5-14 ドロシー、夜を護る
彼の腕の中で、ドロシーは自身の杖を強く抱き、オリエッタが切り開いた夜の空を眺め
る。
(夜が燃えてる……)
赤く燃える夜。
それは猫の魔女が放った火の赤でもあったし、潰された家屋から上がった火の赤でもある。
(まるで戦争みたい)
ドロシーが人づてに聞いた、先の大戦。その惨状。遠く燃える夜空の話を想起する。
「まああああああああっ!」
二股に分かれた尾の先に青い炎を生み出した火車が鳴く。
猫と魔女、使い魔と主人は力を合わせ、破竹の勢いで仔蜘蛛たちを焼き払っていく。
エトアルは彼女が切り開いた道を、低空飛行で通り抜けた。
次第に、遠くに見えていたカオスの輪郭が濃くなってくる。
灰色の混沌。悍ましい四対の足。きちきちと肌を粟立たせる鳴き声を吐き出しながら、どこを見ているかも分からない複眼で夜を見上げている。
「こっちだ、ぶちちゃん!」
「なあんっ!」
オリエッタが指示を出し、ぶちちゃんは大きく跳躍。背の高いビルの壁を駆け上った。その間、オリエッタは《火球》で建物を覆う糸を焼いていく。
巨大な化け猫が通れる程度の道を作ったオリエッタは、赤く燃える夜に向かって猫の杖を突き出した。
彼女の視線の先には、巨大な蜘蛛の大きな腹の横っ面が広がっている。
「このやろ、うちのダチの酒返せ!」
オリエッタが呪文を唱える。
それは《赤龍の息吹》の呪文だ。
火系魔法の中でも最上位に位置するこの魔法は、《火球》や《業火》をも遙かに凌ぐ火力で相手を焼き尽くす。
「――灰となれ!――」
《赤龍の息吹》の最後の一単語を口にすると、赤き魔力がオリエッタを包み込み、巨大な炎となって放たれた。
轟。
熱波がドロシーとエトアルの髪を焦がしていく。
どこからか飛んできた紙くずや、わらわらと襲いかかってきた仔蜘蛛を巻き込みながら、蜘蛛の腹に向かって突き進む。
腹の上に着弾し、炎は大蜘蛛を火だるまにしたかに思われたが。
「にゃんたること! うちの《赤龍の息吹》が効かない?」
オリエッタは愛猫の背中の上で打ちひしがれていた。
あの激しい炎を正面から受けながら、カオスは一切のダメージを感じさせない歩みで平然と行進を続けている。
「法力の抑圧から解放されたカオスの魔力に、貴様の魔力では敵わぬ」
「じゃあどうすりゃいいわけ、ハンサムさん」
親を襲う魔女を倒そうとビルの屋上にまで這い上ってきた仔蜘蛛の一匹を杖で殴り飛ばしながら、オリエッタは苛立たしそうに訊ねて来る。
「我は夜の王」
「……はい?」
「かつては混沌の蜘蛛の主であった。この騒動の発端にあるのは、遙か古の戦いの禍根。我が王の勤めを果たせなかったがゆえ。ヤツには我が引導を渡す」
そしてエトアルは、口角を緩めると静かにねぎらいの言葉をオリエッタにかけた。
「猫の魔女よ、苦労であった。貴様が作り出した炎の道、利用させてもらうぞ!」
エトアルがより一層強くドロシーを抱き締め、《赤龍の息吹》が生み出した道を息も詰まる速度で突き進む。
そこで光が生まれた。
地下から染み出る湧き水のように、静かに、立ち上る星の光――
「にゃあ? この光はっ……!」
後方でオリエッタの戸惑う声が聞こえる。
同時に、火車が苦しげなうめき声を上げた。
どこか懐かしく、どこか恐ろしく感じるその力には覚えがある。
ドロシーは光に目を細めながら「エミリーたちだ」と呟いた。
「皆の祈りが結界に……」
その光はドロシーに激しい息苦しさと心地よさを与えていた。
スヴァトスラフ司教に、司教補佐官レジーナ、エミリー、セドリック。
彼らの気配をドロシーは感じていた。
リキノトが誇る聖者たちの祈りが結界となってカオスを取り囲んでいる。
「……これだけの結界、ヤツを足止めするには十分だな」
エトアルの言葉通り、オリエッタの《赤龍の息吹》では止めることの出来なかった蜘蛛の行進が、結界が展開された瞬間から鈍く、遅くなっている。
魔力を拒む法力がカオスを苦しめている。
「でも、エトアルさんも」
「この程度、大したことはない」
そうは言うが、彼の横顔は苦悶の表情を浮かべている。
法力は剥き身の魔力そのものであるエトアルには毒だ。激しい苦痛を感じていることだろう。
しかし、それはカオスも同じ事だった。
エトアルはカオスまでの距離を詰めると、その複眼の上に飛び上がった。
鏡面のように燃える夜を映し出す蜘蛛の目。
そこに映る夜の王の姿を捉えた時だ。
――ぎいいぃいいいぃぃいいいいっ!
