4-9 ドロシー、猫の魔女に襲われる
(――逃げなきゃっ!)
ドロシーの本能がそう囁く。
しかし、どこに逃げるべきだろう。
逃げ道は二つ。
一つは大きなそのドアから。
もう一つは窓から。
(どこから逃げれば……?)
ドロシーが混乱に喘ぐ間にも、オリエッタはゆっくりと距離を詰めている。
(とにかく身を守るものをっ!)
ベッドサイドに置いてあったのは、リーナのペンダントだけではない。
バーンリー教授から貰った大切な短剣もそこに一緒に置いてあった。ミスティルテインの杖も、壁に立てかけられている。
二つの武器の内、ドロシーが手を伸ばしたのは短剣だ。
この重厚な結界の中、自由に魔法を使うことは難しい。
オリエッタも、あの猫の意匠が施された杖ではなく短剣を装備している。歴戦の傭兵もこの結界の中では魔法に頼れないのだろう。
あと少しで短剣に触れる、という瞬間。
「むっ~~~~!」
視界の端から、さながら猫のような動きでオリエッタが飛びかかって来た。
ドロシーの口を塞ぎ、そのままベッドへと押し戻す。
ぎし、とベッドが軋む。
オリエッタのサディスティックな笑みが、視界いっぱいに広がった。
「にゃは! 誰も助けになんてこないよん? だって皆ぐっすり眠ってるはずだしぃ? ――にゃっ?!」
「……っっ!」
飄々と余裕のある笑みを浮かべるオリエッタの腹目がけて、渾身の蹴りをお見舞い。
う、とオリエッタが顔をしかめる。
だが、馬乗りにされている、という劣勢状況を覆すには至らなかった。
「っ、~~~テメエっ! 足癖悪いメスガキだなっ!?」
再度、オリエッタの腹を蹴ろうとしたところで、オリエッタの腕に抑えられてしまう。
それどころか、寝間着の隙間から伸びる生足に、短剣の刃を宛がわれてしまった。
ひやりとした感覚に、思わずドロシーは身を硬直させる。
「にゃはっ、こんなに暴れる足なんていらないよね? 片っぽ切っちゃおっかなぁ~!」
わざとらしく、ドロシーを恐怖させるためだけの大きな動きで短剣を振り上げるオリエッタ。
しかし彼女の目は本気だ。
ドロシーの足を短剣で切り落とすことだって厭わない、そんな残酷さを携えている。
(駄目、どうすることも……!)
ドロシーは精一杯抵抗した。
しかし、オリエッタの体をはねのけるだけの力がない。
刃がドロシーの剥き出しになった太もも目がけて振り下ろされ――ドロシーは瞼を固く閉じた。
――その時、目映い光がドロシーの瞼を貫いた。
「にゃああああんっ?! 何々っ?! 何なのっ?!」
困惑するオリエッタの声と同時に、からんと短剣が落ちる音が続く。
驚き瞼を開けたところで、ドロシーはまだ光を放つ自身の右手の存在に気が付いた。
握りしめた右手を開けば、弱々しく光を宿す乳白色のペンダントトップが姿を見せる。
「――リーナ……!」
ドロシーは、まだ光に目をやられているオリエッタの姿を見、状況を確認する。
オリエッタは視力を奪われ、取り落としてしまった短剣を探るように手をあちらこちらにやっている。
まだ彼女の視力は戻っていない。
(今だっ!)
