間話 使い魔王、リキノトでコーヒーを堪能する②



 かつて、遠い時の中で起きた、二つの種の戦い。


 魔族と人族の存亡を賭けた長きに渡る戦いだ。


 魔も人も幾度となく王を変え、殺し合い、ついに訪れた最終局面。


 自らの身を捧げ、エトアルと共に永劫の闇に屠られた聖女ヒトア。


 聖女ヒトアの使命は、その身に残された命の限りを賭して、魂にエトアルの魔力を封じ込め、浄化することだった。


 エトアルは魔族の長。魔力の続く限り、不滅の時を生きることを可能とする魔族を滅ぼすには、その魔力を完全に浄化する他なかったのである。


 闇に囚われたエトアルには、彼女が展開した結界を解くことは出来なかった。

 勇者を名乗る男との激戦によって、消耗していたこともあるだろう。勇者の聖なる剣によって、聖女ヒトアと体を繋ぎ止められていたせいもあるだろう。


 だが、何より、聖女ヒトアの、人類の勝利のために命を捨てるという覚悟と自己犠牲の精神の前には、エトアルの魔力などまるで塵芥のように役に立たなかった。


 エトアルは闇の中で死を待つばかりだった。じわじわと命同然の魔力を、この小娘に奪い取られる。ゆっくりと殺される運命にあったのだ。


 彼女の勝利は、彼女の死を持って約束されていた。

 同じく死を待つ運命、黙っていれば良いのに、何故かヒトアはエトアルに良く話しかけたのだ。


 ――花は好き?――


 最初の問いはそんなものだった。

 エトアルは答えなかった。


 聖女ヒトアは勝手に話し続けた。

 最終決戦では鬼気迫る表情を浮かべていたというのに、このときの彼女は年相応の少女の振る舞いでエトアルを困惑させる。


 ――私は好きよ。まず、菫でしょ、向日葵も良いわね。ああ、薔薇も好きなの。貴方は? 夜の王さん――

 ――何故我に話しかける。そなたの命も、我の命もこの永劫の闇の中で滅びる定め――

 ――だからって、黙っていてはつまらないでしょ? 少なくとも後八〇年は一緒なんだから。だから、お喋りしましょ?――

 ――訳が分からぬ――

 ――……、いずれ分かるわ――


 聖女が寂しげに放った言葉の理由を知ったのは、このときよりおよそ一〇〇年ほど経過した後のことだ。


 ――貴方は恋をしたことはある? あ、私はあるわ。この際、誰も聞いていないから……言っちゃおうかしら。勇者さまよ――


 聖女ヒトアはエトアルがうんざりするほどに話しかけてきた。この話題を振ってきたのは、闇に封じられて四年ほど経ったころのこと。

 一人の女性と成長した聖女ヒトアは恋の話をした。


 ――戦いの前に、一度伝えておくべきだったかしら。でも、無理ね。だって、そうでしょ? この想いを伝えてしまっては、きっと、この祈りの力を自分のために使ってしまうでしょうから――


 それから、彼女は訊ねる。貴方は、と。

 エトアルは答えない。答えないまま、また十数年の時が流れた。


 その間も彼女は話し続けた。外の世界のこと。勇者と仲間たちと共に旅をした世界の美しさのこと。彼女の愛する花々がどのような色をしていたか、花弁はどのように開くか、まるで蘊蓄を語るがごとく、彼女は話し続けた。


 エトアルが彼女の言葉に反応したのは、それからさらに三〇年ほど経過した頃だ。

 相変わらず反応のないエトアルに対して、何か思うところがあったのだろう。ただ、話しかけ続けることに彼女も飽いていたのかもしれない。


 ――もしかして、もう朽ちちゃった? 夜の王も大したことないのね――


(我はまだここにいる)


 ――じゃあ、まだお話し出来るわね――


(一方的に語り続けることは〝お話し〟とは呼ばぬ)


 ――なら今やっと私〝お話し〟出来たのね。嬉しいわ。ね、教えて、夜の王さん。貴方の好きなものはなに? 私はお花が好きよ。この話、もう何度も聞いて飽き飽きしてるでしょうけど――


(夜)


 ヒトアは驚いた様子で目を丸くさせた。

 まさか本当に〝お話し〟に参加するとは思いもしなかったのだろう。


 それから彼女はとても嬉しそうに、微笑んでは次の問いを投げかけた。


 ――それはどうして?――

(理由などあるまい。我は夜の王であるぞ。夜を愛さぬ夜の王などいるか?)


