5-13 ドロシー、蜘蛛の糸を掻い潜る
「エトアルさん、あそこ!」
空を切る音が、一対の翼が羽ばたく音が、ドロシーの耳朶を叩いていく。
眼下に広がるのは、ルクグ王国が誇る大都市リキノトの広大な街並みだ。
魔石灯の輝きが、街の方々に走る血管のような道の筋道を夜の中に浮かばせている。
その一点をドロシーは指さした。
灰色の大蜘蛛――カオスが街を蹂躙している。
「大きい。祈りの間の時よりもずっと大きいっ……」
魔力を纏い、肥大化した姿といえど、その大きさは【菫大教会】の祈りの間に収まる程度の大きさだった。リーナの白龍よりも一回り以上小さいくらい。
しかし、今のカオスの体は、三階建てのビルに並ぶほど。
家々をその節の目立つ足で串刺しにし、なぎ倒し、破壊の限りを尽くす様は、まさに混沌。
巨大な蜘蛛の魔獣――実際には魔族ではあったが――の襲来に、リキノトの人々は完全にパニック状態にあった。
彼らは常に【菫大教会】の祈りの結界によって守られていた。ここまで巨大な化け物に襲われるだなんて思いもしなかったはずだ。
スヴァトスラフ司教の言葉がミデロ・メール本社を経由し、街の人々に届くまでまだ時間はかかるだろう。
道に殺到し、逃げ惑う人々。
そんな住人たちの影に飛びかかるのは、また別の灰色の影。
「あれ、見てくださいっ! 仔蜘蛛までっ……!」
それは小さな蜘蛛だ。
小さいと言っても、今の巨大化したカオスと比べてのこと。実際には、大型犬ほどはあるだろう。
「法力で抑え込まれていた魔力の全てを解放したか。自分の魔力を分けた分身を解き放ち、魔力尽き果てるまでヤツは殺し続けるつもりなのであろうな」
「一人でも多く道連れにするために……っ、早く、止めなくちゃ」
「ああ、だが、下手には下りることは出来ぬ」
「どうして……?」
「主よ、その眼鏡越しに良く見てみるがよい……糸だ。仔蜘蛛を放ったのは、何も人を殺すためだけではないようだな」
エトアルに促されて、ドロシーははっとした。
家々の間、ビル群の間、道と道の間。張り巡らされるのは、粘着質な蜘蛛の糸だ。
不用意に下りようものなら、糸に絡め取られ、飛行移動は難しくなるだろう。
「我が下りてくるのを予想したか、通行人を一人でも多く絡め取る気なのかは知らぬが。下手に下りれば、我らは聖人のように貼り付けになってしまうであろう」
実際エトアルの言うように、蜘蛛の糸に絡め取られたと思しき人の姿もちらほらと見えた。
そこに群がる仔蜘蛛と、そこに囚われた人々を助けようとする人々。
逃げる者、戦う者。
魔法が飛び交っている。
「凄い魔力――戦ってる人がいるんだ」
リキノトは大都市だ。ドロシーのような魔法使いの数も少なくないはずだ。
軍人にしろ、野良魔法使いにしろ、傭兵にしろ。
この惨状をどうにか生き残ろうと戦っている者がいる。
火が上がり、雷が突き立ち、風が巻き起こる。怒濤の水が放たれ、光が立ち上り、あるいは闇が這う。
そこでドロシーは青い炎が立ち上るのを見逃さなかった。
さながら物語に登場する人魂のように燃える青の火には見覚えがある。
「やっほー!」
答え合わせはその使い魔の主が自ら行った。
二階建ての家屋。その屋根の上、一人の影がこちらに向かって大きく手を振っている。
「こっちこっちハンサムさんと子ウサギちゃん! こっち側の糸はうちとぶちちゃんが焼き切ったからさっ!」
オリエッタだ。
猫耳三角帽子の下で、緊張感のない笑みを浮かべている。
「オリエッタさん!」
「心配なら、うちがさらに焼き切ってあ・げ・る♡」
声を張って猫の杖を掲げると、オリエッタは《火球》を展開。一つ、二つ、三つ、四つとオリエッタの周囲に浮かぶこぶし大の炎が、さながら花火のように打ち上がる。
滞空するエトアルの側を駆け抜けてゆく炎が、焼け焦げた蜘蛛の糸を照らし出していった。
エトアルはそのまま、火球が作り出した焦げ臭い糸の抜け道を下り、猫耳三角帽子が待つ屋根へと急降下。
ふわりと柔らかく着地するものの、うぷ、とドロシーは嘔吐いた。浮遊感がどうにも弱った胃を刺激してならない。
「にゃん、しばらくぶりぃ。無事なようでなによりにゃあ。うさちゃんの体調は最悪そうだけど」
ぱちんと長い睫を下ろしてウインク。
それから、いつになく軽薄な表情を捨てて目を据わらせると、道にひしめき合う仔蜘蛛と逃げ惑う人々、そしてその中で戦う魔法使いらへと視線を落とした。
