5-15 ドロシー、新たな旅立ち



 古の魔王、エトアルがかつての眷属混沌――カオスを倒して一夜明けた朝。

 ドロシーは聖者たちと共に、【菫大教会】の前に集まっていた。


 エミリー、セドリック、レジーナ。

 そしてスヴァトスラフ司教。


 祈りを捧げ、傷ついた肉体を癒やした彼ら。皆、戦いの疲労で満ちていたが、しかし、その表情は今の空のように晴れ渡っている。


 あんな騒動があったからか、教会周辺に人はいなかったし、そもそも【菫大教会】はリーナのしろちゃんのブレスで半壊状態だ。

 人が寄りついては事故に繋がると、入場規制が敷かれている。


 そんな人気の無い教会前、一面の菫畑の中でスヴァトスラフ司教が言った。


「ドロシーくん、そしてエトアル。君たちのおかげで助かった。感謝してもしきれない」


 曇りなき緑の瞳でスヴァトスラフ司教はドロシーを見つめる。

 彼の灰色の目は、どうやら本来の色ではなかったらしい。

 銀縁眼鏡の下で朽ち葉色の睫を下ろすと、スヴァトスラフ司教はうやうやしく頭を下げた。


「街を護ってくれて、ありがとう」


 そしてゆるりと面を上げて、彼は青さを深めた夏の空を見上げる。


「生まれながらにして、ぼくを蝕んでいた悪しき者……魔族の気配はどこにも感じない。こんなにも清々しい気持ちで満ちたのは生まれて初めてだ……やはり、ドロシーくん。君は聖女ヒトア様の生まれ変わりに違いないようだ」


 それから、新緑の目でドロシーの肩に留まる夜鷹を捉える。


「そして使い魔エトアル。彼が古の魔王であることも、ね」

「ス、スヴァ、トロフ司教。エトアルさんは……その……」


 舌をもつれさせながらドロシーは彼の名を呼べば、彼は、屈託のない笑みをそこに形作った。


「あはは、そう怯えた顔をしないで。ぼくは君たちをどうこうするつもりはないよ。その権利もないし、権限もない。ぼくたちは君たちに救われたのだからね」


 そこで一度言葉を句切ると「まあ、一神学者として……」と彼は続ける。


「聖女ヒトアの生まれ変わりをそのままにしておくのは、実にもったいない気がするけれどね……でも仕方ないことだ。君は旅の魔女。【星鳴きの砂浜】を目指しているのだろう? その邪魔立てはぼくには出来ないよ」


 魔王を封じた聖女ヒトア。彼らが信ずる宗教の元となった人物。その魂だ。

 彼らが唱えていた転生説を裏付ける存在でもある。


「君の魂のことについては、ぼくは何も知らなかったことにする。使い魔のことについても、今、この瞬間から忘れよう」


 ヒトア教にとっては決して放したく存在だろう。

 だがスヴァトスラフ司教は、全てを忘れると約束してくれた。


 ドロシーの旅の妨げになると思ってのことだろう。


「ドロシーさん……わたくしからも、お礼を伝えさせてください」


 レジーナがブルーブルネットを耳にかけながら、潤んだ橙の瞳でドロシーを見る。


「……スヴァトスラフ司教を助けてくださり、心から礼を申し上げますわ。ありがとうございます、ドロシーさん。貴方と貴方の使い魔がいなければ、きっとわたくしたちはあの蜘蛛の魔族に食われていたことでしょうから」


