5-7 ドロシー、猫を逃がす



 ――夜。


 この間まで空に立ちこめていた雲はヒトト山の果てに向かい、空は快晴。

 欠けた銀の月の光が地上を良く照らし出している。


 ドロシーは周囲に人がいないことを確認すると、そっと宿舎一階の窓を叩いた。

 間もなく窓を開けて顔を見せるのは、どこか不満そうな表情を浮かべる猫の魔女。


「遅いにゃ。そのまま見捨てられたかと思ったよん」

「わたしはちゃんと約束は守ります。人の目を盗んで行動するのって、思った以上に大変なんですから」


 窓枠からしなやかな動きで宿舎裏の庭に降り立つオリエッタ。

 ううん、と猫が伸びをするように体を伸ばし、悩ましげにうなり声を上げる。


「ま、聖職者の巣に魔女が一匹じゃ、目立ってしょうがないか。さ、早く逃がしてちょうだいにゃ」


 軽快な物言いだが、オリエッタは警戒を解いていない。

 鋭く目を細めては、この暗がりの中に誰か潜んでいないかと確認している様子だ。


 庭の奥から、金髪の男がやってくる。

 また夜に、と別れ際に言った通り、フィンはオリエッタを逃がすためにドロシーの元に戻ってきてくれたのだ。


「……ドロシーちゃん、確認してきた。こっちはいないみたいだ」


 フィンの報告に続いて、ドロシーの耳朶を叩くのは低い夜鷹の囀りだ。


「こちらもだ、主。空から一度見てみたが、警備の数はそう多くない。すぐにでもこの猫女を連れ出すことが出来るだろう」


 信頼の置ける夜鷹の言葉に大きく頷き、「では、急ぎましょう」と一歩踏み出したところでオリエッタが言った。


「あ、ちょっと寄って欲しいところがあるんだにゃ」

「ふぇ? でも、ルートは大まかに決めちゃってて」

「あーん、ごめんね。赤毛ちゃん。でも絶対そこに行かないといけないのよん」



 ☆ ★ ☆ ★ ☆



「ホントにそこに隠しているんですか?」


 オリエッタが大きな臀部を突き上げて、茂みの中を弄っている。


「そ、来る時ここで一度着替えたのよん」


 猫の魔女が言った〝寄って欲しい場所〟とは、彼女が【菫大教会】に侵入する際に利用したルートの出発点。

 教会敷地内とリキノトを隔てる鉄柵の囲いの側に広がる植え込みの一角だった。


「あったあった。うちの大事な魔法装備~」


 植え込みの葉や土で汚れていたが、オリエッタが探し当てたそれは間違いなく、ヒトト山で見かけた彼女の魔法装備である。

 猫耳つきの三角帽子に、布地の少ないローブ。それから猫の意匠が施された精霊樹の杖。


 確かにこれらを置いて出て行くのは、魔女としては心許ない。

 オリエッタが寄らなくてはいけないと固辞するだけのことがある。


 少なくとも、ミスティルテインの杖は魔法使いが魔法を使う上での必須装備。これなくしては、結界の届かない山中でも魔法を行使することは難しい。


 オリエッタは大事な魔法装備の汚れを手で払うと、おもむろに自分の法衣に手をかけた。

 菫がデザインされた神聖な衣の留め具を外していくと、男二人(内一人は夜鷹)の面前だというにもかかわらず、脱ぎ始めた。


「ふわっ……?!」

「な、おいアンタ」


 突如として始まったオリエッタのお着替えタイムに、ドロシーは赤面した。

 エミリーほどではないものの、オリエッタも成熟した女性の美貌を携えている。


(瓜じゃないけどメロンが……メロンが)


