17.おもっ
氷川玲はかつて死んだことがある。
◆
よくよく水に縁があるものだと思う。
聖光神姫リヴィエールが水と光の魔法を得意とするのは当然だ。
なにせ氷川玲という少女は、母親の胎の中ですでに死んでいる。
つまり彼女は水子だったのだから。
玲はもともと死産だった。
しかし母の胎外に出ると同時に息を吹き返した。
どうにか理屈をつけるのなら、彼女は胎内にいた時点で魔法の力を得ていた、天然の魔法少女だったのかもしれない。
その稀有な才能がオートリレイズという形で発現した。
もっとも成長した彼女は蘇生どころか低レベルの治癒魔法しか使えない。だから真相は今も分からないままだ。
一度死んだ子供が蘇る。
それをおぞましいと感じた父は養育費も払わず早々に逃げ出した。
母は見捨てずにいてくれたが、貧乏暮らしを余儀なくされた。
文句はない。そもそもの話、氷川家の貧困は玲が原因だ。まともな食事も出ない日が続いたとして、どの面下げて不満を口にできるというのか。
だいたい母だって、責任感から面倒を見てくれているだけで、愛情を注いではもらえなかった。
きっと、何かを口にすれば母と子の関係は簡単に終わってしまう。
『ああ、おぞましい。水子が生き返るなんて』
母の親戚は玲を化物としてしか見なかった。
小学校に上がっても状況は改善されない。
親族からの化け物扱いは変わらず、事情を知らない子供にとっても貧しくぼろぼろの格好をした玲は格好の標的だったはずだ。
なのに、いじめられることさえなかった。
彼女に妙なちょっかいをかけようとすれば、奇妙な出来事が起こったからだ。
それも水だ。
都合よく水道が壊れたり、プールで溺れそうになったり、水を飲んだだけで苦しみ悶えたり。玲をイジメようとする人間は誰もが水によって害された。
これこそ無意識の魔法の発露だろう。
次第に危害を加えようとする者さえ離れ、彼女は完全に孤立した。
『いいのよ、玲ちゃん。学校になんて行かなくて。外は、危険なことばかり。だから、ずっと、家の中にいましょう?』
そうして氷川玲は不登校になった。
正確に言えば、母が外に出そうとしなかった。
母は日に何度も「大丈夫、大丈夫」と何度も語り掛けてくる。
それを愛情と勘違いできるほど玲は鈍くなかった。
玲を害する者が水によって苦しめられるのなら、彼女を捨てた母がどうなるかなんて、容易に想像がついた。
『大丈夫、大丈夫よ……』
『あなたはちょっと特別な生まれ方をしただけ』
『お外は怖いから、私が守ってあげるから』
『絶対に、外へ出てはダメよ……?』
繰り返される言葉はまるで呪詛のようだ。
外に出さないのは、化物を誰かに見られたくないから。
悪意をぶつけたり、捨てたりしないのは、水が怖いから。
なのに耳障りのいい言葉で隠して縛り付けようとする。
家にいる間に勉強を教えられることも、娯楽に触れることもない。
きっと母は、このまま玲がゆるやかに死んでいくことを望んでいるのだろう。
結局は父の判断が正しかった。
氷川玲はおぞましい化物。
一度も関わらず離れることこそが最良の選択なのだ。
◆
狭い家の中だけで玲は育つ。
母以外の人間とは接さない生活に、言葉を忘れてしまいそうになる。
息苦しさから逃げ出したくて、玲は母の仕事の時を見計らって家を抜け出すようになった。
学校には行けない、人の多いところは怖い。
やることと言えば人気のないところを散歩するくらい。それでも十分な慰めになった。
母の目を盗んで気晴らしに外に出る。
そんなことを繰り返しているうちに、彼女に転機が訪れる。
玲が十一歳の誕生日を迎える少し前のことだ。
いつもの散歩の途中、お腹が減って、公園の水飲み場で空腹を紛らわせようとした。
そこで彼女は遊具の陰に隠れるように倒れた人物を見つける。
それが、当時二十四歳の東翔太朗だった。
『あー、こんばんは、お嬢ちゃん?』
遊具を支えにようやく座位を保っている男は、玲に気付くと困ったようにそう言った。
『……こんばんは』
見るからに怪しい相手だというのに、玲は素直に答えた。
むしろ“怪しいからこそ答えた”が正しい。
たぶん、会話に飢えていたのだろう。それも真っ当な相手なら自分のような化物を相手にしない。
怪しく、逃げられないくらいに焦燥した男ならちゃんと話せるのでは、という淡い期待があった。
