5-11 ドロシー、友を助け、友に助けられる
「主よ、そなたの魔力分けてもらうぞっ!」
エトアルの言葉と共にドロシーにかかる重力が二割増しになった。
著しい魔力の消費が疲労感となってドロシーにのしかかる。
倦怠感に眉を顰めると同時に、エトアルが構える夜色の大鎌のサイズが二回り大きくなる。
「主は我が身を守ることだけを考えていろっ!」
カオスの蜘蛛の脚がエトアルの腹に向かって迫る。
その脚は魔力の塊であるというにもかかわらず、槍のような鈍い鋭さを誇っている。
エトアルが跳躍。
聖印の上に突き立つ脚の上に降り立つとさらに跳躍した。
(――翼)
蝉がさなぎから背中を裂いて姿を見せるように、エトアルの背中を破って姿を見せるのは夜色の翼。星々と複雑な色を溶かした夜の黒。鴉のような大翼。
その翼をはためかせ、祈りの間を飛ぶと、エトアルはその大鎌をカオス目がけて振り下ろす。
滂沱として涙を流し続ける司教の魂を被った魔族が不敵に笑う。
――きぃぃぃぃん。
脳を掻きむしりたくなるような不快な金属音が祈りの間に木霊した。
夜の鎌は、聖印より立ち上る光によって押し止められていた。
「あはははっはは、スヴァトスラフの法力が生きているのは知っているだろ? どうしてお前たちがここに入れたか、理解するといい! ここは僕の巣だっ!」
長い八つの脚を聖印に突き立てながら、カオスは菫の錫杖を天に掲げる。
菫の聖印が宿す星の光が激しくなる。
「ぐっ……!」
エトアルが光を嫌って、後方に飛び退く。
人の姿を取っているといっても、エトアルは魔族。魔力の塊であることには違いない。
「肉も纏っていなければ、魂の殻も持たないお前にこの力は辛いだろうな! 僕は聖者の魂を支配している。法力は自由自在だ。この聖印も、聖獣もすべて僕の意のまま! 魔力の供給源もここにいるからな」
カオスの声が上がると同時に、蜘蛛の巣にかかるセドリックの口元から悲痛の叫びが上がる。
「さあ、祈れセドリック! 神への誓いを忘れ、己のために祈るがいい! でなくてはお前の腕が引きちぎれるぞっ」
「うぅううっ……!」
ぎりぎりと、セドリックの腕に巻き付く鋼鉄の糸が引き絞られる。
長いセドリックの腕が、足が、さらに長く伸びる。
苦しみ喘ぎ、絶望の目で義父を見、セドリックは深く目を瞑る。
間もなく光がセドリック自身に宿り始める。痛みを軽減しようと、自分のために祈ったのだ。
それと時を同じくして、カオスが纏う灰色の魔力が強まる。
セドリックの屈した精神、あるいは折れた魂の嘆きから魔力を得ているのだ。
遠い昔、どうして人と魔族が対立したか、ここで理解した。
彼ら魔族は人の魔力を食らっている。こうして追い詰め、精神を、魂を拷問し、得られる魔力を糧にしていたのだ。
人が魔族を恐れ、種族ごと根絶やしにしたのも頷ける。
自分たちが捕食される身であったのだから。
(……カオスは支配した菫司教の法力で聖獣アラクネを操ってる)
ドロシーはエトアルとカオスの戦いを分析する。
今、ドロシーが出来ることは何だ?
(あの蜘蛛の脚はセドリックとレジーナさんの苦しみから生まれてる……だとしたら、わたしが出来ることは一つだけ!)
それは二人に苦痛を与え続ける聖獣アラクネを止めることだ。
あの鋼鉄の糸を外すことが出来れば、セドリックやレジーナから供給されている魔力源は絶たれる。
さらにアラクネという戦力を削ぐことが出来る。
カオスとの戦いに手一杯の彼の一助となるだろう。
「――燃えろ!――」
ドロシーは呪文を唱えた。それは赤毛の少年を巨大な雷の蛇シュガールから救った火魔法《業火》の呪文だ。
掲げる杖から激しい炎が迸る。強い熱波がドロシーの頬と赤い髪を撫でていく。
虚空を焼きながら突き進む《業火》。しかし、その紅蓮の炎は、鋼鉄の巣を守る聖獣アラクネの表面に触れることなく霧散した。
(……、駄目だ。法力で打ち消される!)