ガラスを爪でひっかいたような不快な音が、カオスの鋏角より奏でられる。
カオスの体を覆っていた、灰色の魔力がぎちぎちと音を立てる口元へと集まる。
「最期の足掻きかっ!」
これまでの戦いの中で、もっとも激しい魔力のうねりをドロシーは感じていた。
一人でも多くの道連れを作ろうとしているカオスだ。
自分の命の全てを賭けた最期の攻撃を、今、まさに繰り出そうとしているのだ。
この魔力の全てが解き放たれれば、いくら結界があったとしても、街はもちろん、これだけ接近しているエトアルだってただでは済まないだろう。
「……エトアルさん、わたしをカオスの上に落として」
「主よ、カオスは己の魔力のすべてを解き放とうとしているのだぞ? そこにそなたを放り出せばどうなるか……」
これだけの魔力だ、正面からぶつかれば、ドロシーなんて肉片も残らないだろう。
だが、ドロシーは力強く答えた。
「大丈夫、今のわたしならきっと出来る気がする。エトアルさん、わたしを信じて。わたしは貴方を封じた聖女ヒトアの魂を持ってるんだよ? これくらいの魔力、平気だよ」
そう言って、ドロシーはそっとエトアルの頬に触れた。
彼がドロシーを落ち着かせようとした時と同じ手つきで優しく撫でて、に、と笑ってみせた。
そこで彼は目を見張り、一拍の間を置いてから小さく頷く。
彼は気付いたのかもしれない。
今、ドロシーの心の奥底から沸き起こる、この感情の奔流に。
「エトアルさんはずっとわたしを守ってきてくれた、だから」
ドロシーはエトアルの手を離れた。
重力がドロシーをたぐり寄せる。
「――今度はわたしが貴方を守るっ!」
自由落下。胃が縮み上がる。三角帽子がドロシーの頭から外れ、長すぎる三つ編みが風に煽られ暴れている。
だが怖くはない。
ドロシーはミスティルテインの杖を抱きながら、指を組んだ。
今、胸に沸き起こるのは、純粋な思い。
この夜を護りたい。
この街を、この街を見守る夜を、皆が必死に戦うこの夜を、エトアルをドロシーは守りたい。
強い光がドロシーの胸から生まれた。風に煽られ揺れるペンダントにも光が宿る。月のような大粒のペンダントトップが、ドロシーの想いに答えるように仄かに輝いた。
ドロシーの全てを白に、いや、周囲のすべてを白に塗りつぶす閃光が、迸る。
カオスが撃ち放つ灰色の魔力をも飲み込んで、音もなく広がる光。
その光が、街を通り抜けていった時には、もう、カオスの魔力は見当たらない。
ドロシーの法力が、混沌の魔力を打ち消したのだ。
「エトアルさん!」
ドロシーは落ちながら叫んでいた。
相棒である使い魔の名を、高らかに。
「――ああ、主! 我に任せよっ!」
翼を閉じ、急降下するエトアル。
彼の手には、彼の瞳と同じ色をした大鎌が握られていた。
エトアルが大鎌を振りかぶる。
夜の色。彼の瞳の色。リキノトを包む色。
全てを内包した夜の刃が、混濁した灰色の蜘蛛の額に突き刺さり――
――ぎぃぃいいいいいいいいいいいっ!
カオスは鳴いた。叫んだ。吠えた。
それが彼の最期の声だった。
額を割る夜の鎌より浸潤する王の魔力。
夜が灰を侵食していく。
夜が灰を食らっていく。
蜘蛛の複眼が夜色に変わったその時、ぱ、とカオスの全てが夜になった。
星の輝きを内包した複雑な夜空の色。ドロシーの愛する夜空の色。エトアルの色。
巨大な魔力の塊は、夜の王の体へと集まり、吸収されていく。
眷属の魔力を食らい終えたエトアルは、そのまま落下を続けるドロシーの元へとさらに急降下。
両手で受け止めると、倒壊した家屋の瓦礫の上に降り立った。
しばらくぶりの地面の感触を、靴底越しに噛みしめながら、ドロシーはエトアルを見上げた。
大鎌を消し、翼を消し、いつもの魔王形態となったエトアル。
「エトアルさん、わたしたち……」
彼を見つめ、ドロシーは頬をほころばせた。
「――街を救ったんだよ!」
そして、ドロシーの黄色い声に面食らう使い魔王に飛びかかった。
青白い彼の手を取ってぶんぶんと上下に何度もシェイク。
早鐘を打つ心臓が落ち着いてくるまで、ドロシーはエトアルの手を握り続けた。
「主よ。喜びを噛みしめているところ悪いが……」
「……エトアルさん?」
しばらく主人の玩具になっていたエトアルだったが、しばらく経ったところでそっとドロシーの手を外した。それから、瓦礫の山を下り、何かを拾っては戻って来る。
「主よ、落とし物だ」
そう言って、彼は三角帽子に付いた埃を払うと、エトアルは優しくドロシーに被せた。
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