5-12 ドロシー、混沌を追い詰める
「……り、リーナ。嘘でしょ、どうしてここに……」
ドロシーは眼鏡をずらし、自分の目を擦る。もう一度、眼鏡をかけて、恐れ多くも【菫大教会】の壁をぶち破って登場した親友の姿を見た。
満月色の髪は美しく、魔女候補生の黒いローブもどこぞの有名ブランドのドレスのように着こなした美少女。
リーナ・アクロヴァは背後に白龍を従えながら、深紅の瞳で時の存在を忘れた祈りの間を見渡し――それだけで事態をすっかり把握したようだった。
ドロシーの問いに答える時間などないと言うように、彼女は深紅の瞳をドロシーのペンダントへと送り、早口に捲し立てた。
「栗毛の聖女さん、貴方の結界で守って。花冠を戴く聖女なら、それぐらいできるでしょ? この位置だと、貴方のお仲間、吹っ飛ぶわよ」
「え、え? わ、分かったわ。ユニコーン! 皆を守って」
エミリーの声に呼応するハンドベルの雄叫び。
光がドロシーらを包み込む。エミリーの渾身の結界だ。
「……ドロシーの頬に傷が出来てる……もう、この教会がどうなろうがどうでもいいわ。かりに倒壊しても、お父様が何とかしてくれるでしょ。お義母さまもね、面子のためならいくらでもお金を積むものね」
リーナが横に数歩悠々とした歩みでずれ、そして大きくその左手を広げた。そして彼女は指し示す。巨大な灰色の蜘蛛こそが、標的であるというように。
「小娘! 黙っていれば勝手なことをっ!」
カオスが混沌の魔力を鋏角の周囲に集め、魔法弾の発射準備に入る。
だが、それ以上より先に、リーナの白龍こと、しろちゃんが吠えた。
――おおおおおおおおおおううううううんんんんんんっ!
地響きにも似た振動がドロシーの腹の底に伝わる。
「主っ!」
エトアルがドロシーを龍のブレスから守るように覆い被さると同時、白き龍のブレスが、一直線にカオスへと突き立った。
流石のカオスも魔獣の王とも称される龍の、最大出力のブレスには敵わないようだった。
怒濤として押し寄せる光の奔流に押し流され、蜘蛛の巨躯は祈りの間の壁に激突し、そして――灰色の魔力が塵が風に巻き上げられ消えていくように霧散していった。
そして激しい白龍の光のブレス、怒濤の魔力の一発を食らったカオスは、祈りの間に転がった。彼はもう蜘蛛の姿をしていない。
スヴァトスラフ司教の皮を被った姿で、壁に背を預けている。
「……助かったぞ、聖女に小娘、白龍」
エトアルがゆらりと立ち上がる。
そして、腕の中にあったドロシーを見下ろし「主よ、怪我はないか?」と訊ねた。
「大丈夫です。エトアルさんとエミリーのおかげで」
ドロシーの横で、エミリーが苦しそうに呼吸を続けている。
あの龍のブレスからドロシーとセドリック、レジーナを守るために心から祈りを捧げていたのだ。彼女の持てるだけの法力を込めて。
膝を折るのはエミリーだけではない。彼女の聖獣ユニコーンもまた同じく、床に膝を突き、長い首をしなだれさせている。
この様子では、エミリーはもう結界を張ることは難しいだろう。
(今が最後のチャンス)
ドロシーは杖を支えに立ち上がると、エトアルと共にぐったりと倒れるカオスの元へと急いだ。
彼が肉と形容したスヴァトスラフ司教の体は、著しいダメージを受けていた。蜘蛛の魔力という分厚い装甲をもってしても、魔獣の王の渾身のブレスを受け止めることは出来なかったようだ。
腕は明後日の方角に、同じく足もまた正常な位置を向いていない。
菫の冠も眼鏡も消え、残されたのは広い額にぱっくりと開いた傷。赤い血が、彼の顔を汚している。
「して、どうする、カオスよ。流出した魔力も、貴様の小道具のおかげでいくらか回復した。貴様を食らうことも我には不可能ではない」
エトアルの手には再び夜色の大鎌が握られていた。
カオスがエトアルの魔力を食って一時的に魔力を増幅したように、エトアルもまたカオスの魔力を食らって負傷した体を癒やした。
今や形成は逆転。
彼の味方はどこにもいなかった。彼のために祈ってくれる者はもう、どこにもいない。
「魂を自在に操る術を身につけた貴様のことだ、とうに、その肉を捨てる選択肢を採ることもできたであろう? 選べ、カオス。全てを諦め、司教を解放し、自由となるか――あるいは我の糧となるか。二択の時だ」