『なに、してる、の?』
『何をしてるか、と言われると……失敗した? 稼働時間を、読み違えた。身体が痛くて動けない』
よく分からないが、男はけっこう大変な状態らしい。
『……なにか、する?』
『特には。強いて言うなら、水が欲しい、くらいかな?』
とくんとどこかが鳴った。
男の発言に裏がないことは分かる。それでも忌み嫌われた水を欲したという事実に動揺してしまう。
それが、いけなかったのかもしれない。
精神が揺れたせいで、危害を加えられた訳もないのに、無意識の魔法が発動してしまった。
『わっぷ!?』
男は一瞬で水浸しになってしまった。
とはいえ、その程度で済んだのは相手が東翔太朗だったからだ。
放たれた水の勢いはほとんど攻撃と変わらない。しかしミルメコレオの旧式改造人間である彼は素の耐久力も高く、直撃を受けても無傷だった。
『あー、すっきりした。ありがとね、お嬢ちゃん』
さらには何でもないことのように笑う始末。
それが氷川玲という少女にどれだけの衝撃を与えたか、たぶん翔太朗は知らないだろう。
『……おじさん、ここに住んでるの?』
『ちゃいます。ホームレスじゃないし、ちゃんと就職してるし、おじさんでもない』
『また、来る?』
その問いはきっと、情けなく懇願するような響きをしていた。
男が一瞬戸惑ったのが分かった。
だから始まりは、満たされない少女の打算と、気まぐれな男の同情でしかなった。
『まあ、構わないけどね』
それでも縁は確かに紡がれたのだ。
◆
その日から、玲にとって散歩の時間は明確な楽しみになった。
水を欲し、水を怖がらず、水で壊れない。
そんな男に出会えたのだ。
『れすきゅあー?』
『そう、今はヒーローをそう呼ぶ。俺はそういう人たちがいっぱいいるところで働いているんだ』
『ひーろー?』
『そこからからぁ……』
当時の玲はレスキュアーもヒーローもよく分かっていなかった。
だいたいのことは翔太朗と名乗った男に教えてもらった。
ヒーローは正義の味方。でも大変なお仕事だから、レスキュアーに名前を変えて皆で頑張っている最中らしい。
……じゃあ、いつか私も倒されるのだろうか。
自らを化物だと認識する玲は、そんなことを考えたりもした。
『じゃあ、翔さんもヒーロー?』
『いやいや、俺は違う。正義の味方なんて柄じゃないよ』
『うーん?」
『そんなことより玲ちゃん、今日はお野菜マドレーヌだよ。カロリーも栄養大切』
『わーい!』
対人経験の少ないせいで理解できないことも多かったけれど、翔太朗との会話は楽しかった。
それに彼は、痩せた玲を見かねたのか、頻繁に食べ物を持ってきてくれた。
『翔さんお話して、お話』
『そうだなぁ、じゃあ俺の出会ったヒーローについて』
お菓子を食べながら、まだレスキュアー制度ができる前の、古いヒーローたちの話をしてくれる。
翔太朗自身が憧れているためだろう。語り口には熱が籠って、玲は夢中になって耳を傾けた。
初めて触れる幸せな感覚。
でも、それにのめり込み過ぎてしまった。
帰宅の時間が遅くなり、脱走が母に知られることとなった。
『どうして、あんなに……あんなに言ったのに!?』
半狂乱になって母は詰め寄る。
『外は、怖いところだって言ったでしょう⁉』
『でも、でも……!』
『もう、絶対に。絶対に出さない! お願いだからわかってよぉ⁉』
こうして玲はまた閉じ込められた。
ようやく触れられた幸せは簡単に失われてしまった。
◆
母は仕事を辞めた。
玲が外に出ないよう見張るためだ。
僅かな蓄えを切り崩しての暮らしは、以前よりさらに貧しくなった。
『大丈夫、大丈夫よ……』
母の目には光が宿っていない。
ただ玲を閉じ込めることだけに執着している。
だから、きっと、もうどこにも行けない。
このボロボロの家の中で少女は息絶えるのだ。
『いや、だ』
それが玲には受け入れられなかった。
何も知らない時なら耐えられた。
けれど今は違う。
外を散歩して、彼とお話をして、いっしょにお菓子を食べた。
でもこのままでは、もう二度とお喋り出来ないまま、誰にも気付かれることなく、家の中で息絶えることになる。
『そんなの、いや、だ……!』
なんで自分だけが、こんな目に遭わないといけない。
誰かとお話をして、普通にものを食べたい。
それだけのことがどうして許されないの?
