5-10 ドロシー、真実に震える
「……ありえぬ」
魔王エトアルが夜鷹の姿を解いて、聖印の間に降り立った。
彼の薄汚れた靴底が菫の聖印に触れた箇所は曇り、星の光は失せ、闇に食われ始める。
「貴様が、……カオスだというのか? 魔族がいかようにして法力を体得したというのか。我ら魔族に魂は存在しない。我らは魔力そのもの。転生することはないはずだ。我が現世に戻るまでの数千年。そなたは如何にして生き延びたというのだ」
エトアルは夜空色の目で混沌の灰色を見据える。
カオスは答える。
「疑問は残るでしょう。なんせ、貴方は闇の封印の中にいたのですから。見たところ、貴方は肉を得ていないようだ。それはすなわち、聖女ヒトアによる封印が不完全であったということに他なりません」
カオスは一拍の間を置いてから続けた。
「やつら人間が施した封印とは、聖者らがその聖なる魂に僕たち魔を封じること。貴方様が封じられたという闇の世界は、一時の時間稼ぎのための結界に過ぎません。本来の目的は、その闇の中で、貴方様の魔力のすべてを魂に封じ込めること」
スヴァトスラフ司教は己の胸に手をやった。
やや左に寄った位置。そこには脈打つ心臓が収まっている。
「長き時を経て繰り返される輪廻転生の時の流れに身を置き、聖なる魂の中で僕たちを浄化する。それが人間の最後の手段でした。ですが、神に選ばれし聖女の魂といえど、貴方の深き夜の魔力のすべてを収めることはできなかったようですね」
カオスは饒舌に語った。
銀縁の眼鏡の奥、灰色の目を歪に歪めながら。
「だが、僕は貴方様とは違った。聖女が従えた聖者の一人に封じられた僕は、数千年の時の中を、忌々しい魂の中で過ごすこととなりました。ですが、僕は諦めなかった。ああ、諦めなかった。永遠とも思える永き時の中で、僕はこの時を待ったのです」
「魂が屈する時か」
「ええ、貴方様の仰るとおり。長き輪廻転生の中で、聖者の魂が弱るその時だ」
貼り付けになったセドリックをカオスは陶酔した眼差しで見上げる。
セドリックは虚ろな目で虚空を見つめている。
義父の肉の下に隠れていた魔族の言葉は、彼の耳に届いているのだろうか。
「魔族が滅び、人の子が世界を支配するようになっても、世界は争いに満ちあふれています。法力使いと魔法使い。誰かが引いた国境。あるいは髪の色で争い合う。ほんの少し、己と違うからという理由で、殺し合い虐げ合う世界。僕が封じられた魂は傷つき、汚れ……最後は」
そこでカオスは再びエトアルを見た。
神でも見ているかのような恍惚とした笑みを浮かべる。
「……我が身のために祈った。スヴァトスラフ・クライーチェクに転生する、五〇〇年前のことです。それから僕はこの魂の主導権を握ることになりました。貴方がこの魔女に契約の力で逆らえぬように、この魂とそれに付随する肉は僕の支配下にある」
だから彼は魔族でありながら、法力をも扱えると言うわけだ。
ドロシーは恐怖した。
菫教区の司教が、あろうことか、かつて人を滅ぼそうとした魔族であっただなんて。
「それから、僕は聖女の転生先を探しました。五〇〇年もの間、何度も死に、生まれ変わり、幾度となく忌々しいヒトアを讃えるこの宗教の元に奉仕し、貴方様の封印を解く鍵を持つ聖女の魂を探し求めて……ついに、見つけた。聖女の魂を持つ魔女。さらに貴方自身を従えているというではありませんかっ!」
これは運命だ、とカオスは狂喜の声を上げる。
ぼろぼろと涙をこぼしながら、彼は高らかに叫ぶ。
「そう思うでしょう? 愛しき我が王よ」
同意を求める声に、エトアルは応えない。
ただ押し黙り、かつての配下の姿を眺めている。
「セドリック、レジーナ。たった二体の聖者の魂から得られる〝絶望の魔力〟では、貴方の衰えた魔力を補うには足りぬかもしれません。これらは僕の食事になる予定でしたから、ええ、貴方様の復活を祝う晩餐にはふさわしくないかもしれません。ですが、聖女がここにいる! 僕たちに楔を打ち込んだ聖女の転生体がいるっ!」