 この場で平然としているのはおそらく、魔族の長たるエトアルくらいだろう。

 ドロシーもフィンも銅像になったかのように固まってしまっている。


「なに? 女の裸に耐性ないって感じ? 軟派野郎の見た目して、実は初心なの~?」

「んなわけねえだろ。見慣れてるよ、一〇〇人分くらい見たね」

「にゃは、嘘つきはダサいにゃ」

「嘘じゃねえっての」

「もう、お、オリエッタさん、早く着ちゃってくださいっ……! いつ見つかるか分からないんですからっ」


 言い合いをしている場合ではない。

 今、ドロシーたちは、あろうことか襲撃者であるオリエッタを逃がそうとしているのだ。


 ここを誰かに見られようものなら大問題だ。


「……己がどのような状況下に置かれているのか分かっているのか、こやつは」


 はあ、と鳥の外見にはふさわしくない長い息を吐いてから、エトアルは呆れた様子で囀った。


「さて、これでよし、と。あー、やっと本来のうちに戻れたにゃ」


 ドロシーに急かされるままにするするとローブを纏い、猫耳つきの三角帽子を被ったオリエッタ。

 最後に精霊樹の杖を握った彼女は「アンタって、ホントにお人好しにゃあ」とせせら笑う。


「一〇〇万レラ蹴って坊ちゃんたちの味方したり、今もそう。二度もアンタを殺そうとしたってのにさ、必死に助けようとしちゃってさ」


 そこでオリエッタは猫の意匠を施した杖をドロシーに向けた。

 そして怪しく目を細める。


「うちが嘘吐いてるかもしれないって思わないわけ?」


 肝がぞっと震えるような、そんな低い声でオリエッタは言う。

 だが、今のドロシーは平然としていた。


 怖くはない。声こそ恐怖心を煽るそれだったが、だが、今のオリエッタから殺意を感じられない。


 何よりドロシーへの敵意に反応するエトアルが夜鷹の姿でこの状況を見守っている。

 これが何よりの答えではないか。


 ドロシーは眼鏡のブリッジを押し上げると、厚めのレンズ越しに彼女を見上げ、そっと笑いかける。


「だって、オリエッタさんはそんな人じゃないですから。お金のために聖者殺しに加担するような人ですよ? そんな人は何より自分の命とお金が一番大切なはずです。わたしが差し上げた三四万レラと、何とか繋ぎ止めた命をここで捨てるような人じゃない……でしょ?」


