第8話異動と統合失調症の発病
「俺ばかりが思っているのは苦しいので、目の前から消えていいですか?」
前田さんはそう言って新宿に異動になった。
しかし、私たちの部署も新宿に異動になったのだった。
その頃には仕事でのトラブルが頻発し、怒りと疲弊でもう嫌になっていた。
松川さんとの仲も進展せず、孤独感を感じていた私は情報システム部に異動を申し出た。
プログラムを本格的に学びたいのと今までの部署に嫌気がさしたのが原因だった。
そして、新宿を去り、新天地へ赴いた。
情報システム部での仕事はイメージしていたものとは全く違っていた。
バグ取りと書類整理に追われ、新しい知識は身に着けられなかった。
失望感とともに、眠れない日々が続いた。
すると突然、頭の中にあの夜の出来事がフラッシュバックしてきた。
しかしそれは、正確ではなく、前田さんではなくてかつての部長とのやり取りだった。
車の中で部長に襲われるという妄想が浮かんだ私は、「犯人は部長だ!」と家の中で叫んだ。
「あいつが犯人だったんだ。やっとわかった。」などと妄言を吐き、
母親が異変に気付いて、大学病院の精神科に連れて行こうとした。
私は「病気なのではない。会社が悪いのだ。」と叫んでいた。
母親に引きずられるようにして病院を訪れた。
精神科では、まず薬物検査が行われた。
母はそんなはずはないと抵抗を見せたが、「騙されて飲まされることもあるので。」ということだった。
結果はもちろん陰性だ。
しかし、そのことで急性の統合失調症が疑われることとなった。
私が錯乱しているので、母親が代わりに医師の質問に答えていた。
私は診察室の中に前田さんがいて待ち合わせをしていると思っていた。
そこで、部屋の中をあちこち歩きまわり、前田さんを探した。
心の底で前田さんに助けてほしいという思いがあったのかもしれない。
病歴や育ちなどを聞かれていたが私は答えなかった。
お医者さんもグルになっていると思っていたからだ。
そして診察が終わり、大量の薬をもらって家に帰った。
薬を飲むと体が動かなくなって、横たわることしかできなくなった。
しかし、眠りにつくことは出来なかった。
頭だけが興奮状態で金縛りにあっているみたいだった。
そんな状態でも、通勤だけはしていた。
会社に行かないと正気を保てないと思っていたからだった。
私の異変に気付いた同僚たちは遠巻きにし、上司も様子を見て仕事を与えなくなっていた。
家に帰ってくると、横になるばかりだったが頭の中が内線電話のようになって前田さんと連絡を取り合っているという妄想に取りつかれた。
どんどん距離が近くなって付き合っているという設定だった。
会うことは出来ないものの、頭の中の会話に夢中になっていた。
設定の中では、二人の関係は秘密でお互いだけが付き合っていることを知っていた。
こうして夜の間中、頭の中の会話を楽しみ、一睡もしないまま会社に行っていた。
会社の中では、それでもイベントなどがあると移動があった。その度に前田さんと待ち合わせをしているのだという妄想をしていた。
ずっと眠れていないせいか、曜日の感覚もなくなり月日が飛ぶように過ぎて行った。
会社の側では激務による鬱の症状だと思っていたようだ。
だから、転部の話が出たとき、私は飛びついた。
そして再び新宿に戻っていったのだった。
しかし、新しい部署でも仕事にはならず、自主退職を迫られることになった。
一度だけ、実際に前田さんに会ったことがあった。
「助けて。」と私が言うと「何かわかったんですか?」と彼が言った。
「わからない。」
「じゃあだめだ。」と前田さんは言った。
そして私は自分のフロアに逃げ戻っていった。
内線電話がかかり、「責任を取りたい。」と言われたが私は何も答えなかった。
松川さんには会社を辞めることになったこと、もう二度と会わないことなどを手紙に書いて社内便で送った。
こうして10年にも及ぶ会社生活に別れを告げることとなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます