第19話 治療

陽電子は電子と反応するとエネルギーを放出して対消滅する。電子を持っている物質が陽電子弾頭を受ければ、電子の質量がエネルギーになったことによる爆発と、電子を失うことによる結合喪失により見た目にも消滅したようになる。


PZがどんなに強固な恒常性を持ち、どんなに頑強な骨格を持っていても、物質で構成されている以上は反物質兵器には耐えられない。小早川に眠っていた邪悪な暴力性は、量子力学とともに復活し、アイデアを具現化する術を得て、“こと”を成就できる時を迎えたのだ。


遮蔽物のほとんどない砂丘では、ただ向こうが狙いきれず回避できることを祈ってジグザグに走るしかない。


陽電子砲弾が当たると凄まじい爆風が起きる。対消滅によって砂の質量がエネルギーに変換され、強烈な熱風と放射線になって撒き散らされているのだ。


「人間もどきは人間のように頭で思考しているのか?それとも体積の大きい胴体か?どこから吹き飛ばせば効率良く思考を奪えるのか?細かく出力を調整すればバラバラに解剖して生理機能の解明だってできる!お前らは人間もどき学の礎になるんだ!そして物言えなくなった骸に適当な思考を植え付け、忠実な奴隷にしてやる!100億の人間もどきが全て私の奴隷だ!私は地球帝国の初代皇帝、利明1世になるのだ!」


人間の意識というのはかくも愚かで残虐になれるのか。天才的な核物理学者としての面影はそこにはなく、自らの発明した力に溺れ、自らの肥大した自我のさらなる拡大に執着している。この病禍ですっかり忘れていた、人間の醜さがそこにはぎっしり詰まって、私たちを殺すか弄ぼうと狂笑している。


人間であれば直撃していなくとも肺を焼かれて即死するような高温に、周囲の砂が溶け出してる。走って泥が跳ねたと思ったのは後で見返すとガラスだった。


砲弾が掠って東雲の左肩が無くなり、対消滅の爆風で左腕が千切れ飛ぶ。西条寺の右足にはもろに直撃し、身体全体が爆風で飛ばされたが、左足と両腕を駆使して蜘蛛のように着地する。三つ這いでのそのそと逃げようとしたところ、東雲が右腕で掴み、文字通りの二人三脚で逃げ回る。


人形の驚異的な身体制御を以ても、仮に五体満足でも、この身体で逃げ回るのには限界がある。しかし、より良い身体を綿密にイメージすることなど余裕があっても容易ではなく、イメージできても変身してる間に陽電子砲の餌食だ。


「ゲハハハハハ!さあ次は当たるぞ!次は当たるぞ!陽電子が肛門の奥に溜まってくるようだ!ムラムラする!一気にひり出してやる!めちゃくちゃにしてやる!ムハハッ...」


急に小早川が静かになった。

彼の腹から生えていた極太の円筒は急激に錆びつき、砂のように零れ落ちていく。エネルギー切れだろうか。


今がチャンスだと、今まで味合わされた恐怖と怒りのカクテルを真っ黒な種にして握り締め、小早川の思考を強制停止しようと駆け寄る。


砂煙が晴れたそこにたたずんでいるのは、全身錆び粉にまみれ、パンツ一丁にチェックシャツで呆然とする初老の男だった。


「な、なんだね君たち!やめろ!」

殺気立って走ってくる二人三脚にびっくりして小早川は逃げようとしたが、足首におろしたズボンに引っかかって転んだ。


「やめろ...やめてくれ...もうやめてくれ...」

さっきまでの狂笑が嘘のように、小早川はうずくまって泣いている。


「こいつ言ってましたね。単位を貰えず就職できなかった学生グループに実験室をめちゃくちゃに壊されて研究が頓挫した、みたいな」

「メメントモリが中途半端に効いてる状態みたいだね」


泣き止んだあとの小早川は初接触プロトコルとして再び取材を受けた。


2人に会った記憶を失っており、メメントモリの摂取も覚えていなかった。あの時の学生達は怖かったと語り終えると、憑き物でも落ちたような澄んだ顔になり、ズボンを履いて息子の入学祝いを買いに行った。息子の名前を聞きそびれたが、利明2世ではなさそうだ。


メメントモリの摂取で人形は確かに機能低下を起こすし、ごく稀に人間の自我が目覚める。だが、人形が人間の自我を支配出来なくなっているのではない。


それが人形にとっての「可哀想」の閾値を越えていないから、不快な劇症という程度ではないから、治療していないだけなのだ。

それは、鼻風邪や、やや頭が重いくらいなら病院にいかないようなものだ。


狂笑し病的な野心を覗かせた小早川の自我は、さぞ不愉快で「可哀想」な劇症だったのだろう。病原のメメントモリごと跡形もなく、根治されてしまった。


人形にいつか死は訪れるのか。何もわからなくなって、自我の残骸だけになって無限の放浪を重ねるのは地獄のように思える。死ねるチャンスがあるなら死んだ方が良いのかもしれない。そう思っていた。


この事件で、人形に同化されて以降、初めて死の危険に置かれた。


心には、漠然と望んでいた死の機会に対する喜びはなく、私自身の「死にたくない」という本音だけが必死にしがみついていた。

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