 エトアルは投げやりに答えた。

 もうどうでも良くなっていたのかもしれない。


 もとより、エトアルはこの戦に乗り気ではなかった。

 エトアルの父である夜の王が戦の最中に人に討たれ、その子であるエトアルが次の夜の王となったまでだった。


 ――じゃあ、次の質問ね。貴方の本当の名前は?――

(夜の王に名はない。王は魔族の象徴だ。象徴に名は不要であろう? 聖女ヒトアよ)


 その答えに、彼女は少し悲しげな表情を浮かべた。


 ――こうしてお話しをしていると、貴方が悪辣無情の王だとは思えなくなっていくわ。人を食らう魔族の王だとは到底思えない。貴方の目を見ているとなおさらそう思ってしまうわね――


 これまでの魔と人の歴史の中で、二つの種族はいがみ合い、殺し合う定めにあった。


 魔族は人の魔力を糧とする。

 言ってしまえば、魔族は人を食らって生きながらえる。


 こと、聡明にして清廉潔白な気高い魂を持つ聖者の精神を砕いて得られる〝至高の魔力〟を魔族は好んだ。本来ならば魔を浄化し討ち滅ぼす法力が、聖者が己のために祈ったその時、絶望の魔力と反転する。


 血と肉に宿る魔力からでは得られない、魂に宿る至高の味――


 魔族にとって人は家畜同然だった。

 高い知能を持つ人にとって、魔族は脅威そのものだった。


 苦しみの末に殺される運命など、到底受け入れられるはずがない。

 魔と人は長き時を争い、結果として、魔族は敗北した。

 眷属たちも同胞たちも、皆、エトアルのように浄化され消え去ったことだろう。


 怨敵である聖女と〝お話し〟をする夜の王のことなど、誰も知るよしもない。


 それからの数十年、エトアルはずっと彼女の問いに答え続けた。

 時を経るごとに、彼女が弱っていくのを腕の中で感じながら。


 気丈に振る舞っていた聖女が、エトアルの魔力に喘ぐようになったのはこの頃からだ。

 髪はすっかり白くなり、張りのあった顔に深い皺が刻まれ、指が枯れ枝のように細くなった。


 それからさらに時が経ち、エトアルは彼女の最期が近いことを感じ始めた。

 聖女ヒトアと共にこの闇に封じられてもう八〇年以上の時が流れている。


 ――最期に、貴方に伝えなきゃいけないことがあるの――


 あるとき、聖女ヒトアが口を開いた。

 一六才当時の面影を残した老婆は、落ち窪んだ眼窩で、それでも透き通った緑の目でエトアルを見上げていた。


 ――私の魂の力だけでは、貴方を滅ぼすことは出来ない。貴方の魔力はあまりに深い。遠く広がる夜の果てみたいに――


 彼女の目がゆるりと細められる。


 ――貴方に触れた時、すぐに理解したわ。貴方は私の手に負えないってね。だから、考えたの。もし、先に私が滅びてしまった時のことを――


 エトアルは押し黙り、彼女の語りに耳を傾けていた。

 これがきっと最期になる。そう思うと不思議と苦しくなった。


 彼女の魂に魔力を、命を吸い取られ続ける一〇〇年の苦しみよりもずっと、胸に突き刺さるような苦しさだった。


 ――でも、私にはどうすることも出来ない。この永劫の闇の世界で、貴方に出来ること……それはね、貴方に世界を好きになってもらうこと。美しいもの、愛おしいものを壊そうだなんて誰も思わないものね――


 くすくす、と老婆はくすぐったそうに笑った。

 彼女の滅びが迫っているこのときも、彼女は気丈に話し続けていた。


 ――ね、一つ聞かせてちょうだい。私といて楽しかった?――


(どうであろうな)


 ――あはは、最期まで貴方って強情ね――


(……)


 ――あら、拗ねないでよ。夜の王さん――


(拗ねてなどおらぬ)


 ――貴方なら、私が滅びた後、この闇の封印を破って外に出ることだって不可能じゃない。だって、この封印は私が作ったものだもの――


(ヒトア?)