さあ、と高らかにカオスは告げた。
「王よ、共に宴を楽しみましょう! 憎き人間の朝を奪いましょう! 奴らの明日を奪いましょう! この娘の魂を砕き、数千年の時を経て、訪れた魔族復興のこの時を――祝いましょう」
長い演説が、狂乱する声がそこでやっと静まった。
王の返答を、数千年もの間待ち望んだ答えを、彼は待っている。
「エトアルさん……」
ドロシーは乱れた黒髪を見上げた。
エトアルの表情はこちらからでは窺えない。彼はドロシーとカオスの間に立ち、ただ、何も言わぬままにカオスの演説に耳を傾けていた。
その沈黙が、カオスを肯定しているように思えて、ドロシーの声は震えた。
杖に宿した怒りの炎も、もう見えない。
「……知っていたんですか?」
ドロシーは重ねて訊ねる。
「わたしが、聖女ヒトアの生まれ変わりだってこと」
彼は振り向きもせずに言った。「ああ」その言葉にドロシーは絶望した。
「そなたが我を呼び出したその時、瀕死の体にあったそなたに触れ、気付いた」
「そんな前から……っ、エトアルさん。何で、教えてくれないんですか。教えてくれなかったんですか」
彼は答えない。
「……菫司教の……混沌の魔族が言うように、わたしの魂を壊せば、貴方は解放されるんですか?」
「理論上は、可能であろうな。我の魔力の大部分がそなたの魂に封じ込められているのは事実だ」
ドロシーはこの旅の中で、誰よりもエトアルに信頼を寄せていた。
不思議と彼には魅力があった。得体の知れない、魔王を名乗る謎の人物。それだというのに、ドロシーは彼に絶対的な信頼を置いていた。
綺麗な目をしていたから。
ドロシーの愛する夜の目を持っていたから。
聖女ヒトアの像を見上げる彼の横顔が、もの悲しいものに見えたのは、ドロシーの先入観のせいだろうか。
ぶっきらぼうで、短期で、何かと暴力的な彼ではあったが、その対象はいつだってドロシーに害をなす相手だけだった。
だから信じ切ってしまった。
だが、ここではっきりとした。
彼は魔族の王。
ドロシーの側に付き従っていたのは、ドロシーの魂に封じられた己の魔力を手に入れるためだったのだ。
そうでなければ説明が付かない。
そうでなければ、古の魔王がこのような落ちこぼれの魔女に付き従う理由などないだろう。
聖女ヒトアの魂を持っていると、言わなかったのはきっと。
契約を解除されて、魔力の供給を絶たれるのを嫌ってのことなのだ。
「……っ、わたしを壊しますか。菫司教がセドリックやレジーナさんにそうしたみたいに……」
ドロシーは後じさった。
だが、少し後ろに下がったところで、何か戦況が変わるということはないだろう。
エトアルが居れば、きっとスヴァトスラフ司教にも、カオスにも勝てるだろうと思っていた。ドロシーの無詠唱の魔法と、未知の法力、そして使い魔王エトアルがいれば、きっと。
エトアルが振り返る。青白い手が伸びる。
ドロシーは肩を跳ねさせた。
彼の夜空の瞳は、こんな時でも綺麗だった。
どんな言葉を投げかけられるだろう。どんな絶望の言葉を与えられるだろう。
(怖い)
死体みたいに白い指先が、ドロシーの頬に触れる。
ひやりと冷たい指先は、壊れ物でも扱うように優しくドロシーの皮膚を滑り、そして彼は、言った。
「なにを言うか主よ。我は主の使い魔であるぞ」
「へ?」
「我はそなたの使い魔。そなたの命令に背き、そなたに仇なすことなど我には出来ぬよ」
そう言って彼は夜の目をしばたかせ、ぼそりと呟いた。
「……、ああ、出来るはずもない。ヒトアと約束したのだ」
エトアルは踵を返すと、灰色の混沌カオスと対峙する。
「カオス、そなたの想いに報いることが出来ず、残念であるが……我に最早その気はない。我は魔族を統べる王であった。そう、あったのだ。悪辣無情の王は封じられ、魔族は滅びた。今やこの地上に魔族を恐れる人の子はもういない。我らは地上の覇権を人間に奪われた。我らは負けたのだ。今や滅び行く定め……」