「ええええいっ!」
「にゃっ!?」
強い光に体を竦ませたオリエッタ。彼女の体を渾身の力で突き飛ばし、ベッドから落とす。
尻餅をついて呻く猫の魔女を尻目に、手早く、リーナのペンダントを首にかけた。それから魔法の杖とバーンリー教授から貰った短剣を片手に、部屋を飛び出した。
ぺたぺたと抑えめな足音。靴なんて履いている暇はなく、今のドロシーは裸足だ。
そのまま真っ直ぐ廊下を突き進む。
「待てこら、クソガキっ!」
オリエッタがドアを力任せに開け、廊下へと躍り出る。
手には短剣はあったが、彼女の足取りは覚束ない。
オリエッタの視力はまだ回復しきっていない。
今の内に、助けを求めねば。
ドロシーだけではオリエッタには敵わない。この神聖性の中では、ドロシーは自由に動けない。
だが、聖者ならどうだ。聖獣を使役する彼らであれば、オリエッタを捕らえられるはず。
ドロシーが目指すのは、同じ階にあるエミリーとセドリックの部屋だ。とにかく二人を起こして、状況を説明して、オリエッタを何とかしなくては。
「リーナ」
急く中で、ドロシーは親友のことを思い出していた。
(――リーナがわたしを守ってくれたんだっ)
胸の上で跳ねるペンダント。込められていたリーナの魔力が放出され、あの月のような輝きを失った魔石を見て、ドロシーは泣きそうになった。
「あの魔獣が魔石を持ってんだろ?! さっさと返しやがれっ!」
後方でオリエッタががなり立てる。
(……狙いは、魔石?)
ヒトト山でのオリエッタは、エミリーとセドリックの暗殺を画策していた。
今回、ドロシーを狙った理由はあの魔石にあったのか。
(とにかく、今はエミリーの部屋にっ!)
エミリーの部屋はもうすぐだ。
駆ける足を速めるドロシー。
(廊下を右に曲がったすぐの部屋っ!)
ドロシーが足をもつれさせながら廊下を曲がろうとしたその時。
ひゅっ、と白い何かが目の前を横切った。
「、た、短剣っ……!」
オリエッタが投げて来たのだ。
ドロシーの左横、壁に突き刺さる短剣。
あと少しずれていたら、ドロシーの肩か首に命中していたことだろう。
ぞっと肝が冷える感覚を覚えながら、ドロシーは壁の陰へと転がり込んだ。
そのまま、部屋のドアに駆け寄ると力任せにドアを叩いた。
「エミリー! 起きて! 大変っ、オリエッタが!」
「やっと視力が戻ってきたにゃあ。ほらほら、ウサギ狩りの始まりだよんっ!」
「――エミリー!」
かつかつとヒールが鳴る音が迫る。
何度呼んでも、ドアを叩いても、エミリーが起きてくる気配はどこにもない。
次に、ドロシーは隣に並ぶドアを殴りつけた。
「セドリック! セドリック起きてっ!」
隣の部屋はセドリックのものだ。
しかし、何度叩こうとも、聖者たちはうんともすんとも言わない。
(誰も起きてこないっ……!)
あれだけドロシーが金切り声を上げて、助けを呼んでいるにもかかわらず誰も起きてこない。
これは異常だ。何か、魔法か、祈りか、彼らを眠りに閉じ込める何かが起きている。
エミリーも、セドリックも、宿舎の聖職者たちも駄目ならば。
(菫司教か、レジーナさんのところに!)
二人の部屋は四階だ。
つい先ほどまでドロシーと共に祈りの間にいたスヴァトスラフ司教であれば、もしかしたら、彼らを眠りに誘い何かの影響を免れているのではないか。
ドロシーがこうして動けているように。
「ほらほら、ウサギちゃん。あのハンサムさんを呼ぶんだにゃあ。なあ、呼べるだろ? 曲がりにもお前は魔法使いなんだからよっ!」
ドスの利いた声が廊下に反響する。
廊下の飾り棚を蹴り、そこに置かれていた花瓶が砕ける音がする。
わざとドロシーを怯えさせようとしているのだ。
ドロシーは駆けた。
駆けながら早口に捲し立てる。
「大丈夫、大丈夫……きっと大丈夫……」
ドロシーは胸の奥でがなり立てる心臓を落ち着かせようと言い聞かせた。
大丈夫、大丈夫。こういうときこそ冷静であるべきだ。
ドロシーは考えた。
どうすればいい?
どうすれば、この状況を打破出来る?
