間話 使い魔王、リキノトでコーヒーを堪能する①
大都市リキノト。
中心に聳える【菫大教会】をシンボルとしたこの街には数多の人々と、数多の店が集っていた。
その内、なんと無しに入った店の、ウインドウに面した席に一人腰掛けながら、エトアルは一つ豆を口に放り込んだ。
「コーヒーとは美味であるな」
黒く煎った豆。これを人々はコーヒーと呼ぶらしい。
焦がすほどまで煎った豆の香りは格調高く、そして酷く苦く、そして固い。
エトアルが地上の半分ほどを支配していた時は、このような豆は存在していなかった。夜の王が封じられていた幾星霜の時の中で生まれた新たな食べ物のようである。
(しかしこれだけの豆をかみ砕けるとは)
エトアルはまた一つ煎った豆を麻袋から摘まんでは、口に放り込む。
「……人の咬合力とは我の思う以上に強いようであるな」
ばりばりと奥歯で豆を砕いていたところで「あの、お客様」とウエイトレスが話しかけてきた。
髪を短く切った赤髪のウエイトレスは、何やら奥歯に物が挟まったような物言いで言う。
「そちらは……その……ですね」
「何だ?」
「ひぃっ、な、なんでもございませんっ……」
エトアルと目を合わせたウエイトレスは、顔をひくつかせると瞬く間に店の奥へと戻って行った。
皆、エトアルの目が恐ろしいらしい。
エトアルの姿が物珍しいのか、好奇の視線を向ける者はいても、視線を合わせようとするものは一人もいなかった。
(こうして主以外の人間を観察すると、実に主は奇特な人間であることが分かるな)
綺麗な目、とエトアルの主――ドロシーは言った。
魔族の王であるエトアルに、面と向かってそのような事を言ってのけたのは、過去に一人だけだった。
(そして)
エトアルはどこか気まずそうに喫食を続ける店の客を見渡して、思う。
(この世界に我のことを知るものは一人としていないようだ)
夜を支配する魔族の王。
夜の王。
人は皆、エトアルに恐れおののき、その身より漂う魔力に怖じ気づき、膝を突いてはひれ伏したものだ。
しかし、今やエトアルは一匹の魔獣と変わらないほど弱っている。
(かつての眷属たちが、この時代まで生きながらえていたとして、……今の我を我と理解出来るかも怪しいが……)
エトアルは再び豆を摘まみ、テーブルの上に広げたハンカチへと視線を落とした。
ハンカチの中央にはどす黒い魔石が一つ。
聖獣ユニコーンを狂わせたあの魔石だった。
この街を守る結界の中心【菫大教会】からかなり距離をおいたおかげだろう。激しい熱はもう感じられなかった。
エトアルはコーヒー豆を摘まむとの同じ所作で石を摘まんだ。
魔族の王と呼称されたエトアルでもはっきりと分かるその悍ましさ。
かつてエトアルが一身に受けた、人々の憎悪がそのままそこに収まっているようだ。
(……これだけの魔力。ただの人の子が産みだしたとは思えぬ)
エトアルに魔力を提供し続けてもなお、息切れすることなく平然としているドロシーのような特異的な人間か、あるいは――エトアルと同じ、魔の眷属であるか。
そこで、不意に、エトアルの耳を男の怒声が掠めていった。
採光のために大きく取られたウインドウ。その先に見える通りには、いつの間にやら人だかりが出来ていた。
「やだやだ、物騒な連中」
新たに入店した一人の女性客が言った。
彼女の目が捉えるのは、配膳に勤しむ赤毛のウエイトレス。
小走りに彼女の元に近づくと、女性客は耳打ちをした。
「ウエイトレスさん、奥に逃げなよ。連中、たちが悪いわ。ほら、例のアイツらよ。見つかったら面倒なことになるわ」
女性客の言葉にみるみる内に顔を青くしたウエイトレス。
彼女は店長と思しき男の元へと急ぎ、二言三言言葉を交わした後、厨房の方へと姿を消していった。
(喧嘩か?)