 ――私の魂は、老いた肉体を離れて、主神の元に旅立つわ。でも、また、いつか、別の肉体を得てこの世界に帰ってくる――


 自分に言い聞かせるようにして、老いたヒトアは言った。


 ――もし、外に出たら、旅をしてみて。私の愛した美しい世界を見てきて。きっと私が語ったとおり、世界は美しいはずよ。ほら、見て。もう、貴方を繋ぎ止める勇者さまの楔はもうどこにもない。私が滅んだ後、貴方は自由に飛び立って、自由に世界を見て回れるわ。その美しい夜の目で――


 それから、皺の深まった口元を緩めては、笑った。


 ――またね、夜の王さん――


 エトアルを封じたその時と変わらない、大輪の花のような笑みを携えて。


(……そうか、逝ったか)


 それからエトアルはずっと闇の中をたゆたっていた。ヒトアの亡骸が朽ちて砂となり、闇の中に溶け込んだ後も、ずっと闇の中にいた。


 失われた魔力はそのままに、エトアルは長き時を最早意味をなさない封印の中で微睡んでいた。


 封印の力はあまりに弱い。エトアルの残された魔力であれば、きっと容易く打ち破ることが出来るだろう。


 だが、エトアルはそうしなかった。


(そなたの作戦は成功だ、ヒトア)


 一〇〇年もの時を共にする中で、彼女との〝お話〟の中で、聖女の存在は魔王の中であまりに大きくなりすぎていた。


 このまま滅ぶのであればそれで良いとすら思っていた。

 外に出ようという気は微塵も起きなかった。


 そんな時、声が聞こえた。

 少女の声。


 夜を想う一人の少女の声だ。

 エトアルは不思議とその声に惹かれ――「……おい、おっさん?」気付けばエトアルの面前に、目元に青たんを作った男の顔が迫っている。


 堪らず、エトアルは仰け反った。


「……っ、なっ!」

「おお、良かった。目開けたまま寝ちまったかと思ったぜ。大丈夫か? 上の空でさ」


 そう言って、フィンはエトアルの対面の席に戻る。

 彼のカップの中はすっかり空になっている。


 随分と長い間、エトアルは過去の世界に意識を飛ばしていたようだ。


「すまない。心配をかけた」

「いや、いいのさ。それで、話の続きなんだが……なあ、おっさん。旅人のアンタにちょいと聞きたい。この子、知らないか」


 フィンが懐から取り出すのは、写真という魔導機が生み出した瞬間の切れ端だ。

 そこには白と黒で描画された長い三つ編みの魔女が恥ずかしそうにポーズを決めている。


 彼女の肩にはエトアルの姿もある。

 もちろん、この人間形態ではなく、夜鷹の姿を取ったエトアルではあったが。


「この娘は?」


 エトアルは何も知らないと言った体で訊ねた。

 このフィン・ホフマンという男に悪意がないことは確かであるが、念のため。


「こんな可愛い見た目してるけど、この子はドロシー・ローズっていう手練れの魔女だ。聖者と一緒にリキノトに行ったって話は聞いたが、そこから足取りが掴めねえ。聖者の目撃情報はあるんだけどな」

「何故、この娘を追っている?」


 エトアルの問いに、フィンは真摯に答える。

 写真の中の魔女を見つめ「この子は、皆を変えられるかもしれないんだ」とこぼすように言った。


「あのどうしようにもねえ連中は、無理でも……傍観者たちの心は動かせるようになるかもしれない」

「というと?」

「赤毛差別の言葉を声高に叫ぶ連中を白い目で見ることはあっても、傍観者は動かない。ただ、見ているだけさ。もちろん、連中が何をするのか分からないって不安もあるんだろう。前の大戦でのトラウマが、声を上げることを邪魔してるのかもしれない。赤毛は恐ろしくて、悪い奴なんだって先入観があるんだ」


