5-8 ドロシー、晩餐に招かれる
一面の菫畑を歩く。
舗装された遊歩道を行くスヴァトスラフ司教。
彼の横に並び歩くドロシーは、嫌な緊張感に冷や汗が止まらなかった。
スヴァトスラフ司教が歩く度に涼やかになる錫杖の音が、ドロシーを咎めているような気がしてならなかった。
「ドロシーくん」
「は、はい」
菫畑の中で、突然、彼は歩みを止めた。
そして、郷愁の色に塗れた灰色の双眸でドロシーを見つめると、大きくその瞳孔を拡げた。
「実はね、僕はずっと探していたんだ」
「何を、ですか?」
「君をだよ」
スヴァトスラフ司教が歩み始める。
しゃらんと錫杖が鳴る。
「わ、わたしを、ですか?」
ドロシーは昨晩、彼との会話を思い出す。
スヴァトスラフ司教は何かを探しているような口ぶりだった。
――君は、僕が探し求めた存在なのかもしれない――
探し求めた存在。
(それがわたし?)
魔力と法力を同時に持つ自分が、類い稀なる存在であることは分かっている。実感はないけれども。
だが、ドロシーはドロシーだ。
ドロシーが救いを求めるように、肩に止まる夜鷹を見た。
彼は夜空色の目をじっとスヴァトスラフ司教の背中に向けている。
「そう、君を探していたんだ。……何百年も昔からずっとね」
「な、何百年って……そんな大げさな。だって、菫司教はまだお若いでしょう」
ドロシーは彼が冗談を言っているのだろうと思った。
だってそうだ、数百年も生きる人間はいない。ドロシーが知る、もっとも長く生きた記録を持つ人間の享年は一二二歳だ。
スヴァトスラフ司教の年齢は、見たところ四〇も半ばほど過ぎた頃。
教区長を務める司教の中では、むしろ若いくらいだった。
だけれども、菫司教はさながら自分が〝数百年〟を生きた人間であるかのような口ぶりで続けるのだった。
「何百年も昔から、ずっと、ずっと、ずっと……探して、探して、探して、探してきたんだよ。君がどこにいるのか、どこで生きているのか、何度も、何度も、何度も生まれ変わっては、探し続けたんだ。君もきっと、何度も生まれ変わっては、その都度、人生を終えていただろうと思って」
「菫司教……?」
「ヒトア教の上位に上り詰めれば、あるいは、君を見つけ出すことが出来るかもしれないと、何百年も耐えてきたんだよ」
彼が足を止める。
菫畑はもう終わる。
風が爽やかな甘い匂いをドロシーの鼻孔に運ぶ。
目の前には【菫大教会】の荘厳な輪郭が、月明かりに照らし出される姿がある。
菫色の屋根、いくつもの窓、溜息すら出てきそうな美の建造物。
その前に立ち、彼は振り返る。
灰色の目は陶酔の色を宿していた。
「僕はスヴァトスラフ・クライーチェク」
舌のもつれそうな名を紡ぎ、彼は続ける。
「以前の名前は、セバスチャン・ロドリゴ」
知らぬ男の名を話し、彼は続ける。
「その前は、マリー・ローズ」
そこでスヴァトスラフ司教は目を閉じる。
「まだ覚えているよ、かつて僕だった者たちの名前を。ざっと五〇〇年分は覚えているかな。僕の両親だった人、僕が愛した人、僕の子供だった人、僕を殺した人、僕が殺した人……全ての人たちの名と顔が僕の魂に刻まれている」
灰色の目が月の光を受けて煌めいた。
銀縁の眼鏡と共に、妖しい光をそこに映している。
「いくつもの戦火を乗り越え、いくつもの差別を乗り越え、時に虐げる側に回り、僕はこの魂を繋いできた」
彼は決して嘘を吐いているようには見えなかった。
妄想を語っているようにも見えなかった。
ただ、淡々と、己の記憶を言葉として落としている。
「そして、僕はスヴァトスラフ・クライーチェクとして生を受けた」
ドロシーの心臓は早鐘を打っていた。
耳の裏で脈打つ音が木霊している。
「……菫司教、……貴方は転生の記憶を持っているんですか。前世の、記憶を……」
輪廻転生。
ヒトア教徒が信じるその教え。肉体は滅びても魂は残り、そして新たな肉体に降り立ち、再び人としての生を受けると信じていた。
だが、その教えを裏付ける証拠はどこにもなかった。
前世の記憶をはっきりと持ち、その記憶と歴史が裏付けられた転生者は、一人として現れなかったからだ。
スヴァトスラフ司教がドロシーの前に傅き、錫杖と経典を菫畑に埋め、そして頭を垂れる。
「全ては君を……いや貴方様を見つけるためだった」
そして彼はドロシーの手を取って、その左手の甲に唇を寄せる。
星の光が宿る召喚印。その上に乾いた唇を押しつけて、それから彼はドロシーを見上げた。
「聖女ヒトア様。貴方様の魂を、この僕――スヴァトスラフ・クライーチェクの魂は探していたのです」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」
ドロシーはとっさにスヴァトスラフ司教の手から自身の手を引き抜いていた。
「わたしが、せ、聖女ヒトアっ……?! そんなことって」
「昨晩の聖印、その反応を見て確信したのです。貴方様こそ、僕が探し求めた聖女ヒトア様に他なりません」
「ちょっと、待ってください、頭が痛くなってきました。わたしが、生まれ変わり? その話し方も、や、止めてください、菫司教っ!」
頭痛がする。
息が上手くできない。
「聖印のことだって、昨日今日の話で……それだけで、わたしを聖女ヒトアの生まれ変わりだと決めつけるのは……!」
ドロシーが聖女ヒトアの生まれ変わり?