四階に行くまでにオリエッタに追いつかれないとは限らない。
宿舎の四階に続く階段は、この廊下を奥に進んだ先。
オリエッタは背後に迫っている。
ドロシーは窓を見た。
菫を象るステンドグラス。その先にうっすらと透けて見えるどんよりとした夜。
(外だ)
そうだ、結界の外にさえ出られれば、ドロシーは魔法を使うことが出来た。手元にはミスティルテインの杖がある。
あの巨大な蛇、シュガールを燃やした《業火》だって使える。
オリエッタは端から魔法を使うことを諦めた様子で、魔法装備を手放している。
外にさえ逃げのびることが出来れば、魔法で彼女を撃退できるはずだ。
ドロシーはもう、前の無力で何も出来ない魔女候補生ではない。
「スヴァ――なんちゃら司教、ごめんなさいっ!」
ドロシーは手持ちの杖を両手で握りしめると、その歪に巻いた杖を渾身の力でフルスイング。
色ガラスで象られた菫は粉々に砕け散り、温い風が廊下へと吹き込んだ。
「ここ三階っ、……高いけど、大丈夫、……大丈夫……」
ドロシーは割れた色ガラスの破片が残る窓枠に足をかけ、下に広がる小さな庭を見下ろした。
このまま地面に落ちては致命的な怪我を負うだろうが、だが、クッションになりそうな生け垣が見える。
あそこに飛び込めば、きっと。
大丈夫だ。
「いたっ……」
ちり、とした痛みが足に走る。
砕けた色ガラスの破片が足の裏に刺さったのだろう。
「大丈夫、外にさえ出られれば、魔法だって使えるし、エトアルさんも……!」
オリエッタの狙いは、この神聖な結界の中にエトアルを呼び出させることに違いない。
彼女も魔女の端くれ、使い魔が法力の結界の中でどれほど弱るか理解しているはずだ。
この苦しみの結界にエトアルを引っ張り出し、彼が持つ魔石を奪うこと。
それが彼女の目的に違いない。
距離はある。だが、きっと大丈夫。
植え込み目がけて、ドロシーは飛び降りた。
風を切る音が耳を駆け抜け、寝間着がはためく。
そのまま軽い放物線を描きながら、ドロシーの体は見立て通り植え込み目がけ得て落ちていき――
「え?!」
ガサリと生け垣を乗り越えて姿を見せるのは一人の男。
(嘘でしょ! 人が待ち伏せしてるだなんてっ!)
今更方向転換なんて出来やしない。鳥のような翼が生えているのであれば別だったが。
ドロシーはそのまま、なすすべなく生け垣へと落ちていく。
痛み、衝撃、柔らかい感触。息を忘れてしまいそうな衝撃がドロシーの体を襲ったが、だが、それだけだ。他に不都合は見られない。
ずれた眼鏡が生み出す歪んだ視界の中、何とか逃げようともがくドロシーを引き寄せるのは男の腕である。
「やっと見つけたぜっ! 流石はオレだっ! 運が付いてる」
自画自賛する男の軽薄な声。
まさかそこに人がいるとは思わず、ドロシーの脳はすっかりパニック状態だった。
オリエッタの仲間だろうか?
だとしたら、早く逃げなくては。
「は、放してっっ!」
「どぅあっ、!? ちょっと痛い、痛えって! 放すから殴るの止めてくれっ!」
渾身のビンタを頬に受けた男が、狼狽えた様子でドロシーを解放する。
ドロシーは転がるようにして男から距離を取り、バーンリー教授から貰った短剣を鞘から引き抜いて振り返る。
「な、ナイフはなし! がちで死じまうってっ!」
そこで、やっと男が誰だか理解した。
「はい? あ、え? 貴方は……」
しかし、理解をするのを脳が拒否している。
だってそうだ、彼とは最初の町で会ったきりで。
「そうだ、ドロシーちゃん! オレだ、ミデロ・メールのフィン・ホフマンだ」
頬をドロシーの手の形に赤くした記者、フィン・ホフマンはいつぞや見た時と同じ表情でにかっと笑ってみせた。
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