 フィンは矢継ぎ早に捲し立てた。


「この子は、ドロシーちゃんはそんな奴らの心を動かすことが出来る可能性が秘められてる。……いや、確実にあるね。なんせこの子は、聖者を二人も救ったんだぜ? 帝国の恐ろしい赤毛のイメージを払拭できる、希望の星なんだ」


 そして、雲一つない澄んだ夏の空みたいな青い瞳でエトアルを見つめる。


「だから、オレはドロシーちゃんを追って来た。おっさん、何でもいい。知ってることがあったら教えて欲しい」


 ――どうか否定しないで――


 聖女ヒトアの言葉とは裏腹に、今だ争い合う人々にエトアルが落胆すると、エトアルの主は悲しげにそう言った。

 何より人々の悪意を一身に受けてきた、ドロシーが、世界は美しいと信じようとしている。


 だから、エトアルはもう少しだけ信じてみようと思った。

 たった一六才の娘が命を投げ出してまで守ろうとした世界を、もう少しだけ、見てみよう。


 幼い主と共に、旅をして。


 魔王の考えをほんの少しだけ改めさせたドロシーだ、彼女の活躍はもしかしたらフィンの言うように、誰かの心を動かすかもしれない。


「……この娘なら知っているぞ。今、どこにいるのかもな」

「ま、マジか?! だったら教えてくれ。手持ちは……大分少なくなっちまったが、まあ、多少の報酬は支払う!」

「そうだな、であれば、この豆の代金を支払ってくれ」

「ま、豆?」

「ああ、手持ちが少なくてな。どうやってこの場を逃げだそうか考えていたところだ」

「……それ冗談だよな? ああ、分かった。払おう。大した額じゃないだろうしな」


 フィンが懐から財布を取り出し、硬貨をいくつか取り出した。

 おそらくそれで、この麻袋分の豆の代金はまかなえるのだろう。


「これで交渉成立だな」

「では手短に答えよう。すでにこの娘は聖者と共にかの大教会へと向かった。スヴァトスラフ司教とやらに会っているようだ」

「菫司教とっ?! クソ、いっつも遅れてる。教会に入るにゃ、オレはちょいと面倒な身の上でね」

「信者ではなさそうだな」

「ああ、信仰心はガキの時に捨てちまったよ」


 それからフィンはどのようにして【菫大教会】に立ち入るか、頭を捻り始めた。


「あそこは魔導機の持ち込み、禁止されてるしな……どうやって写真を撮るか……」


 うんうんと唸る男を置いて、エトアルは立ち上がった。

 ハンカチに包んだ魔石を片手に、店を出る。


 からんと鳴るドアベルの音を置き去りに、通りに出れば、目映い夕日がエトアルの目に差し込んだ。

 空の果てが朱に染まりつつある。夕暮れ時だ。


 主であるドロシーの気配は、夕日の陰となった大教会が放つ法力の向こう側に感じられた。


(まだ謁見とやらは済んでいない様子だな)


 ドロシーが法力の結界から解放されるまで、どれほど時間が必要かは分からないが。


(その間、魔石とはもう少し触れておくか)


 この魔石はただの魔力を込めただけの石ではない。

 長らく、ドロシーのポーチに収まっており、触れる機会もなければ、その許可もなかった。


 かつての夜の王も、今や一匹の使い魔。

 主従の契約を結んだ主の許可なくして、自由に行動することは難しい。


「おい、おっさん、待ってくれっ!」


 からんと背後でドアベルが鳴り、慌てた様子でフィンが飛び出してきた。


「何用だ?」

「情報提供者の名前は全部記憶しておくようにしてんだ。アンタの名前、まだ、聞いてなかっただろ?」

「我が名はエトアル」

「えと? って、どっかで……」

「我が主より賜った名だ。いずれまた聞くことになるだろう」

「はあ? って、あれ? おっさん、どこ行ったんだ?」


 困惑する記者を置いて、エトアルは夜鷹の翼を大きく広げた。


「怪我も治ってるし……」


 そして羽ばたく。


 夜が迫りつつある空を、力強く。

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