第23話義母の死と主人の提案
グループホームに入ったお義母さんは、徐々に衰えて行った。
自分で食事をとることもしなくなり、着替えをするのも手助けを必要とし自らは腰かけたままだった。
そのうち、誤嚥性肺炎で危篤となり病院へ担ぎ込まれた。
集中治療室で過ごすようになり、面会も出来なくなった。
お義母さんのお金の管理をしていた妹さんは、毎日100万円の治療代がかかるとこぼしていた。
それをいったん振り込んでから出ないと、高額医療費の申請が出来ないように当時はなっていたからだ。
私は保険の営業をしていた時の知識でリビングニーズが使えるはずだと提案した。
そして、その申請が下りるまでには紆余曲折があったが、何とか当座の費用が賄える保険金が下りたのだった。
そして数か月が経つ頃、お義母さんは亡くなった。
一方で私の父も肺がんが見つかり、こちらは1か月で亡くなってしまった。
二人は2週間ほどの間に続けて亡くなった。
父は生前、がんの告知を受けてからどんどん悪化していった。
生きる希望を失ったからだと思う。
私は父に告知することには反対だった。
それは、良くなる見込みのないことをただ知らしめるだけだったからだ。
しかし、医師は自分の身辺整理をする時間を与える必要があると言って告知を勧めた。
私以外の家族は告知に同意した。
そして間もなく父も旅立っていった。
主人はもう一人子供を欲しがっていたが、お義母さんの介護があるので無理だと思ってあきらめていた。
しかし、お義母さんが亡くなった今、子作りを再開する余裕が出てきた。
私は病気のことが不安だったが、主人の望みを叶えてあげたいと思っていた。
更に主人は自分には出来なかった母との同居を提案してきた。
そうなると、マンションでは手狭になる。
それに資産運用やお金の勉強を続けていた私は、マンションと言うのは修繕積立金不足になるとスラム化しやすいというアメリカの例などを本で読んで、不安になっていた。
一方で一人になった母は、一人暮らしの大変さを訴えるようになってきていた。
私は母との相性が最悪であることがとても心配で自信がなかったが、郊外に一戸建てを建てて同居することを決心した。
マンションを売却するにあたって、仮住まいが必要になる。
私たちは、実家に仮住まいすることにして、母との同居のリハーサルが始まった。
そして、これが最悪の結果を産むことになった。
母の攻撃が止まずに私はまたしても病気を再発することとなった。
息子は一年生となり、実家近くの小学校に上がった。
そして、私は息子に勉強を教えるようになったのだが、母には理解が出来なかったらしい。
教えていると妨害してくるのだ。
「そんな必要がどこにあるの?」
「勉強なんて本人が必要を感じてから始めるべきじゃないの。」
息子はADDだった。
ADDとは注意欠陥障害だ。多動はないのでADHDとは違い、一見おとなしい子にしか見えない。
しかし、担任の先生から課題をやろうとしないと言われていた。
「個別指導が必要なお子さんかもしれません。」と言われた。
だから尚更、子供には勉強を教えてあげる必要があると思っていた。
それを邪魔してくるのだった。
私は自分が育てられたかったように息子を育てたかった。
でもその話をすると、母の育て方に問題があったことを指摘することになる。
そうして母は激怒し、私のトラウマでもある育ちの追体験に直面することになった。
毎日繰り返されるけんかに、息子も元気をなくしていった。
争いが絶えないので、家に帰りたくないと思っていたようだ。
そんな混乱の中、私は妊娠する。
そして、精神的なものも含めて体調を崩し流産してしまった。
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