 司教補佐官の言葉が終わると、次に口を開いたのは聖者の姉弟。

 エミリーがドロシーの手を取り、暖かい手の平で優しく包み込んでくる。


「私からも、ドロシー、エトアル……ありがとう。ううん、ありがとうって言葉じゃ、この感謝の気持ちは伝えきれないくらいだわ」

「……ドロシー、君には助けられてばかりだった。オリエッタの時も、ここでのことでも。……ありがとう、ドロシー。それから夜鷹」


 セドリックの黒曜石の視線を受けて、夜鷹はぷいっとそっぽを向いた。別に、彼らの言葉が煩わしかった訳ではないだろう。


 正面から感謝の言葉を受けるのは、気恥ずかしい。

 多分、そんなところに違いない。


「皆……、わたしはわたしの出来ることをしただけだよ。わたしだって、お礼が言いたい。皆の祈りのおかげで、わたしはエトアルさんと混沌の魔を倒すことが出来たんだ。だから、

言わせて――皆、ありがとう」


 ドロシーは眼鏡の奥で目を細めると、はにかんだ。


「――さて、これからが大変だな。祈りの間の修繕に、街の復興だろう? 聖獣も多数失った。元の……いや、本来あるべき姿の【菫大教会】、菫教区に戻るまで、かなりの時間が必要となるだろう。街の怪我人も少なくない。これからがぼくたちの本当の戦いになるだろう」


 カオスに破壊されたのは聖獣タイタンと聖獣カーバンクルの二体。

 スヴァトスラフ司教が繰る聖獣アラクネと、エミリーの聖獣ユニコーンはまだ健在だ。


 この二体が残っているだけでも心強いだろうが、カオスが蹂躙した範囲は広い。スラム周辺はもちろん、人家の多い住宅街も被害に遭ったと言う。

 彼が一人でも多く犠牲を増やそうと放った仔蜘蛛による被害も甚大だ。


「今回の事件は、ぼくの魂の弱さが引き起こしたものだ。ぼくの全てを賭けて、復興に尽力したいと思っている。……どうか、皆、手伝って欲しい」

「もちろんですわ、スヴァトスラフ司教」

「そうです、お義父さま。私たちで……」

「ああ、俺たちの力で、街の皆を助けましょう!」


 スヴァトスラフ司教の言葉に顔を見合わせ、強い繋がりを確信するように頷く聖者たち。


 やはり、街があのような状態では、このままさようならと街を離れるわけにはいかない。

 ここで口を挟むのは、家族の強い絆に水を差すようで、少しばかり気が遅れたが。


「あ、あの。わたし、別にそこまで急いでいるわけでもないし、もう少し残って、復興のお手伝いが出来るなら……」


 そこまで言って、ドロシーは肩に止まる夜鷹を見た。


「いいよね、エトアルさん」

「主がそう望むなら、それで」


 夜鷹はいつもと変わらない調子で囀る。

 かつての自分の部下を食らったとは思えない、変わらないエトアルだった。


「エトアルさんも残って良いって言うし、しばらくは……」

「……それは止めた方が良いかもしれないわ、ドロシー」

「ふぇ? リーナ?」


 ドロシーの言葉に重なるようにして投げかけられるのは、凜とした鈴のような声。

 月明かりの髪を夏の風に揺らす親友リーナが、ずんずんと菫畑に走る遊歩道を進んでくる。


 それから彼女は、突如として現れた魔女候補生の姿に呆けるドロシーと聖者たちに見せつけるようにして、その手に握る紙の束を突きつけた。


「これを見て、今日の朝刊よ。ミデロ・メール全国紙の一面記事」

「……へっ?! こ、これ、わ、わたしっ?!」


 そこにはでかでかと一面を飾るドロシーの姿があった。

 杖を握りしめ、丸眼鏡の奥に位置する双眸をきりっと鋭く細め、どこかを睨む長い三つ編みの魔女。


 これはドロシーに他ならない。


(い、いったいどこで撮られたのっ?!)