エトアルは王の風情を携えながら、幼子を諭すような声色で言った。
「我は旅がしたい。主と共にな。主が語った世界の美しさを確かめるべく」
「……は? 待ってください、……王よ、何をおっしゃいますか? 旅? 旅など貴方様が世界を支配した後でも済むことでしょう!」
カオスは叫んでいた。
「僕は貴方の復活だけを夢見、この数千年の時を寄生虫のように聖者の魂の中で生きながらえて来たのですよ! 聖者の魂を支配下に置き、この法力に苦しみ喘ぎながらも、ヒトア教に身を置いたのはすべて貴方様を現世に蘇らせるため――!」
同時に、己に問いを投げかける。
「僕の数百年は何だったんだ。数千年の苦しみは?」
菫の冠を被る頭に手をやって、短い朽ち葉色の髪を掻きむしる。
「全ては貴方様のためだった! 憎き人間を滅ぼすためにっ、僕はっ!」
「であれば、今、この時、貴様は自由になれるということだ。カオスよ。我に縛られるのではなく、貴様は貴様の生を全うしろ。その魂を解放し、肉を捨て、残された魔力の続く限り生を生きればよかろう」
エトアルは混乱に身を悶えさせるカオスに向かって、落ち着き払った声で説得を試みた。
しかし、その言葉が彼の耳に届くはずもない。
そうだ、彼は彼で数千年の苦しみを生きながらえた身。
愛する王を蘇らせるためだけの生だった。それを盲信していた王本人に否定される。
理解できるはずがない。理解しようもない。
「あるいは我のように、魔法使いの下につき、魔力を食らい生きながらえるのも悪くはないだろう」
「――あり得ない!」
カオスは叫ぶ。あり得ない、あり得ない、あり得ない。
口の端から泡を散らせながら、涙をこぼしながら、彼は怒りと混乱と悲しみに狂いながら叫んだ。
「……認めないぞ。認めない、僕は認めない。お前が、あの王だと? 我が王は、我が王は、最後まで人を憎しみ、恨み、殺す愛しき王であったはずっ!」
強く歯を鳴らしながら、カオスは憎悪を募らせた灰色の目でエトアルを睨む。
「くだらない、小娘に従属するのが我が王だと? これが悪辣無情の夜の王の姿だというのか? 聖女ヒトアにほだされたか、王よ! ――ああ、いや、最早お前は僕の王ではない。お前は魔族を滅びの淵に追いやった。貴様など、王の器にふさわしくないっ!」
エトアルがその手に夜色の魔力を纏わせる。
「すまぬ、主よ。説得を試みたが――」
「これは、運命だ。運命だ。運命だ……」
ぶつぶつとカオスは独りごちる。
その目からこぼれ落ちる涙の量は、落とす言葉の数に比例しているかのように増えている。
「――ヤツを諭すことは我には不可能なようだ」
手に纏わせた夜色の魔力が、次第に巨大な大鎌へと変貌していく。
ヒトト山で見せたエトアルの武器だ。
「僕が、僕こそが、王にふさわしい。そうだ、これは運命なんだ」
自分を鼓舞する言葉を繰り返し、カオスはエトアルを睨む。
カオスの体を覆うのは、灰色の魔力。白とも、黒ともつかない。混沌とした灰の色。
「夜鷹の姿に甘んじるお前なんぞ、取るに足らない。僕は数千年の時を生きながらえた。時に殺し、時に僕らを貶めた神にすら祈りを捧げた。僕の覚悟と、闇に囚われ続け、小娘にほだされたお前なんぞ比べる価値もないっ!」
カオスの魔力はエトアルの大鎌のように形を取り始め、間もなく彼の背中から生える四対の腕の形へと変貌していく。
その姿はさながら――彼の、スヴァトスラフ司教の守護者、聖獣アラクネのよう。
「お前を食ってやる。お前も、聖女の魂も、僕が食って、――繰ってやる!」
巨大な蜘蛛の脚を手に入れた混沌の魔族、カオスは吠えた。
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