戦闘の中で失われた眼鏡。銀縁の彩りを亡くした灰色の双眸が、信じられないというようにかつての王を見上げていた。そして強く歯を噛みしめ、カオスは叫ぶ。
「クソ、クソ、クソ……僕は認めないぞっ! 王も裏切り、娘も裏切り、猫も裏切り、挙げ句の果てには龍を従えた魔女だと? 何故だ? どうしてだ! どうしてこうも邪魔が入るっ!? これが聖女ヒトアの魂?! あの忌々しいヒトアの力だと言うのか?」
「ううん、違う」
エミリーがドロシーを信じてカオスの言葉に背いて逃げたのも、こうしてリーナが助けに来てくれたのも、ただ、ドロシーが友を想って行動してきたからこそ。
この友情の中に、聖女ヒトアの魂だとか、あるいは法力だとかが介入する余地はない。
ただドロシーはドロシーが思う友の最善を考えるままに行動した、それだけだった。
「……皆はわたしの大切な友達。わたしはわたしの大切な友達を想って、行動してきた。だから、今、こうして皆が協力してくれてるんだ」
「ふざけている。ははははは。ふざけている、ふざけている……」
カオスは壊れた玩具のように同じ単語を繰り返した。
彼の灰色の目からこぼれる涙。
ドロシーの脳に、聖女アラクネに触れた時に聞こえた、彼の魂の声が過った。
「……エトアルさんっ、早く菫司教を解放してあげてください」
「主の命とあれば、すぐにでも」
エトアルがその夜色の大鎌をカオスの首筋に宛がった時、灰色の魔族は寂しげに笑った。
「最早この魂も肉も、苦痛を生むだけの足枷……利用する価値もない肉屑……この腕では自害して来世に逃げることも……。は、はははははあははははははははははっ!」
その笑声は次第に狂気を孕み、最後はただの叫声へと変わっていく。
「……あああああああああああああっ!」
その時は一瞬だった。
エトアルが大鎌でカオスの魔力に終止符を打とうとした刹那のこと。
スヴァトスラフ司教の額に、音もなく穴が空いたかと思えば、そこから流れ星のごとく速度で立ち上るのは混沌の魔力。
「逃がすかっ……!」
エトアルが鎌を振って、その魔力を刈り取ろうとするが、虚空を切り裂くばかり。
僅かな風を生みながら、割れた祈りの間の天窓を突き抜けた魔力体。流星のように夜空を駆けていく。
「カオスめ、肉体を捨てたか。だが、魔力の気配は近い。遠くには逃げられるはずも……」
エトアルが夜空色の目を細め、カオスの魔力の気配を追う。
「……いったいどこに逃げた……?」
「うぅ……っ、」
そこでうめき声が、一つ、上がった。
長い時をカオスに支配されていた、スヴァトスラフ司教の声だ。
エミリーが這々の体で義父に縋り付く。
「――お義父さまっ!」
「エミリー……」
大きく咳き込みながら、スヴァトスラフ司教が謝罪の言葉を口にする。
「すまない、エミリー、セドリック……レジーナ、ぼくは、……悪しき心の、おもうままに……君たちを、贄に、捧げようとした……古の魔王に……」
「……大丈夫、お義父さま。お義父さまは悪くありません。悪しき魔力はお義父さまから立ち去りましたから」
「エミリー、無理をするな。ぼくの体よりも、セドリックとレジーナを……」
「お義父さまの法力と私の法力、二つの力で二人を助けましょう? お義父さまの法力を超える聖者はいませんわ」
疲労の色が色濃く出たエミリーの横顔。
きっとこうして喋るのでさえ苦しいだろうに、彼女は愛する義父のために再び祈りを捧げようとしている。
(菫司教は無事、皆も……でも、これで終わりじゃない)
その時、激しい金属音がドロシーを襲った。
「――何、この音っ……!」
リーナが苦しげに耳に手を宛がう。
スヴァトスラフ司教の側で、同じく辛そうに頭を抱えるエミリーの姿があった。
「く……この声は……、あの悪しき者の……」
うめき声が方々で上がる。セドリックも、レジーナも、そしてエトアルも、この鼓膜を劈く、脳をかき乱すような音を聞いているのだ。
「酷い音っ、これっ……声?」
ドロシーもまた、鼓膜を震わす怨嗟の声に苦悶の表情を浮かべた。
――滅ぼしてやる! 滅ぼしてやる! 人間どもっ! 一人でも多く殺してやるっ! この魔力燃える限り!――
(まさか、カオスはリキノトの人たちをっ?!)
