5-9 ドロシー、蜘蛛の巣に引っかかる



 ――セドリックたちも君を待っているんだ――


 スヴァトスラフ司教の声が脳裏で反響している。

 血の臭い。生ぬるい空気の中に混ざり込む不穏な臭気。


 ドロシーは逸る気持ちを抑えつつ、ミスティルテインの杖を強く握りしめては、スヴァトスラフ司教が先行する薄闇が支配する祈りの間へと駆け込んだ。


 そして息を呑む。


 広く、高い天井。その先お天窓から差し込む月光が照らす祈りの間。

 菫を描いた巨大な聖印の上に浮かぶのは、菫の法衣を身に纏う、一人の聖人。


「――セドリック!?」


 セドリックが吊されていた。いや、貼り付けにされていると言った方が良いだろうか。

 彼の意思の強さを示す眉は垂れ、強い輝きを宿していた黒曜石の瞳は曇っている。頬には流れ落ちた涙の跡が無数に残されていた。


 彼の宙に浮いた足の下、小さな影の上には、彼から滴り落ちたと思しき血痕と、壊れた菫の花冠が落ちていた。


 その背後には――ガラスの残骸が転がっている。長身のセドリックを守る、巨大なガラスの巨人は跡形もなく砕け散っていた。


「タイタンが壊れて……っ、」


 月光が照らすのは、その異様な様相の聖人だけではない。

 彼を拘束し、宙に吊す巨大な鋼鉄の蜘蛛の巣をも、幻想的に映し出していた。


 聖者の守護者であるはずの聖獣アラクネが、不気味な球体関節人形の四肢を蠢かせ、かしゃ、かしゃ、と帰還した主の元へと急ぐ。


 スヴァトスラフ司教は義理の息子と可愛がっていたセドリックの凄惨な姿を前に、平然としている。


 この惨劇を作り出したのは紛れもないスヴァトスラフ司教だろう。

 鋼鉄の蜘蛛の巣は、彼の聖獣アラクネのもの。


「菫司教っ! セドリックに、何を……何をしたのっ!? どうして、こんな惨いことをっ……!」

「真実を教えてあげたんだ」


 スヴァトスラフ司教は言った。


「君の敬愛する父は」


 そっと貼り付けにされた我が子に手を伸ばし、菫色の法衣に落ちる点々とした赤い痕を優しく撫でる。


「君を殺すために魔女を雇い……そこらの石ころと同じ程度に愛していると教えてあげたんだ」

「……っ!? 貴方が、オリエッタさんを雇ったっ……」


 そもそも、エミリーとセドリックの巡礼の旅にオリエッタを同行させようと提案したのはスヴァトスラフ司教だ。

 彼であれば、容易に彼女とコンタクトを取れただろう。


 まさか、いや、もしかして――と、ドロシーがもっとも考えることを忌避していた、最悪の現実が、今、ここで繰り広げられている。


 薄闇の中で、もぞりと動く気配。

 青みがかった黒髪、ブルーブルネットの女性。レジーナが、まるで虫のように大地に這いつくばっている。


「レジーナさんっ!」

「どろ、しー、さん……にげて、この人は……スヴァトスラフ、司教では……ないわ……。わたくしの大切なお方が……、このような、ことを……」


 彼女の側には折れた錫杖と、ずたずたに引き裂かれた聖獣カーバンクルの姿があった。

 縫いぐるみのような愛くるしさがあった聖獣も、今やゴミ屑同然。臓物のように溢れた綿も、折れた角ももう戻ることはないだろう。


 橙の瞳に涙を蓄えながらも、彼女は引き裂かれた聖獣カーバンクルを抱き寄せる。


「あはは、レジーナ、まだ意識があったのかい。あれだけ痛めつけてやったというのに、まだまだ君は元気だね」


 かつかつと靴底を鳴らしながら、スヴァトスラフは聖印の外で倒れていたレジーナの元まで早足に歩み寄ると――彼女が抱く聖獣カーバンクルの残骸を踏みつけた。


「流石は僕の補佐官。僕が選んだだけのことはある」

「……あっ、……っ! スヴァトスラフ司教、お止めになってくださいっ、……これではカーバンクルがっ……」


 レジーナの悲痛な嘆願など、彼の耳には届かない。


「……君から見れば、僕はスヴァトスラフ・クライーチェクには見えないだろうね。でも、僕はスヴァトスラフ・クライーチェクさ。少なくとも、僕が今、纏っている肉はスヴァトスラフ・クライーチェクという名だよ。菫教区の司教にして、皆が愛する父だ」