 ここでオリエッタが魔法装備を得たからといって、使い魔である火車を呼び寄せたとしても、エトアルと、ヒトト山の時より成長したドロシーを相手に勝てるとは思わない。

 おまけにここにはフィンもいる。魔導機を持たないフィンの戦力はあまり期待出来なかったが。


「ありゃ、赤毛ちゃんにはお見通しってわけ?」


 くすくす、と擽ったそうに笑うオリエッタ。

 それから彼女は「じゃあ、これは分かったかにゃ?」とからかうように言っては――ドロシーの頬に唇を寄せた。


 ちゅっと耳元を掠めるリップ音にドロシーの時間は止まる。


「ひょわ?!」

「うぶな反応だにゃあ。ハンサムさん以外にキスしてあげるのはアンタが初めてだよん」


 にゃは、と彼女はだらしなく笑っては、硬直するドロシーの脇をすり抜けて「じゃあねん♡」と甘く囁く。


「アンタがピンチの時は、助けてあげてもいいにゃ」


 猫のようなしなやかな動きで大地を蹴ると、彼女は教会敷地内とリキノトを隔てる柵を跳び越えた。

 そしてそのまま、振り返ることもせず、猫の魔女は夜の街に消えていった。


「な、なんちゅう奔放なヤツ。マジで猫みたいな女だったな……」


 呆然と立ち尽くすフィンが独りごちる。


「とにかく、オリエッタさんを約束通り逃がしましたし、わたしたちは一度部屋に戻って……」


 がさり、と何かを踏みしめる音が背後より聞こえた。


「……っ! 主、……」

「――フィンさん、行ってください。わたしが対応します」

「お、おい」

「早く行ってください」

「……分かった、やばそうだったらすぐ逃げるんだぞ」


 ドロシーに気圧された様子のフィンは、そのまま音とは逆の方向へと逃げ出した。

 彼の姿がすっかり教会の陰に隠れたのを確認すると、ドロシーは音の方を伺った。ひょこりと長い三つ編みを揺らして、振り返る。


「やあ、こんな夜更けに何をしているのかな?」


 すると間もなく、低い声が、ドロシーの頭上より降りかかる。

 彼は銀縁の眼鏡を影の中で光らせながら、灰色の瞳でドロシーを見下ろしている。


 スヴァトスラフ司教だ。

 菫の花冠に、豪奢な菫色の法衣。錫杖と法典といった、司教の姿そのままで彼はそこに立っている。


「す、菫司教っ?! お体の方は大丈夫なんですか?」


 ドロシーはぎょっとした。

 見回りをしていた【菫大教会】の誰かだろうと高をくくっていたが、まさか、スヴァトスラフ司教が直々にやって来るだなんて思いもしなかったのだ。


 彼はずっと祈りの間に籠もっていた。

 昼食の時にも顔を見せなかったし(これは昨日の夕餉の時もそうだったが)、魔石のことについて訊ねにも来なかった。今日一日は、休息が必要なのだろうと思っていた。


 何より、彼の付き添いとして祈りの間に行ったというレジーナの姿が、日中まるで見えなかったので、きっと体調の優れないという彼にかかりきりなのだろう、と。


「ああ、もう大丈夫だよ。今朝は悪かったね。粗相をしてしまって」


 スヴァトスラフ司教はあっけらかんと答えるが、正直なところ顔色は芳しくない。

 昨日の夜、共に空を見上げたあの時よりもずっと血色が悪く見えた。


 だが彼は大丈夫だと言い張る。これではドロシー何も言えない。


「……い、いえ。お元気なら、それで良いんです。エミリーも心配していましたし」

「エミリー? エミリーと会ったのかい?」

「はい、聖堂の方で……少しお話をしましたが」

「そうか……いや、良いんだ、もう」

「……どうか、しましたか?」

「こちらの話だよ。さて、君はどうしてここに? こんな敷地の縁の方で何を?」


 スヴァトスラフ司教はふわりと笑い「分かっているよ」と全てを悟ったような目でドロシーを見つめた。

 心臓がどきりと跳ね、嫌な汗が滲み始める。


「えと、それは……」


 ドロシーが口ごもれば、スヴァトスラフ司教は小さく笑声を上げた。


「お散歩だろう? 今日はとても良い日だからね。この間は雲が張って、少し景観が悪かったけれど、今夜は素晴らしく晴れ渡っている。ここまで雲のない夜も珍しい」


(良かった、オリエッタさんのことまだバレてない……)


 いくら依頼主の情報入手のためとは言え、フィンの命がかかっていたと言え、事前の連絡なしにオリエッタを逃がしたことは許されることではないだろう。


 ドロシーが胸をなで下ろしていると、不意に視界に落ちる一粒の雨。

 雲一つない空から、どうして雨が、と疑問に思い面を上げれば、また一つ粒が落ちる。


「……良い日だ。とても」


(え? 菫司教――泣いてる?)


 彼の顎から落ちる涙に、強い既視感を覚えた。


 祈りの間でも、スヴァトスラフ司教は泣いていた。

 法力の止め方が分からず、果てには祈りの間を破壊しかねない一歩手前まで行った時、彼ははらはらとこぼすように泣いていた。


 その理由を考える前に、オリエッタに襲撃されてしまったが。


「おっといけない。年を取りたくはないね。あはは、涙脆くなってしまって。夜を見ていると、心が落ち着くと同時に、郷愁に駆られるんだ」


 銀縁の眼鏡を取り払い、目元を手の甲で拭っては彼は力なく笑った。

 目元を飾る眼鏡を失った彼の眼窩は、落ち窪んで見える。


 この二日で彼は酷くやつれたように思えた。


「昔を思い出すんだ。遠い昔をね。だからいつも僕は夜空を見上げた。どれだけ苦しくても、どれだけ過酷な運命でも耐えられた……僕の使命を果たすためなら……」


 再び眼鏡を装着し、スヴァトスラフ司教は笑いかける。


「君はどうだい、ドロシーくん」


 涙はもうそこにはない。


「君は何故、夜に焦がれるのだろうね? 君は何を想っている?」


 さあ、と彼は続ける。


「少し歩かないか? こんなに良い夜なんだから」


 静かに、淡々とした散歩へのお誘い。

 ドロシーはどうしてか断ることが出来なかった。

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