝の気持ちです。この様に、お二人の、幸せな人生の一部に、私達も居合わせられた事、嬉しくて…。宜しければ、召し上がって下さい。あ、もしかして、甘い物は、苦手―――」
「いえ!とても大好きです!あっ…」
思わず、遮りながら、答えてしまった時、三人は、笑い始めた。一番気持ちが高揚していたのは、勿論、私だったのだから。
CLOSEのプレートが掛けられ、ランチ時間も過ぎたカフェを出る頃には、既に十五時が回ろうとしていた。
随分と、御夫婦と打ち解けてしまった私達は、御礼を伝え、必ずまた来ることを約束した。約束などしなくても、私達は、そう思っていた。
帰り道、駅へ向かう途中にある公園からは、子ども達の楽しそうな声が聞こえた。
「久し振りに、公園、寄ってみようか」
陽太は、繋いだ私の手を引きながら、公園へ向かった。
大きな公園では、犬の散歩をしている人や、家族でレジャーシートを敷いて休日を楽しんでいたり、年配の夫婦がベンチに座って、その景色を眺めていたり、様々な過ごし方をしていた。
私達は、ベンチには座らず、大きな木の下に座る事にした。日差しが眩しく、木陰になっていたから。
陽太は、バックパックからレジャーシートを取り出し、それを敷いた。
どこかへ出かける時は、こうして景色を眺めたり、のんびりする事も好きだったので、常に持ち歩いている物の一つだった。
ある日、琴葉はそれを、
「何だか、若い二人のデートじゃないみたいね」と言っていたが、確かにそうなのかもしれない。
そう言う琴葉は、勿論、嫌味などの感情で言っている訳では無く、私達らしい、という、温かな気持ちから言っていたことは、私達はちゃんとわかっている。
陽太は、景色を一通り眺めてから、目線を私に向けた。
「実は、さ。紗羽に、聞いて欲しい事がもう一つ、あるんだ。実はね。俺……俺も、
力強い、目だった。これに関しては、陽太には予想外だろう。私は全く、驚かなかった。
陽太は仕事ができて、周りからの評価も、訪問先からの評判も、とても良い。
真面目に仕事に向き合っているし、見ていて心配になるほど、手を抜く事もない。
でも、いつも、もっと違う先を、違う何かを見ているような、そんな雰囲気を、陽太から感じていた。
「これだったんだ……」
「え?………」
陽太は、私の返答に、驚いたようだった。
「あ、ううん、違うのよ」
陽太が勘違いをしないように、私は、思っていた事を伝えた。
「―――紗羽は、俺の事、ちゃんと見ててくれてるんだね。何だ――……今は、俺が、驚いちゃったよ」
陽太は照れ笑いをした。
「私だって、驚くのが自分だけじゃ、悔しいよ」
少しだけ、意地悪に笑い返した。
「陽太の夢はね、陽太だけの夢じゃないよ。私にとっても、同じ夢になったんだよ」
―――――私の左手の薬指は、木々の間から、時折差してくる光を反射し、キラキラと光っていた。
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