 おそらく、エトアルと共にオリエッタのところに降り立った時の写真だろう。

 写真に見切れるようにして、猫の魔女の使い魔、火車の尻尾が映り込んでいる。


 しかし上手い具合にエトアルとオリエッタが見切れている。

 凄い撮影技術である。


「我が国の陛下もお読みになる、国一番の新聞に……貴方、載っちゃったのよ。これがどういうことを意味するか分かる?」

「えっと……それは……?」


 ドロシーは恐る恐る訊ねた。

 リーナはその形の良い唇を緩めて微笑む。


「今に貴方の元に人が殺到するでしょうね。〝救国の魔女〟なんて書かれちゃったんだもの」

「……ええっ?! きゅ、救国ぅ?!」


 ドロシーはひっくり返りそうになった。

 一面記事を飾る白黒の自分の姿にばかり目が行っていて、ドロシーはその見出しをちゃんと見ていなかった。


「えっと、なになに? 〝彗星のごとく現れし赤毛の魔女ドロシー・ローズ。リキノトを救う〟……凄い、ドロシーの事、とっても素敵に書いてあるわ」


 興味深げにリーナの掲げる新聞記事の見出しを読み上げるエミリー。

 彼女はドロシーを賞賛する文面を素直に喜んでいるが、ドロシーはそうではない。


(は、恥ずかしいっ)


 顔が火照ってくるのをドロシーは感じていた。

 いや、こうも賞賛されるのは嫌ではないが、ずっと誰かしらに〝落ちこぼれ〟だの〝穀潰し〟だの言われ続けたドロシーには、ここまで大きな賞賛の言葉を受け止めるに慣れていない。


(……顔から火が出そう!)


「……この書き始めを見るに、あのフィンって記者の記事でしょうね。前も貴方のこと、こんな風に書いていたもの」


 リーナははあ、とどこか複雑な色味を混ぜた溜息を吐く。


「私のドロシーが有名になるのは、嬉しいような、悔しいような……複雑ね」


 ドロシーはずりさがった眼鏡を元の位置に戻すと、リーナの手からその新聞を受け取ると、あの新米記者が書いたと思しき文面に目を通していった。


 ――勇猛かかんに巨大蜘蛛の魔獣と戦い、リキノトを守る赤毛の魔女。彼女の名はドロシー・ローズ。使い魔である夜鷹の魔獣と共に赤く燃える夜を駆ける彼女は、街を蹂躙する魔獣を討ち滅ぼした――


 記事にはカオスのことについては、一切不明としながら、ドロシーがどのようにして蜘蛛の魔獣を打ち倒すに至ったかが事細かに記されていた。


 写真もきっとフィンが撮ったのだろう。

 いったいいつの間に撮って、どこから見ていたのかは不明だが。


 あの糸と仔蜘蛛の群れをよく掻い潜って生還したと思う。

 彼の記者魂は本物だ。ただ、賞賛が過ぎるという点を除いては。


 ――リキノトはルクグ王国の流通の要にして心臓部。重要防衛拠点でもある【菫大教会】と共に、この街を巨大蜘蛛魔獣から守り抜いた彼女を筆者は〝救国の魔女〟と呼称をしたい。リキノトを救った偉大なる〝救国の魔女〟ドロシーに感謝の言葉を――


「きゅ、〝救国の魔女〟って大げさ過ぎですよっ!? もう、フィンさん、こういうのは困りますっ! わたしはただ、旅をしていただけで……結果として、街を救ったかもしれないですけど、〝救国〟って……!」


 この場にいないフィン・ホフマンに、顔を真っ赤にしながらドロシーは苦言を呈した。


「それに、最後にカオスを倒したのは、わたしじゃなくて……エトアルさんなんですよ。それに、全部わたし一人の力で成し遂げたわけじゃないし、皆の力があって……」

「この魔獣の襲撃が、数千年前に起きた古の戦いから続く因縁によるものだと書いたところで、誰も理解できまい。そなたの活躍により、ヤツに引導を渡すことが出来たのも事実。今はこの賞賛の言葉を受け入れるのが良いだろう」

「……でも、恥ずかしいです」

「夜鷹に何と言われたのかは分からないけど、これぐらい過剰なくらいが丁度良いと思うわよ。あの学長、この記事を読んで、顔青くするどころか真っ白になってそうね。いいお灸だわ」


 ふふ、とリーナは愉快そうに笑った。

 あの強引な追放じみた退学処分について、ドロシーはもう何とも思ってもいなかったが、リーナはそうではないらしい。


(……リーナ、怖い……!)


