4-8 ドロシー、教会を破壊しかける



(息が出来ないっ!)


 菫の聖印で増幅された法力が、ドロシー自身の首を絞めている。

【菫大教会】の神聖性の中で、酷い息苦しさを感じていたドロシーだ、これだけ増幅された法力の中でまともにいられるはずがなかった。


「……っ! ドロシーくん、錫杖から手を離すんだっ」


 状況を把握したスヴァトスラフ司教の声が、祈りの間に反響する。

 言われた通り、ドロシーは錫杖から手を離そうとするが、上手くいかない。


「手、手が、こわばって、はなせなっ……い」


 手が離れないのだ。

 錫杖に焼き付いてしまったかのように、ドロシーの手は動かない。


(駄目、これじゃ死んじゃうっ!)


 自分が持つ法力で窒息して死ぬだなんて、笑い話にもならない。


「ドロシーくん! 今、アラクネをそっちに向かわせる」


 スヴァトスラフ司教ですら、この法力の嵐の中に足を踏み入れることが出来ないようだった。

 鋼鉄の糸が擦れ合う歪な音が、聖印の中に入り込んだその時。


「え?」


 ぱたりと聖印から立ち上る光が消えた。

 だが、ドロシーの手から錫杖が離れた、という話ではない。相変わらず、ドロシーの手は錫杖に張り付いたままだった。


 光は消えた。

 だが、今度は闇が生まれた。


 ドロシーの足元から、仄かに星明かりのような光を宿していた聖印へと浸食する黒い闇が、目まぐるしい速度で、聖なる菫を枯らそうと駆け巡る。


「何だ、これはっ……今度は魔力に聖印が浸食されて……! このままでは結界を壊されかねないっ――アラクネ、彼女を止めるんだっ」


 愕然とするスヴァトスラフ司教。彼の命令を受けて、活動を再開する聖獣アラクネ。

 かしゅ、かしゅ、と球体関節の脚を鳴らしながら、ドロシーの元へと迫る。


 ある程度距離を詰めたところで、アラクネは動きを止めた。丁度、聖印を浸食する闇と聖印自身の境界線の真上だ。これ以上先は、聖獣も進めないようだ。


「アラクネ、錫杖を!」


 スヴァトスラフ司教の指示を受け、聖獣は無機質な手をドロシーへと向けた。

 間もなく、その手の内より、鋼鉄の糸がドロシーへと放たれ、錫杖へと絡みついた。


 そしてそのまま、聖獣アラクネは鋼鉄の糸を巻き取り始めた。おそらく、人形のような手や腕の中に、糸を巻き取る機構があるのだろう。


 ぎぎぎ、と軋む音が響き、ついにドロシーの手から錫杖が外れた。

 同時、聖印を浸食していた闇がふ、とその姿を消す。


(よ、よかった!)


 緊張の糸が切れたらしく、どさりと、ドロシーはその場に脱力した。


「すみれしきょ、ありがと、ございます」


 けほ、けほ、と咳き込みながら、ドロシーは力なく礼を言う。


「いや、僕の責任だ。君の体のことを何も考えずに、法力を使わせるような真似をして。怪我はないかい? 呼吸はちゃんと出来るかい? 体調は……」


 闇がすっかり消えたことを確認すると、スヴァトスラフ司教はドロシーの元に駆け寄ってきた。

 不安げに見下ろしてくる彼に、ドロシーは力なく笑って返した。


「大丈夫れす」


 息苦しさは残っていたが、それは【菫大教会】に訪れた時から感じていたものだ。

 ドロシーはついさきほどまでのドロシーと変わらない。


 スヴァトスラフ司教はほっと胸をなで下ろす仕草を見せると、聖獣から受け取った錫杖の様子を確認する。それから足元に広がる聖印にも視線を向けた。


「……良かった。君にも、聖印にも、錫杖にも問題はなさそうだ」

「それは、良かったです。わたしのせいで、大変なことになるんじゃないかと……」


 法力の制御が効かなくなったり、錫杖が手から離れなくなったり、逆に魔力が勝手に聖印を侵食し出したり。まったく訳が分からない。


 この意味不明な騒動の中で、【菫大教会】に甚大な被害を与えてしまったのではないかと、ドロシーはひやひやしていた。


 広大な都市リキノトを魔獣の被害から守る結界。

 その結界を生み出すのが、この祈りの間なのである。


 ここを王立第三三魔法学校の召喚の間のように爆発四散させては、最早、ドロシーは旅を楽しむどころではなくなってしまう。


 全ての無事を確認したスヴァトスラフ司教は、ふむ、と考え込むように顎に指をやる。


「あの異常なまでの法力……エミリーやセドリックですら、あそこまでの力は見せなかった。そのことから君が法力を持つことは間違いない。それも僕が思う以上の力であることも。だが、あの力は……魔力は何だ?」