カオスは逃げたのではない。
最後の全てを賭けて、冥府への仲間を増やそうというのだ。
「エトアルさん!」
「ああ、主、事態は急を要する」
「急いでカオスを何とかしないと……」
この中で、カオスと正面から戦えるのは、おそらくかつての王であるエトアルと、聖女の魂を持つドロシーだけだろう。
リーナはほとんどの魔力を龍に捧げたのだろう、平然と祈りの間に立っているが、その顔色は優れない。二日もドロシーを探していたというのだから、彼女の魔力残量も残り僅か。
(カオスを止めるのはもちろん、街の人たちにこのことを伝えないと)
だが、どうやって伝える?
日はとうの昔に落ち、皆が眠りに就く真夜中だ。
リキノトに住まう人々の正式な数は知らないが、これだけの大都市だ。彼らすべてに事態を説明するのは簡単なことではない。
思考を巡らせる間にも時間は刻々と過ぎていく。ドロシーの中に焦りが生まれたところで「……おーい、大丈夫かっ! 何があったんだっ?!」とドロシー以上に取り乱す男の声が、祈りの間に闖入した。
「フィンさん!」
「街の方に、流れ星が落ちて来たかと思ったら、見るからにやばいでけえ蜘蛛の魔獣がスラムの方にっ……。いったい何があったんだ、ドロシーちゃんっ! 別れた後、しばらくしたら教会の方からとんでもない音がしたかと思えば、こんなんなっちまって……! 外にゃ白い龍までいやがるし、オレは何が何やらっ……」
フィンは見るからに混乱している様子だった。
それもそうだ、ドロシーだって、フィンの立場だったらパニックで何が何やら把握することも出来ないだろう。
フィンの腕には撮影機が、腰には通信機が下げられている。
別れた後、彼は自分の魔導機を探していたのだろう。やっと自分の相棒を救出したところで、この大騒動、と言ったところか。
完全にパニック状態にあるフィン。そんな彼の登場をドロシーは喜んでいた。
(この通信機を使えばっ!)
