5-6 ドロシー、聖女に警告する
「エミリー」
エミリーを探し出すのは簡単だった。
彼女は【菫大教会】の聖堂で、巨大なヒトア像の舞前に傅き、祈りを捧げていた。
その傍らには陶器の置物のような聖獣ユニコーンの姿もある。
昨晩、一人の魔女が魔女に襲撃されたことなど忘れたかのように、聖堂の中は静寂に包まれていた。
スヴァトスラフ司教が落とした嘔吐の痕跡も、綺麗さっぱり片付けられている。
ドロシーの声に気が付いたらしいエミリーがふと立ち上がり、こちらへと視線を向けてくる。琥珀色の瞳は僅かに潤んでいるように見えた。
「ドロシー、どうしたの? 何かあった?」
「エミリ-に話したいことがあって……邪魔だったかな? お祈りの最中だったんだよね?」
エミリーは聖女ヒトア像の白い姿を見上げ、その豊かな胸にそっと手を当てる。
「ううん、大丈夫よ。お義父さまのことが心配で、お義父さまのお役目にお力添え出来ればと、ヒトア様に祈りを捧げていたけれど……もうお祈りはお終いにするわ」
それから伏し目がちに、祈りの間に続くドアを見つめた。
重い溜息を一つ吐くエミリー。彼女は本当に心からスヴァトスラフ司教のことを心配しているようだ。
「菫司教の方はどう? 体調は……」
「あれからずっと籠もっていて……レジーナさまが側についておられるけど、心配ね。今日はもう祈りで手一杯だと思うわ。レジーナさまがそう話しておられたから」
「そっか。大変だね。司教っていうのは。体調が優れなくても祈り続けなきゃいけないから」
「……そう、ね。とても大変なお仕事だと思うわ。リキノトのために、国民のために祈り続ける。自分を犠牲にして……」
そこまで話したところで、エミリーは訊ねてきた。
「ドロシーの表情を見れば分かるわ。何か重要な話があってここに来たのよね?」
「……うん。それで、セドリックは? セドリックにも伝えたいんだけど」
頭に戴く菫の冠の軌跡を生み出しながら、エミリーは首を左右させた。
「そういえば、あれから姿を見ていないわ。お義父さまを手伝いたいと言ってはいたけど……誰よりもお義父さまを慕うセドリックだもの、ここで祈りを捧げに来ないのも、不思議ね。もしかしたら、部屋に籠もっているのかもしれないわ」
ピメの村の小さな教会でも、それからリキノトに向かうまで訪れた町の教会でも、セドリックは毎朝欠かさず教会に赴き祈りを捧げていた。
そんな敬虔な聖人が、どうして今、エミリーの傍らにいないのか、ドロシーも不思議だった。
「あの子、凄く真面目で、真っ直ぐで、言葉遣いも時々荒々しいし、見た目も背が高くて立派だから、皆、あの子このことを強い子だと思うだろうけど……でも、誰よりも純粋で、誰よりも傷つきやすいの。お義父さまが魔力に中てられたみたいに、セドリックも体調を崩しているのかもしれないわね。色んなことが起きたから……」
さらに不安の色が濃くなる琥珀の瞳。
鉛みたいに重い吐息を吐き出すエミリーに、さらに衝撃を与えるようなことを告げるのは気が遅れたが。
(友達のためだから)
ドロシーは意を決して「エミリー、ちょっと一緒に来て欲しいんだ」と、彼女の目を見据えた。
「二人きりで話がしたいの」
☆ ★ ☆ ★ ☆
ひゅ、と聖女の息を呑む音が、【菫大教会】の裏、綺麗に剪定された植木の影の下に広がった。
目立ちすぎる聖獣ユニコーンは、可哀想だが植え込みの影の裏に伏せてもらっている。それでも特徴的な陶器の一角が、茂みからにょきりと伸びているが。
しかし、目立つからといって、エミリーとユニコーンを離ればなれには出来ない。
なんせ、ここには。
「――、【菫大教会】に裏切り者がいるかもしれないって?」
「し、静かに」
驚愕に震えるエミリーの声が、周囲を行き交う一般来訪者や聖職者の耳に届いては大変と、ドロシーは自分の唇に指を押し当てるジェスチャーを見せた。
「それは本当なの? ドロシー」
「うん。オリエッタさんから直接聞いたんだ」
「直接? 彼女、目覚めたのっ?」
「そうなんだ。それでね、エミリー……この手紙を見て。昨晩の襲撃について事細かに指示が書かれてる」
ドロシーは周囲を警戒しながら、オリエッタから受け取った指令の手紙をエミリーに手渡した。
「オリエッタさんが簡単にここに侵入出来たのも、多分、協力者がいるからだと思う。エミリーたちの法衣だって簡単に手に入る代物じゃないでしょ? でも、オリエッタさんはそれを着てわたしを襲った。薬だってそうだよ。簡単に用意出来るものじゃない」
「……そんな」
信じられないと言うように、エミリーは大粒の宝石みたいな瞳を揺らしている。
その反応は当たり前だ。