心折れた、傀儡と化した魂であろうとも、その魂に宿る法力は絶大なようだ。
魔力をエトアルに食わせている状態のドロシーの《業火》ごときでは、聖獣アラクネを燃やすには至らない。
「だったらっ!」
ドロシーは駆け出していた。
魔力では無理なら、法力ではどうだ?
混沌の――カオスの魔力で苦しんでいた聖獣ユニコーンをドロシーは操れた。
ドロシーがこの身に宿す魂に、遠い昔の聖女の法力が宿っている。
(……怖い、でも、大丈夫! わたしは、大丈夫)
聖獣アラクネがその球体関節人形の腕をドロシーに向ける。
鋼鉄の糸が、ドロシー目がけて撃ち放たれた。
「……主!」
「エトアルさん、大丈夫っ! 大丈夫だからっ!」
ひゅ、と耳元を鋼鉄の糸が掠めていく。
赤毛の束が引きちぎれ、薔薇の花弁のように舞い散った。
だがドロシーは臆さない。温い感触が頬を伝っているのも、ちりっとした熱い痛みが顔に走っているのも気にせずに、一直線に走る。
再度、聖獣アラクネが鋼鉄の糸をドロシー目がけて撃ち放つが、ドロシーはそのまま突き進む。その銀の糸がドロシーの頭を確かに狙っていると分かっていても、ドロシーは足を止めなかった。
代わりに高らかに叫ぶのは呪文。
「――月よ! 満ちたる月よ!――」
胸の上で踊る力を失ったペンダントの気配を感じながら、ドロシーは《満月の護り》の呪文を唱えた。
ほんの一瞬で良い。アラクネの攻撃をほんの一瞬弾くだけでいい。
聖獣アラクネはもう目の前に迫っている。
瞬くだけの時間、月の光がドロシーを包み込む。アラクネの放つ鋼鉄の糸が、甲高い女の悲鳴のような音を立てて弾かれる。
ドロシーは手を伸ばした。
目の前には、カオスの操り人形となった聖獣アラクネの姿がある。
(聖女ヒトア、わたしに力を貸してっ! ――皆を、エトアルさんを守る力をわたしに貸してっ!)
ドロシーは祈った。強く、強く、祈った。【薔薇園】での過酷な幼少期に、祈りを捨てたドロシーだったが、今日ばかりは心から。
そして、その冷たい聖獣の腕に触れ――声が聞こえた。
――ドロシーくん、どうか――
聖獣アラクネに込められた、聖者の悲痛な願い。
――ぼくを止めてくれ! ぼくの中に巣くう悪しき者を、どうか止めてくれ――
その声は紛れもない、スヴァトスラフ司教のものだ。低い彼の声が、ドロシーの頭蓋骨を通り抜けた後、がくん、と八つの足を折り、聖獣アラクネは動かなくなった。
ドロシーの願いが届いたのか、それとも、カオスに支配された魂の最後の抵抗なのか。
いずれにせよ。
セドリックとレジーナの体を拘束していた、巨大な蜘蛛の巣がたわみ、緩み、ついに聖者たちは解放された。
くたりと動かない聖者たち。だが、これ以上の責め苦を味わうことはないだろう。
「やったっ、……、うっ……うぇっ……」
二人を救えた、その喜びが沸き起こるより先に、ドロシーの体を激しい吐き気が突き抜けていった。
魔力と法力、二つの相反する力を使ったからだろうか。
たまらずドロシーはその場に吐いていた。
黄色い胃液が聖印の上に広がった。
「主っ!」
「どうした、よそ見をしている時間などないだろう!?」
ただでさえ、聖印が放つ神聖性の中、苦戦を強いられていたエトアル。
ドロシーに気を取られてしまったのだろう。
彼は迫る蜘蛛の脚の存在に気付くのが、ほんの少しだけ遅かった。
「なっ……!」
彼の翼ごと胸を貫くのは、長く伸びた蜘蛛の鋭い脚。
ずるりと太い脚を引き抜かれ、彼の体は大きく傾いた。
幾度となくカオスの攻撃を退けていた大鎌は虚空に溶け、エトアルの体は祈りの間へと落ちていく。