エトアルはウインドウから通りを観察した。
人だかりが何かを訴えている。エトアルの魔力を聴覚に集中させれば、より鋭敏になった耳が彼らの言葉を拾い上げることも出来ただろうが。
しかし、今は節約の時。神聖性の中で無益に魔力は消費したくない。
だから、エトアルは眺めるだけに留めた。
苦い豆を口に運びながら、人の集まりを睨む。
男たちは揃って金色の髪をしていて、何かを訴えるように声を荒げていた。
彼らの唇の形を読んで、エトアルが知るこの国の言葉と当てはめていく。
(てい、こく、……は、いせき――老婆が言っていた赤毛排斥運動とかいうものか。同じ人の子同士で争い合うとは、何時までも奴らは変わらない)
彼らの言葉は物騒なものばかりだった。
追い出せ、追放しろ、まあそう言った類いの言葉。自分たちの言葉が間違っていないと信じ切った様子で、彼らは声高に叫んでいた。
道理で女性客はウエイトレスに隠れろと言ったのだ。
粗野な連中がこの店に入ってこないとは限らない。
そうなっては面倒だ。
エトアルは主であるドロシーが面倒な酔っ払いに絡まれた夜のことを想起する。あの長く豊かな赤い三つ編みを掴まれて、ああ、またか、と言わんばかりに諦念の色を宿したドロシー。彼女が痛みに顔を歪めたとき、エトアルはとっさにこの姿を取って酔っ払いの首を絞めていた。
そのまま意識ごと男の命を奪うことも出来たが、主がそれを望んでいなかった風であったし、何より――
聖女ヒトアの言葉が脳裏にちらついた。
あの娘が命と引き換えに救った者たちの子孫を手にかけることにためらいが生まれたのだ。
(……我も老いたな)
エトアルがほんの少しだけ過去に想いを馳せていると、通りで起きていたデモ運動に動きが生まれていた。
金髪の集団が誰かと誰かが争い合っている。
相手もまた同じ金髪の王国人。
そこでエトアルは見知った男の顔を見つけた。
騒動の中心にいた金髪碧眼の男の前を陣取る、帽子を被った記者。写真なるものを生成出来る魔導機――撮影機を首から提げた男は、何かを叫んでいる。
それは決して、赤毛排斥を謳う男たちに同調する言葉ではない。
(アレは、フィン・ホフマンという名の男だったか)
エトアルは興味深く、ミデロ・メールの記者フィン・ホフマンの動向を眺めていた。
多勢に無勢。赤毛排斥運動に勤しむ集団の数は二〇近く。対してフィンは一人きりだ。
(どのようにして状況を打破する? 人の子よ)
エトアルはただ傍観者となって、フィンの動きを見つめていた。
フィンは何かを話している。言葉までははっきりと聞き取れないが、彼は冷静だ。
頬を殴られてもフィンは殴り返さない。冷静に何かを言い返している。
男の顔がみるみる内に赤くなっていき、再びフィンの顔を殴った。
口を切ったのだろう、フィンは血の混じった唾を通りに吐き捨て、男たちを睨んでいる。
さらに男たちが追撃を食らわせようとしたところで、ふと、手が止まる。この一連の暴行で、遠巻きに見つめていた傍観者たちが自分の敵に回っていると気が付いたのだろう。
気まずそうにフィンを解放すると、活動かたちはすごすごと引き返し始める。
フィンは痛みと引き換えに、周囲の人間を味方に付けたのだ。活動家たちの数はせいぜい二〇程度。通りを行く人々は、周辺の店も含めて一〇〇近く。
(自分を被害者にして上手く立ち回ったか)
最後まで冷静さを保っていたフィンの勝利と言うわけだ。
初対面の時の印象とは違って、思いの他彼は冷静で強かな男のようである。
人だかりが消え去った後、フィンは踵を返しエトアルが滞在する店へと向かってくる。
「この街の自治はどうなってんだ? あんなクソッタレ連中を放っておくとか、いかれてるぜ。よりにも平等と平和を訴える愛のヒトア教のお膝元だろうによ」
口の端を切り、目元を青く腫らしたフィンは、ぶつくさとそんな文句を並べ立てながら入店してきた。
そのまま、血の滲む口元を上着の袖で拭いながら、店の奥へと軽快な足取りで進み「よう、マスター久しぶり」と顔馴染みの常連風な台詞を投げかけた。
「フィン、大丈夫か?」
「んな傷、いつものことさ。平気だよ。オレのことより、そっちの看板娘は大丈夫だったか?」
「大丈夫だよ。アンタが連中を追い払ってくれたおかげでな。で、顔の怪我は大丈夫か? お前、自慢の顔だっただろ」
「はは、良いんだよ。怪我した色男とか最高にモテそうだろ」
フィンは心配そうに訊ねて来る店の主人に向かっておどけてみせた。
「ンな口が叩けるなら元気だな。うちのコーヒー飲んでってくれ。お代は良い」