そんなことがあっていいのだろうか。
そうだ、もっと調べる必要があるのではないか。
ドロシーが聖女ヒトアの生まれ変わりだと、聖印の反応だけで決めて良いのか。
「……ドロシーくん。簡単に信じることはできないと思うよ。僕だって、今も信じられない気分で一杯だ。でも、君以外に考えられないんだ」
さあ、とスヴァトスラフ司教は再びドロシーの手を取った。
少し冷えた大きな手の平が、ドロシーの手をがっちりと掴む。今度は逃がさないというように。
「準備は出来ている」
スヴァトスラフ司教が立ち上がる。
「君へ捧げる晩餐だよ」
それから強く握りしめていたドロシーの手を解放した。
「ば、ばんさんっ? え、エトアルさんっ……」
ドロシーは再び使い魔に助けを求める視線を送った。
しかし――
(どうして急に黙りこくってるのっ?)
いつものエトアルであれば、ドロシーが困ったときは何かと(暴力的な方法であったが)こうしてやろうかと提案をしてきたものだったが。
今のエトアルは夜鷹の剥製になったかのように動かない。
「さあ、こちらに……セドリックたちも君を待っているんだ」
錫杖と経典を両手に、スヴァトスラフ司教は【菫大教会】の中に入っていく。
「え?! セドリックが……?」
ドロシーは慌ててスヴァトスラフ司教の後に続く。
エミリーの話では、セドリックは部屋に籠もっているのではないかと言われていた。
実際、今日の夕食の時も、ドロシーはセドリックの姿を見かけなかった。
オリエッタを逃すルートを探るために、教会敷地内を回っていたこともあるだろう。
きっと部屋に籠もり、傷ついた心を癒やしているのだろうと勝手に思い込んでいた。
セドリックたち。
(エミリーもいるの? レジーナさんも? 他のヒトア教の人も?)
【菫大教会】の巨大なドアを潜った先、広がるのは僅かな月明かりに照らし出される大聖堂。そこに見慣れた友人の栗毛はなく、あるのは薄く広がる闇の気配。
誰もいないがらんどうの講堂内部をスヴァトスラフ司教は進んで行く。
彼は講堂の奥に佇む、巨大な聖女ヒトア像の脇を抜け、奥に位置するドアの前に立った。
「菫司教、この先は……エトアルさんのこともありますし……」
躊躇う言葉と共に、ドロシーは夜鷹を見た。
この先は、教会内部でもっとも神聖性の強い場所。祈りの間だ。
スヴァトスラフ司教が体調を崩し、神聖性の薄れた今では、ここに魔族の長であるエトアルを連れ込むことに抵抗感がある。
ここに訪れたばかりの時のように、弾き飛ばされてしまうのではないかと。
ウエストポーチの中には、例の魔族の魔力が込められた、混沌の魔石も収まっている。
こんな魔法装備でいっぱいいっぱいな状態で、ドロシーがこの祈りの間に入って、果たして無事で済むだろうか。
「魔石もそうです。昨日、聖印がわたしのせいで、変な風に浸食されたじゃないですか。今のわたしが、そのまま、ここに入るのは……」
「大丈夫。全て分かっているから。分かっているから、僕はここに君を通すんだ。その夜鷹の魔獣も含めて、ね」
そう言って彼はドアを開いた。籠もっていた生ぬるい風がドロシーの頬を撫でる。
そして彼は囁く。腹の奥底に響くような低い声色で。
「オリエッタを逃がしただろう? あの記者を名乗る男と一緒に」
「え?」
驚愕にドロシーが目を丸くすれば、彼は優しく微笑んだ。
「いいよ、何も言わなくて良い。僕はとても気分が良いんだ。体調は最悪だけれどもね。でも、良いんだ。全部、報われる。やっと……やっと……」
譫言のように繰り返して、スヴァトスラフ司教は祈りの間へと進んで行った。
そこで、ドロシーは気が付いた。
甘く爽やかな菫の、噎せ返るような匂いの中に混じるそれの存在に。
「……血の、臭いがする」
ドロシーの肩に止まる夜鷹が、その全身を覆う樹皮色の羽毛を大きく膨らませた。
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