いやだ、こんな家にいたくない。
私を絡めとる全てが、壊れてしまえばいいのに。
そう、強く願った。
そして彼女の願いは、魔力の暴走という形で叶えられてしまう。
今迄は自らに危害を加える者を水が害してきた。
理論としては同じだ。生み出された水がまるで意思を持ったかのように、彼女を閉じ込める檻を壊し始めた。
その姿は魔法というより、単なる不定形の化物でしかなかった。
「あ、ああ……」
そんなつもりはなかった。
しかしもう遅い。家を壊してからも暴れ回る水は玲の存在に気付くと、彼女に向けて水の触手を伸ばした。
主従の逆転だ。
彼女の魔力が生み出したはずの魔法が、使い手を取り込み一個の生命になろうとしている。
けれど玲は逃げられない。
一瞬の叫びであったとしても、この魔法は確かに彼女の本心だった。
だから水の塊も止まらない。
破壊だけでは飽き足らず、今度は母に狙いを定めた。
どうして?
そんなことは願わなかった。
なのに、なんで母を殺そうとする。
……もしかして、私は。
母に死んでほしいと思っていた?
分からない。ただ頭が真っ白になって、気付けば「逃げて」と必死に訴えていた。
気を失っているのか、母はぴくりとも動かない。
このままじゃ、水の魔法に……母が、私に殺される。
その瞬間を恐れて玲は泣きじゃくる。
母を慕っていた訳ではない。それでも死んじゃうのは嫌だ。自分でも何を考えているのかよく分かっていない。
だけど逃げて。お願いだから、誰か助けてください。
声にならない叫びが響く。
それに呼応して、淡々とした男の呟きも聞こえた。
「魔力を核にした不定形の操り人形。使い魔の一種かな。……核さえ潰せば、それで終わりだ」
そうして飛び込んできたのは、黒いプロテクターを装備する改造人間だった。
猫のようなしなやかさで駆け、一瞬で距離を潰し、ただの一撃で化物となった水の塊を打ち抜く。
それでおしまい。
どれだけ願っても止まらなかった水を倒してしまった。
「よ、玲ちゃん。元気?」
その気安い口調は、あきらかに東翔太朗のものだ。
だから氷川玲にとって彼はヒーローである。
レスキュアー登録の出来ない違法な改造人間でも、彼こそが水を……“私という化物”を拳で殴り倒してくれた。
長らく玲を蝕み続けていた呪詛を、“私のヒーロー”が吹っ飛ばしてくれたのだ。
◆
助かった玲が無事だと知るや否や、母は泣いて抱き着いてきた。
義務感と報復の恐怖から養っているだけだと思っていた。
なのに母は「よかった。貴女が無事で、本当に良かった」と心から喜んでくれた。
「……私、邪魔じゃない?」
「何を言っているの」
「このまま、生きていてもいい?」
「あた、あたりまえ、じゃないの! 変なことを言わないで」
こんな風に、普通の怒られ方をしたのは初めてだった。
玲は“自分は生き返った化物でしかない”と思い込み、母はちゃんと産んでやれなかったと悔いていた。
結局は母娘ともども言葉が少なかったのだろう。
お互いに負い目があるせいで踏み込めなかったのだと、今の今まで知らなかった。
「おか、おかあさん……」
はじめて、しっかりと、おかあさんとよべたきがした。
それからはとんとん拍子だった。
不登校のまま小学五年生になった玲は改めて検診を受けた。
当然のごとく魔力が感知され、レスキュアー登録を行い異災機構に身を寄せた。
手はずを整えてくれたのは勿論翔太朗である。
『お母さんを楽させてあげたいなら、仕事を紹介できるよ』
誘い文句は悪役のそれだったが、貧しい氷川家のための提案であるのは間違いなかった。
翔太朗が暴走した水魔法をLDとして報告したおかげで、特に問題なく入社できた。彼は玲を守るために本部にウソをついたのだ。
その心遣いに感謝し、彼女は幼くしてレスキュアーとしての道を歩き始めた。
もっとも、まだ戦闘はこなせないと判断され、訓練の毎日が続く
下積みの見習いのような扱いであり、思うように収入を得られない。
そんな時に手を差し伸べてくれたのも翔太朗だった。
『玲ちゃん。支部長って立場と、君を守るのに必要そうなもん、軒並み全部引っ提げてきた。どう? ウチの支部に来ない?』