「エトアルさんっ!」
鋼鉄の巣が解かれた聖印の真上にエトアルの体は打ち付けられた。
まるで人形を床にたたき付けたみたいに、魔王の体は転がり――
彼の頭目がけて灰色の脚が振り落とされる。
このとき、ドロシーが見る世界は緩慢に映った。
(《満月の護り》? それとも護りの祈り? 聖獣アラクネを操ることは出来る? いや、早すぎて間に合わない)
思考だけが早く回転し、体も舌も付いてこない。
ドロシーが絶望しかけたその時だった。
エトアルの顔を貫こうとするカオスの脚が、寸でのところでぴたりと制止する。
「……結界?」
聖者の護りの祈り。
いったい誰が?
セドリックもレジーナも、床に横たわったまま。
「ドロシー! 早くエトアルをっ! こっちにっ!」
ドロシーの疑問に答えるように声を張るのは、聖女エミリーだ。傍らに寄り添うようにして立つ聖獣ユニコーンと共に、彼女は結界を張っている。
菫色の法衣に、菫の冠を淡く光らせ祈りを続けるエミリー。彼女の護りの祈りが、エトアルを守っている。
祈りの間で起きている異変に気付いたのか、それともそれ以前からここに潜伏していたのかは知らないが、彼女以上に心強い人物はいない。
「エミリー……! ありがとう!」
ドロシーは吐き気を堪えながら、聖印の中に沈むエトアルの元へと急ぐ。
そのまま、夜色の羽根を散らして倒れる魔王の元に急ぎ、彼を引き寄せる。そして、彼を苦しめる法力の印の中から引きずり出した。
その間も、カオスによる鋭い槍のような脚の攻撃は繰り出されていた。
だが、そのいずれをもエミリーの結界が弾いていく。
「エミリー……父を裏切るのかい?」
スヴァトスラフ司教の声色で、カオスが囁く。
義父を慕うエミリーへの精神的な攻撃だ。
だが、彼女は屈さない。強い光を琥珀色の目に宿した彼女は、力強く叫ぶ。
「裏切る? 裏切ったのは貴方だわ! お義父さまの体を乗っ取って! セドリックやレジーナさまを傷つけて! 私は貴方を許さないわ!」
エミリーはその場に跪き、指を組み、祈りを捧げるポーズを取った。
「ドロシー、貴方のために私は祈るわ。私のために戦ってくれた、大切な親友のために……だから、早く、貴方の大切な使い魔を助けてあげてっ!」
ドロシーは苦しげに喘ぐエトアルの容態を確認した。
(エトアルさんの夜がこぼれてる)
腹に空いた大きな穴。
そこから溢れるのは夜だ。エトアルの目と同じ色をした何かが、どろりと溢れている。
魔力を自在に操る術を体得した今、治癒魔法を使うことはきっと不可能ではないだろう。
しかし、相手は魔王。
治癒魔法は人間に向けたもの。人間の再生能力を最大限に引き出す魔法だ。
効果があるかは分からない。
「……心配無用。我の魔力が少し流出しただけよ」
「平気なわけないじゃないですか。魔力は魔族の命そのものなんでしょうっ? だったら、……わたしの魔力、もっと食べてください。わたしは大丈夫です。大丈夫だからっ、エトアルさんが死んじゃうっ!」
「駄目だ、これ以上の消費はそなたの身が持たぬ」
「……、わたしの魂の中に貴方の魔力があるんでしょ? それを食べることは……」
「無理だ、無理に引き出せばそなたの魂を壊すことになる。平気よ、穴は今、塞がった……」
彼の言うとおり、腹に空いた穴は塞がった。
だが見るからにエトアルは消耗している。ドロシーの血と肉に宿る魔力だけでは、カオスを倒すには至らない。ドロシーの死を恐れる間は、エトアルは本気を出せない。
(魔力……? 魔力なら、まだここにあるっ!)