「いや、ちゃんと支払うよ。ああ、そうだ! 後でそっちのお嬢さんの写真撮らせてくれよ。赤毛のレディをさ」
「うちのウエイトレスがOKを出したら良いぞ。多分出さねえと思うけどな」
そんなやり取りを終えて、フィンはカウンター席で店の主人からコーヒーを受け取った。
エトアルが注文した豆とは違う、カップに入ったコーヒーだ。
それから主人はエトアルの方をそっと指さした。
「アンタのお気に入りの席は、今、あの風変わりな旦那が座っててね。悪いが別の席で頼むよ」
「いや、オレは別に相席でいいよ――なあ、おっさん。相席でも良いよな? 金髪の美女じゃなくて悪いけどよ」
「ああ、おい、フィンっ」
店の主人の言葉も聞かないで、カップを片手にエトアルの席に近づくフィン。
「構わん」
魔石をハンカチに包み、エトアルが小さく答えれば「よっしゃ」とフィンはそのまま対面の席に腰掛けた。
それからカップに口を付けて、口内の傷に液体が染みる痛みにうなり声を上げる。
どうやらフィンは、この席から臨む街の風景が好きらしい。
ウインドウの向こうに広がる通りと、そこを行き交う人々をじっと見つめて、彼は小さく息を吐いた。
「貴様、どこかで見た顔だな」
「ん? アンタ、どっかで会ったか?」
「会ったが、貴様は我を見ていないな」
「……どういうこと? 一方的にオレのこと見たってこと?」
「さよう」
「アンタみたいな変わったヤツ、一回すれ違ったら忘れられなさそうだけどな。コーヒー豆横に置いて、外だけ眺めて、何しにこの店に来てんだって感じだし」
(馴れ馴れしく騒々しい上に無遠慮な喋り。あの時と変わらないな)
「まあ良い。貴様、通りで喧嘩でもしていたようであるな?」
「……ああ、見てたのか、おっさん」
「貴様は記者であろう? 喧嘩を振って負けるのが記者の仕事というものか?」
エトアルはあえて、フィンを挑発するような物言いで訊ねてみた。
しかし、フィンはエトアルの言葉などまるで意に介していないと言った様子で肩をすくめ、それからまたカップに口を付けた。
音もなく上品にカップを戻し「なあ、おっさん、アイツらのこと知ってるか?」と訊ねてきた。
「アイツらは、最近ここらで活発に活動してる赤毛排斥を訴えてるルクグ至上主義者たちだ。金髪こそが絶対だって信じて疑わねえ悲しい連中だよ。国王陛下だって、あんなことされちゃ堪ったもんじゃねえだろうにな」
「なるほど、赤毛差別の集団か。悲しき者よな。心のよりどころが、最早己の髪の色しかない連中とは」
「なんだ、おっさん分かる口か?」
「さて、どうであろうな」
エトアルもある意味では、彼らと同類だった。
魔族こそが世界の覇者であると信じ、いや、信じることしか許されず、人を根絶やしにすることだけを考えた。
悪辣無情の王と恐れられていた、魔族の王。
それが今は、人の子に従い、彼女のために働いている。
不思議なものだった。
エトアルは麻袋から豆を摘まむと、それを一つ口に放り込んだ。
それから今までそうしていたように咀嚼する。
「うお、食うのか……」
「何だ? その不躾な視線は。品位に欠けるぞ」
「あのな、おっさん、コーヒーってのは豆を挽いてお湯で伸ばして飲むもんなんだよ。おっさんが持ってる袋、それ家で持ち帰って楽しむ用の豆だと思うぜ。ま、食えなくもないんだろうが、奇特な人種だなそういうのは」
「そうなのか?」
エトアルは現代の食事情をよく知らない。
まさか煎った豆を挽いて粉にするという面倒な工程を通してまで飲むものだとは思いもしなかった。
はは、とフィンは笑声を上げる。
「……一人称我とか、コーヒーを豆ごと食ってたり、服もボロボロだし、髪もボッサボサ。良くその格好で出歩けるなってくらいの、どこの時代から飛び出して来たんだか訳分かんねえ格好してるが」
「お前殴られたいのか?」
「おいおい、人の台詞は最後まで聞くんだよ」
彼は不敵に笑った。どこか自嘲的な色も見える。
「アンタはあのクソッタレ連中よりずっとまともな人間さまだ」
「最底辺の人の子と比べられても困るな」
「そうかい、悪かったよ」
へらへらと笑いながら、それでもその青の瞳だけは真摯に、フィンは再びコーヒーに口を付けた。
(人の子に人の子と呼ばれるとは、我も落ちたものよ)
――夜の王さん、貴方の最期の時よ――
エトアルの脳裏に、彼女の声が再生される。
最後の戦い。魔族と人の、お互いの種の存続をかけた戦い。
過去が、聖女ヒトアと過ごしたエトアルの一〇〇年の記憶が、ほろ苦いコーヒーの匂いと共に想起されていく。
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