彼は色々と功績を上げ、T市の前支部長の引退に際し、新しい支部長として任命されたそうだ。
そこで異動に際して、どう考えても役に立たないだろう幼い玲を、軽い調子で勧誘したのだという。
彼女は一瞬たりと迷わずその手を取った。
選択は正しかった。東支部長の下で聖光神姫リヴィエールは才能を開花させる。
その結果が、戦闘だけでなくタレント系の仕事もこなせる、事務所一番の稼ぎ頭だ。
貧しい暮らしをしていた玲のために支部長は色々とタレント系の仕事をとってきてくれた。
それに報いようと、どんな仕事もこなしてきたことが実を結んだのだ。
そうして氷川玲は母と二人でマンション暮らし。東翔太朗の部屋の隣を借りて住んでいる。
幼い頃の貧しさはどこへやら。高校に通いながらも、レスキュアーの給金で親を養えるレベルになった。
母もずいぶんと落ち着いた。監禁まがいの幼少期に思うところがないわけではないが、今では上手く親娘をやれていると思う。
世間に認められない正義の味方は本質的に化物と変わらない、とは翔太朗の弁だ。
きっと昔の母にも、玲が理解できない化物に見えていた。
それでも自分の娘だから守りたかった。
その気持ちが暴走したのが、かつての母。決して玲を憎んでいた訳ではなかったのだ。
「ごめんなさいね、玲」
「いいよ。気にして……いないとは言えないけど。おかげで出来た縁もあるから」
わだかまりはある。
しかし母がリヴィエールの活躍をスクラップしているのは知っている。東支部長も気遣って事務所での玲について時折話しているようだ。
というよりも、そもそも母とこうやって雑談ができるようになったのも、彼が精神を病んでいた母に向き合ってくれたから。「玲ちゃんのことをもっと見てあげて欲しい」と、母娘がこれからも家族で在れるように心を砕いてくれたのだ。
家族の幸せを祈ってくれた人がいる。
だから、ぎこちないながらもこれからも母娘をやっていきたいと思う。
いつかは、きっと許せる日が来る。
たとえば、白いドレスを着てバージンロードを歩く時。
ちゃんと親娘に戻れた二人が喜びに涙を流せたなら、こんなに素敵なことはないだろう。
マジメな話終了。
◆
【今日の勤務】
<アルバイト日勤>
クラッシャーマン、聖光神姫リヴィエール
──────
……というような話を、クラッシャーマンこと岩本恭二は聞かされていた。
きっかけはごく単純。
『レイちゃんって、支部長のこと好きっしょ? なになに、どんなとこに惚れたの?』
みたいな待機時間中のラブ雑談のつもりで振ってみたら、びっくりするくらいヤバい話が出てきおった。
「だから、支部長は今も昔の私のヒーロー。彼がいたから、今の私がいます。彼が死んでいた私を生き返らせた。化物である私を人間にしました。でも、不満もある。昔は玲ちゃんだったのに、今は氷川さん。役職持ちとして特定のレスキュアーと懇意にはできない、という理屈は分かるけど……」
なお語りはまだ続いている模様。
クラッシャーマンは後悔していた。やべえ、話題選びを失敗した。
レイちゃん、思ったよりもグラビティ。
十六歳なのにもう結婚て。あとバージンロードどうこうのくだり、どう考えても新郎の想定が支部長。
大変っス、既にロックオンされてるっス支部長。
「南城さんやマルティネスさんは名前呼びなのに、ずるいと思います」
「いやー、女の子と男じゃ、やっぱりね」
むー、と可愛らしく頬を膨らませているのに、何故だか背筋が寒くなる。
ちょうどその時、営業で外に出ていた東支部長が帰ってきた。
タイミングがいいんだか悪いんだか。
「お帰りなさい、支部長」
「うん、氷川さん。ただーいま。岩本くんも、留守中なにもなかった?」
「あー、大丈夫っス」
俺のメンタル以外は、とはもちろん言わない。
傍目から見れば、物静かな少女が上司に懐いているというだけ。
しかし内実を考えれば、向ける感情が重すぎる。
「……支部長、ファイト」
まあ、それも対岸の火事。
支部長にはせいぜい頑張っていただければ、なんて考えながらクラッシャーマンは色々なことから目を逸らした。
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