はっとしてドロシーは自身のウエストポーチを見た。
ここには魔石がある。聖女エミリーの法力を侵食し、聖獣ユニコーンを自壊の寸前にまで追い込んだ混沌の魔力がここに。
「エトアルさん、魔石の魔力を食べればっ……!」
「――きゃあああっ?!」
絹を裂くような悲鳴が反響する。
はっとして振り返れば、苦悶の表情を浮かべるエミリーの姿がある。
その彼女を締め上げるようにして取り憑くのは、灰色の糸。
カオスの魔力がエミリーを蝕んでいる。
「……流石は聖女の結界。面倒な法力だ……だが……、ふふ……これが夜の魔力っ……! あはははははははははは!」
エトアルの胴を貫き、その脚に付着した夜の魔力を舐め取って、激しく身を痙攣させながら笑う。
魔王の身から溢れでた魔力を食ったのだ。
より太く、醜く増幅されるカオスの魔力。
もはやスヴァトスラフ司教の面影はそこになく、灰色の魔力で覆われた巨大な蜘蛛の姿へと変貌していた。
「お前を法力ごとひねり潰してやる!」
「……っ! 私を舐めないで、化け物っ! これくらい、皆が受けた苦痛を考えたら、何てこと無いわ!」
ハンドベルのいななきと共に、輝かしい法力が迸る。
ユニコーンの角より放たれた《正義の鉄槌》――光の群れが流れ星となって、カオスへと降り注ぐ。
「くっ、セドリックではなく、お前から贄にすべきだったか――」
(今だ、今しかないっ!)
カオスの意識がエミリーに向いている今しかない。
ドロシーはウエストポーチに手を突っ込むと、そのままハンカチに包んだ混沌の魔石を取り出した。
「エトアルさん、これを食べてっ!」
そしてその石をエトアルに握らせる。
「――させるかっ!」
巨大な蜘蛛の複眼がドロシーを捉える。何をしようとしているのか、やっと把握したのだろう。
いくつもの灰色の魔力が蜘蛛の口元――鋏角に集まり魔力弾を形成。
その弾は一秒の猶予も与えず、ドロシーとエトアルの元へと降り注ぐ。
エミリーの結界が悲鳴を上げる。
聖獣ユニコーンのハンドベルをでたらめに弾くような雄叫びが上がる。
そして、ついに結界が砕けようとした刹那。
轟音と共に祈りの間の壁を砕きながら、カオスの腹を殴りつけるのは光の弾。
高位の光魔法《流星》の魔法だった。
「この魔法はいったいっ……?! 次から次に何だと言うのだっ!」
巨大な蜘蛛が煩わしそうに叫ぶ。
その魔法を撃ち放ったのはもちろん、ドロシーでもなければ、魔力を流出させて弱ったエトアルでもない。
「――やっと見つけたわ、ドロシー。丸二日、ずっと探していたのよ」
もうもうと立ち上がる土煙の中を進むのは銀の髪。
それはルクグ王立第三三魔法学校で二年間、ドロシーを支えてきてくれた親友の声だった。
「あの光の魔法が、貴方の場所を教えてくれた」
「……お前、何者だっ?」
呆気にとられた様子のカオス。
それもそうだ。本来、彼女はここにいるはずのない魔女候補生。
ドロシーだって、カオスと同じ反応を示している。
「私?」
カオスの問いに、月の髪をなびかせながら、彼女は冷たく言い放った。
「リーナ・アクロヴァ。ドロシーの親友よ」
そして深紅の瞳で、カオスを見上げ、睨み付ける。
「会って早々悪いのだけど、消えてくれないかしら。蜘蛛の化け物さん」
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