この通信機があれば、リキノトのミデロ・メール本社と連絡が付く。
「落ち着いて聞いてください、フィンさん! 今までの話を説明している暇はありません。とにかく、今は急いで街の人たちを避難させないと! あの蜘蛛はただの魔獣じゃないんです」
「ひ、避難?」
「その魔導機を使って、ミデロ・メールの人たちに勧告するんです。遅い時間ですけど、この間みたいに残ってる人もいるんじゃないですか? オリエッタさんの時みたいに」
大手新聞社の言葉となれば、これだけ遅い時間でも迅速に情報が伝わるのではないか。
「朝刊作るために、居るとは思うが……だがな、オレの話を皆がちゃんと聞いてくれるか、どうか……また与太話だと言われて切られちまったら」
フィンはあまり本社の人間に好かれていない様子だった。
確かに彼の言葉を与太話だと切り捨てる可能性は高い。だからといって、フィンが持つ魔導機を使わない手はない。
そこで名乗りを上げるのは、スヴァトスラフ司教だった。
「ぼくに、……任せるんだ、記者くん。ぼくの言葉とあれば、きっと、ミデロ・メールの人たちも耳を貸すだろう」
「おお? 司教、アンタ大丈夫なのかよっ。腕がえらいことになってんぞ!? あ、足も……」
「平気だよ。ぼくの子供たちの受けた苦痛と比べたら、……大したことはない。さあ、魔導機をぼくの側に、このままでは街が危険だ……沢山の命が失われることになる」
「っ、分かった。アンタの言葉なら、うちのクソ上司共も耳を傾けるかもなっ!」
フィンが駆け足にスヴァトスラフ司教の元へと急ぎ、腰の魔導機を下ろしては、彼の口元に機器の一部を宛がった。
「フィン? あの記者の?」
「リーナ、フィンさんを知ってるの?」
「ドロシーが追い出されてしばらくして、学校の方に取材に来たのよ。門前払いにされてたけど。まさかここで出会うなんてね……」
「……ね、リーナ。魔導機で上手く連絡が取れたら、リーナはしろちゃんと街の人たちを一人でも多く避難させて欲しいの。きっと皆寝てる時間だから、早くしないと被害はどんどん拡大していっちゃうと思うんだ」
ドロシーは早口に捲し立てると、次はスヴァトスラフ司教の傷を癒やそうと祈り続けるエミリーに指示を出す。
「エミリーは菫司教と一緒に、セドリック、レジーナさんを助けてあげて。祈りの間は壊れちゃったけど、聖印は無事。皆の祈りがあれば、カオスをリキノトの結界に閉じ込めることが出来るかもしれないよ」
特にスヴァトスラフ司教は、魂を魔に支配されながら、あれだけ魔を拒む結界を展開する祈りの持ち主だ。
そこにエミリーやセドリック、レジーナの法力が加われば、あの時以上の堅牢な結界を作りだすことが出来るはず。
その結界は、ドロシーやエトアルの足枷にもなるだろう。
だが、そんなことを言っていられる状況ではない。
今は一刻の猶予もない。
皆の力で、やれるだけのことをやるだけだ。
「ドロシーはどうするの?」
エミリーの問いに、ドロシーは即答した。
「わたしはエトアルさんと一緒にカオスのところに行く。カオスを倒せるのは、多分、わたしとエトアルさんだけ。結界が完全に展開されればっ……て、わっ?!」
不意にドロシーを包み込む浮遊感。
この浮遊感の原因がエトアルにあると気付いたのは、彼の冷たい手の感触を膝裏に抱いた時だ。
いわゆるお姫様抱っこの体勢で、彼はドロシーを抱きかかえている。
頬を赤くする余裕は今のドロシーには残されていない。
「……話はここまでだ、主。早く発たねば、街が地獄と化す時間が増えるばかりだ」
そのままドロシーを腕に抱いたまま、エトアルは天を見上げた。
割れた天窓の向こう、カオスが飛び立った軌跡を追おうと夜空色の翼を大きく広げたところで「待って!」とリーナが声を上げた。
「白龍の主よ、何用だ?」
「しろちゃん、この男が……そう〝彼〟なのね」
リーナが【菫大教会】の外に控える白龍と、何かを確認するように言葉を交わした。
そして彼女は再び、赤い眼をエトアルに向けた。
「夜の王……自分で考えて、あり得ないと思っていたけど……あの蜘蛛の化け物との会話を見るに、貴方、古の魔王なのね?」
「だとしたら、どうだというのだ?」
「――ドロシーを頼んだわよ。私の大切な友達なの、絶対に、絶対に……」
その先の言葉を紡ぐことを、リーナは恐れているようだった。赤い瞳が、ドロシーの頬に出来た傷跡を苦しげに見つめている。
彼女の意図を汲み取ったらしい彼は「死なせぬよ」と優しい声色で言う。
「この娘は我が死なせぬ」
不敵に笑うと彼は大きく翼を広げた。
そして、ドロシーを抱きかかえたまま、夜の王はリキノトへと飛び立った。
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