彼女が巡礼の旅に出るより以前から、世話になっていた【菫大教会】に裏切り者がいるかもしれないだなんて。信じたくもないだろう。
「ね、エミリー。怪しい人はいなかった? なにか心当たりはない? 菫司教や、エミリーたちを妬んでるような人」
「……分からないわ。そんな人、心当たりにもないわ。だって、お義父さまは、……スヴァトスラフ司教はとても素晴らしい方なのよ。教区長に選ばれるだけの人望を集めている方なのよ」
エミリーは心が受けた衝撃を和らげようと深く深呼吸をする。
「早くこのことをお義父さまやレジーナさまにお伝えしなくちゃ」
「……、ま、待って。エミリー。伝えるのは、もう少し待って欲しいの」
「どうして? お義父さまを陥れようとする誰かがこの教会にいるのかもしれないんでしょ?」
「この手紙には、……菫司教やレジーナさんでしか知らないことが書かれてる。あの客室が盗聴されていたか、あの二人に近しい人が裏切り者かもしれない。だから、伝えるのは少し、待って欲しいの。……難しいことかもしれないけど……」
無茶なことを言っている自覚はある。
エミリーにとってお義父さまは、絶対的な存在だ。
「ドロシー」
凜とした聖女の声が、ドロシーの胸を射貫く。
「ドロシーは、もしかして……お義父さまやレジーナさまを疑ったりしてる?」
「ち、違うよ。違う。だって、二人がそんなことをして何の利点もない、でしょ?」
少し、怪しんだのは事実だが。
だが、彼らが聖者暗殺を企てたところで、何の利点もない。
かろうじて、スヴァトスラフ司教が失脚した後の後釜を狙えるという点でレジーナを怪しむことは出来なくもないだろうが。
しかし、こんな手段を用いて彼の失脚を狙って司教の後釜に着くより、そのままスヴァトスラフ司教を枢機卿に押し上げてから、自分が司教の座に着く方が確実だ。
それとも何か他に利点があるのだろうか。
聖者たちを嬲り殺しにすることで、何か得られる利点が――?
「そうよね。疑ってはいけないわ」
「エミリー?」
「……ごめんなさい、ドロシー」
ドロシーを見つめる琥珀色からぽたりと涙がこぼれる。
一つ落ちればまた一つと、涙は落ち続けた。
頬を落ちる涙を拭うこともせずに、エミリーは震える声で言った。
「私、怖いの。リキノトに戻れば、きっと大丈夫だって、お義父さまの側に、ヒトア様の側にいればきっと大丈夫だって、信じていたの」
でも、と彼女は続ける。
「そんなことはなくって、それどころか、貴方を危険に晒してしまって。私が、リキノトまで来て欲しいってお願いしたから、お義父さまに紹介したいって我が儘を言ったから……」
白く澄んだ頬が赤く上気している。エミリーはその上を伝う涙をやっと拭った。
「今だって、そうだわ。貴方に頼ってばかり。オリエッタのことだって、貴方が全部やってくれて……」
「エミリー、……そうだよね、怖いよね」
ドロシーはぎゅうっとエミリーを抱き締めていた。
しばらく前にダニー少年にそうしたように。
柔らかくて、弾力があって、魅力的なエミリーを、幼子を慰めるように抱き締める。
「ドロシー……」
「エミリーはわたしの大切な友達。一緒に旅をして、一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂に入って。出会ったのは偶然だけど、でも、わたし、エミリーたちと出会えたことを後悔なんてしてないよ」
ドロシーは成長した。
ずっと逃げてきた【薔薇園】の問題と立ち向かおうと思えた。
それも全部、ヒトト山で彼女たちと出会えたからだ。
「ね、エミリー。このこと、セドリックにも伝えたいんだ。彼が今、どんな状態なのかはわたしには分からないけど、エミリーの言葉ならきっとセドリックに届くはず。だってこんなに素敵なお姉ちゃんだもの」
甘い菫の匂いを漂わせるエミリーの栗色の髪を優しく撫でてから、ドロシーは彼女から離れた。
そして、彼女を不安がらせまいと、ドロシーははにかんだ。
「何時、襲われるかも分からない。とにかく、警戒して欲しいの。ユニコーンとは絶対に離れないでね。セドリックにも、タイタンと離れないように伝えて」
「……うん。私、ドロシーを信じるわ。私たち兄姉のために戦ってくれたものね……」
そこで彼女は側で膝を折って休む陶器の一角獣に視線を向ける。
「ユニコーンを従えた貴方の祈りは、私たちのものと変わらない。だから信じる。そう、ヒトア様に誓って」
「エミリー?」
「ううん。何でもないわ。私、自分の部屋に戻るわね。セドリックにも伝えておくから」
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