 彼が足蹴にしているカーバンクルの角が青く光る。


「まったく、涙脆い肉だ。この肉体には飽き飽きしていたんだ。毎日、反吐が出そうだった。……毎日、毎日、毎日。忌々しい愚かな人間のために祈らなくてはならないこの身の上が悍ましくて堪らなかった。だがしなくてはいけない。明日があちらから勝手にやってきてしまうからね」


 聖獣カーバンクルの額の宝石が青く光る。青く光る、青く明滅を繰り返す。


「止めてくださ……、スヴァトスラフ司教の、お声で、そのようなこと……っ、をっ……言わないで」

「少しは黙ろうか、レジーナ。セドリックは優秀な息子だったよ。すぐに黙ってくれたからね」


 そう言って彼はレジーナの顎を蹴り上げた。

 血が、司教補佐官の端正な顔から迸る。


 ドロシーは駆け出していた。


「止めてっ!」


 さらに追撃を食らわせようとするスヴァトスラフ司教とレジーナの間に割って入ると、ドロシーは魔法の杖の先を司教の鼻先に突きつけた。

 我が身から迸る怒りの魔力を集結させ、いつでも彼に反撃を与えられると誇示する。


 これ以上レジーナを攻撃するのであれば、反撃するという意思表示。


「なんで、こんなことをするんですか……っ!? レジーナさんは、貴方の補佐官で、貴方の後を任せる人でしょっ?! セドリックは、貴方の息子なんじゃないのっ?! 何でこんな酷いことっ……! 苦しめるようなことっ……!」


 ドロシーの頭の中では、スヴァトスラフ司教について語る姉弟の姿が呼び起こされていた。

 エミリーと一緒にお風呂に入ったとき、彼女はとても誇らしげに彼のことを語っていた。

 ピメの村を出た後、リキノトが近づくにつれて、セドリックは義父との再会への緊張に心を張り詰めさせていた。


 尊敬する義父への想いを、彼は裏切ったのだ。


「これから宴の時間だからね。そうだ、宴の時間なんだよ。晩餐の時間なんだ」


 晩餐?

 これのどこが晩餐だと言うのだ。


 ここにあるのは惨劇と絶望だけだ。豪華な馳走はどこにもない。温かいスープも、贅沢な肉もない。何もない。


 その思いを込めて、ドロシーは変貌したスヴァトスラフ司教を睨む。


 スヴァトスラフ司教は薄ら笑いを浮かべている。


 ドロシーは叫んだ。自分でも驚くくらいの怒声だった。


「エミリーはどこ?! どこにいるのっ?! 答えなさいっ!」


 この祈りの間にいるのは、鋼鉄の蜘蛛の巣に貼り付けにされたセドリックと、側で絶望の表情を浮かべるレジーナ。その二人だけだ。


「……アレは隠れてしまったよ。一番の馳走になると思ったのにね。君が下手な助言でもしたのか……ああ、まったくタイミングが悪い」


(……エミリーは無事だったんだっ)


 安堵がほんの一瞬ドロシーの緊張を緩めるが、しかし、ここで安心しきってはいけない。

 スヴァトスラフ司教はまともではない。


(そもそもこの人はスヴァトスラフ司教なのっ?)


「――貴方は誰? 何者なのっ?! 司教が愛する教区の信徒にこんなことをするはずがないわっ!」


 ドロシーの体を駆け抜ける憤怒の魔力が、怒りの炎となってミスティルテインの杖を覆った。

 ごう、と火が立ち上るが、スヴァトスラフ司教は冷静な狂気を携えながら、微笑んでいる。


「白ともつかぬ、黒ともつかぬ、全てが混じる混沌なる灰色」


 彼の灰色の瞳から、はらりと涙が落ちる。


「それが僕だ」

「……混沌」


 ドロシーは呟いた。

 同時に、信じられないと首を左右に振った。


 混沌の魔石。

 混沌。

 カオス。


「貴方は、エトアルさんの眷属……?」


 彼は答える。冗長で、どこか詩的な歌のような言葉を口ずさみながら、両手を広げ、聖印の中で踊る。

 しゃらんと彼の豪華な菫の錫杖が鳴る。


「この聖者たちの憎しみを糧に、永劫に続く夜の到来を祝って、聖なる魔女の血で乾杯しましょう」


 ボロボロと涙をこぼしながら、スヴァトスラフ司教は――いや、カオスは言った。


「愛しき我が王よ」



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