「気を付けるんだにゃ。そこら中蜘蛛の糸だらけ。引っかかったら簡単には抜け出せないよん。ナイフ程度じゃ切り落とせないし、うちみたいに火魔法で焼き切るしかないね」
「まあああああああっ」
家屋の壁を蹴って、屋根へと躍り出るのは熊ほどもある巨大なぶち猫。
二股に分かれた尾を不機嫌そうに揺らしたぶちちゃんは、その大きな頭をオリエッタの背中に擦り付けた。
「ぶちちゃんも最悪だって鳴いてるにゃあ。あーん、せっかくのローブがベタベタ。お酒もべたべた~」
オリエッタが民家の採光窓の上に置いていた瓶を拾い上げる。
ラベルの貼り付けられた瓶には、彼女が言うようにべたべたとした蜘蛛の糸の残骸が張り付いていた。
「……お酒飲んでたんですか?」
「そ、快気祝いに、近場にいたダチらと酒盛り楽しんでたら、バーが潰されちゃってねぇ。これ、最後の一本なんだにゃ」
ぐび、と酒瓶を一気に傾けて、その中身を飲み干すオリエッタ。
口元を伝う褐色の液体を手の甲で拭っては、猫の魔女は遠く、家屋を踏み抜いて街を進む蜘蛛の背中を睨み付けた。
カオスは人気の多い住宅街を目指して突き進んでいるように見えた。
「あの化け物、……アイツから這い出てきた仔蜘蛛から感じる魔力を考えるに、あの魔石の持ち主の使い魔か……それ以上のなにかってとこでしょ?」
そして空っぽになった酒瓶を道の脇に放り投げると、彼女はにゃは、と軽薄に笑った。
「こう言うの興奮しちゃうよねぇ……ゾクゾクしちゃう!」
我が身を抱いて身震いするオリエッタ。酔っていても酔っていなくても彼女の言動は変わらないようだ。
「――猫女、先から見える魔法は貴様の仲間のものか?」
「そ、あのわらわらと気色悪い蜘蛛の足止めするためにね……にゃ、どうしてって顔してるにゃ。教えてあげるよ、赤毛のうさちゃん。ここはうちとダチらの街なのさ。ちな、バーはうちのダチの店ね。ちょっと前まであのデカブツのケツの下に敷かれてた場所さ」
ち、とオリエッタは苛立たしそうに舌打ちをした。
「貴様の炎は貴重だ。この街を守りたければ、我らに協力しろ猫女」
「にゃあん。それって依頼? んー、お礼に後でキスしてくれるなら良いよん? ハンサムさんうちの超タイプだし?」
「……下らぬ戯れ言を吐いている間にリキノトが蜘蛛の巣に沈むぞ?」
こんな一大事にも軽薄さを失わないオリエッタに、エトアルは辟易とした視線を向ける。
そんな彼の視線でさえ快感であると言うように、オリエッタは艶っぽく笑った。
「はいはい、分かった分かった。ちゃんとやりますって。ウサギちゃんには借りもあるしね……で、どうすればいいのかにゃ?」
「わたしたちはあの大蜘蛛のところに行きたいんです。でも糸が邪魔で近くに行くのも難しくて。だから、オリエッタさんのぶちちゃんと魔法で道を切り開いて欲しいんです」
「なるほど、特攻隊長ってこと?」
「さよう」
「なんだ、燃えるじゃん」
にゃはは、とオリエッタは上機嫌な笑声を上げては、隣で指示を待つ化け猫の顎を強く掻いた。
気持ちよさそうに目を細める火車の背中をぽん、と叩く。
「さ、ぶちちゃん! 行くにゃっ!」
「まあああっ!」
青い炎を纏う火車の背中に跨がると、オリエッタは猫の意匠が施された杖を掲げる。
「野郎共! 仔蜘蛛連中を殲滅するんだよっ! うちらの街を守るんだっ!」
雄々しい声でがなり立てる猫の魔女。分裂した灰色の蜘蛛の群れに苦戦する仲間を鼓舞するように叫んでは、火魔法《火球》を撃ち放つ。
「――アネキはどうするんです?!」
どこからか男の魔法使いの声が上がった。
オリエッタの〝ダチ〟の一人だろう。
「うちはあのデカブツのケツを焼くお仕事を貰ったのさ。お前らは、街を守ることだけ考えてろっ! いいな、一人も死ぬなよ!」
太った化け猫と共に、オリエッタは悍ましいほどに数を増やした蜘蛛の群れの中に飛び込んでいった。
化け猫火車が放つ青い炎と、オリエッタが繰る《火球》。この二つの炎で、糸に覆われた道を焼き、切り開いていく。
「さて、新たに糸を張られるより前に、主よ」
すっと差し出されたエトアルの手を取って、ドロシーは力強く答えた。
「行きましょう、エトアルさん」
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