 ドロシーが親友の冷徹な一面に背筋を震わせた時だった。

 菫畑をそよがせる青い風に混じって、騒々しい声が流れてくる。


「大変です! スヴァトスラフ司教っ!」


 さらなる来訪者は、菫の法衣を纏った女性聖職者。

 オリエッタを寝かせていた部屋の番をしていた、彼女だ。


「どうしたんだい? リキノトで何か?」


 血相を変えてやって来た彼女に、和やかな場の雰囲気は一転。

 ぴりっとした緊張感で包まれた。


「い、いえ、その……あの新聞記事のせいか、市民がドロシーさんに一目会いたいと殺到していまして……。ドロシーさんがここにいると誰が言ったのかは不明ですが、あの勢いは、もう……人払いのための警備もはねのけてしまうでしょう」


 彼女の言葉にリーナが「思ったより早かったわね」と一つ呟く。


「おおっと、それはそれは……」


 スヴァトスラフ司教が呆気に取られている。


 夜鷹がドロシーの肩より飛び立ち、上空から一度地上を偵察。間もなく、戻って来た彼は辟易とした声で「凄まじい人の数だ」と告げた。


「あれが殺到しては、小柄なそなたでは窒息しかねんぞ。思えばこの都市の人間は、旅に疲れた聖者を追い回すような輩ばかりであったな」


 確かに、リキノトについたばかりの時、エミリーとセドリックを市民は追い回していた。

 一人が声を上げれば、わらわらと方々から集まる人の姿を思いだし、ドロシーはぶるりと肩を震わせる。


 そんな肩に手を置くのは、スヴァトスラフ司教だ。


「ドロシーくん。ぼくたちに構わず、行くといい。ここはぼくたちの街。ぼくたちの力で復興するよ。教会の裏から抜けて、宿舎から荷物を持ってくるといい。彼らの対応はぼくたちに任せて」


 スヴァトスラフ司教は東の方角を指さした。


「街の東から出れば【星鳴きの砂浜】へと続く街道に出る。道しるべもあるし、それに従って移動すれば半日程度で着くはずさ」

「良いんですか?」

「ええもちろん。スヴァトスラフ司教のお言葉通り、ドロシーさんはどうぞ自分の旅を大切になさってください」


 レジーナの言葉に続いて、エミリーとセドリックの姉弟が口々に言った。


「またいつでも遊びに来てね。ここでお別れはちょっと寂しいけど……私たちはここにいるから」

「ドロシー、君とまた会える日を俺は楽しみにしてる」

「……うん、二人とも元気でね」


 手短な挨拶。もっと話したいことは山ほどあったが、だが、時間もない。

 ドロシーは最後に、窮地の中助けに来てくれた親友へと向き直った。


「リーナ」


 新聞を彼女に返してから、ドロシーは胸のペンダントに触れる。


「リーナ、ありがとう。このペンダントのおかげで、わたし、カオスを倒せたんだと思う。……もう力を失っちゃったけど。大事に持って行くね」

「大好きなドロシー、貴方は立派な魔女……頼りがいのある使い魔もいるものね。だから、もう私は心配はないわ」

「うん」


 ドロシーは、ルクグ王立第三三魔法学校を出るあの時のように、リーナにハグをした。


「いつかまた会おうね、リーナ」

「ええ、またね、ドロシー。意外とまたすぐに会えるかもしれないわよ」


 一層強く抱き締めて、親友から離れると、ドロシーは菫畑に集まる皆を見た。


「……それじゃあ、また! また会おうね!」


 四人の聖者と、親友に向かって大きく手を振ると、ドロシーは駆け出した。

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