 混乱し、混沌とする思考を整理するように、スヴァトスラフ司教は早口に言葉を落としていく。


「大教会の結界は強大だ。僕の法力、いや、【菫大教会】で働く全ての聖職者たちの法力が込められている。魔法大戦の空爆ですら耐え抜いた結界。これが一人の魔法使いの魔力に打ち負けそうになるだなんて……」


 銀縁眼鏡で彩られた灰色の瞳が、恐れを孕んだ色でドロシーを見る。


「僕が見てきた中で、もっとも脅威的な魔力だった。ただの魔力ではない、もっと悍ましい、何か――ドロシーくん、君は何者なんだ?」

「……司教、わたしは……」


 何者かと問われると、ドロシーは答えに詰まってしまう。

 ドロシーは両親を知らない。スヴァトスラフ司教が語る通り、魔力が脈々と受け継がれてきた血の力だと言うのであれば、ドロシーの魔力は、両親より受け継いだもののはず。


 だが、その両親をドロシーは知らないのだ。


「……わたしは、ドロシー・ローズです。それ以外に、お伝え出来る情報がなくて」


 そう答える他なかった。


「そう、だよね。すまない、ドロシーくん。想像だに出来ない現象を前にして、僕は混乱しているみたいだ」


 はあ、と震える吐息を吐き出すスヴァトスラフ司教。

 灰色の瞳が揺らいでいる。


「あの魔力は……」


 ぼそりと呟く彼の瞳は涙で潤んでいる。


「司教、……泣いているんですか?」

「……! どうしたのか。まったく理解できないね。君が無事だったことに安堵したのか、結界を守り抜けたことに安堵したのか、そのどちらもなのか……」


 スヴァトスラフ司教は自分自身の生理的反応が理解出来ないといった様子で首を振ると、眼鏡を外して目元の涙を拭っていった。

 それから疲れた表情で笑いかけると「今日はもう休んだ方が良い」と彼は言った。


「随分と夜も深まっているからね」



 ☆ ★ ☆ ★ ☆



 宿舎三階の奥にドロシーの部屋があった。

 スヴァトスラフ司教の部屋よりもやや手狭で、間口が広く、質素な調度品が揃えられた部屋だった。


 宛がわれた自室に戻ると、髪の手入れもしないままにドロシーはベッドへと背中を預けた。髪を解くのも面倒で、丸眼鏡を外して枕元に置くと、そのまま重力に身を委ねる。


「ふぅ、……凄く、疲れちゃったな」


 瞼が重い。


「早く寝ないと」


 魔力が足りなくなれば、またヒトト山での時のように倒れてしまいかねない。

 ただでさえ、息の詰まるような神聖性の中にあって、体力を消耗しているというのに。


 ドロシーは気だるさの中で考える。

 この体を摩耗させる法力が、何故だかドロシーの体に宿っているという。


(わたしに法力が宿っていて、……それが、凄い強いもので)


 もし、法力がドロシーに宿っていたとしても、その力は聖者二人に遠く及ばないものだろうと思っていた。

 しかし、スヴァトスラフ司教は、二人でもこのようは反応を見せなかったと言う。


(でも魔力も……エトアルさんを食べさせてあげられくらいの魔力が、わたしにはあるんだよね。【菫大教会】の結界を侵食するぐらいの強い魔力が……)


 そこでドロシーはシーツの中でぶるりと身震いした。


(……訳がわかんない)


 そこでドロシーは救いを求めるようにベッドサイドに置いた、乳白色のペンダントトップに目を向けた。

 神聖な祈りの間に、このペンダントを持って行くのもどうかと思って、一度外してここに置いていったのだ。


 親友との思い出のペンダントに手を伸ばすと、ドロシーは彼女との思い出をそっと握りしめた。それからシーツに潜り込む。

 リーナの温もりが手の中にあるようだった。


(このことを聞いたら、リーナはどんな顔をするかな)


 満月みたいな髪を持った美貌の少女。

 ドロシーの親友、リーナ・アクロヴァはどんな反応を見せるだろうか。


 彼女の中のドロシーは、魔法学校の落ちこぼれ。万年最下位のいじめられっ子ドロシーだ。

 まさか召喚した使い魔が古の魔王で、さらにこの体に高潔な法力まで宿していると知ったら、どう思うだろう。


(エトアルさんなら、何か分かったりするのかな)


 ドロシーはうとうとと重くなった瞼を擦りながら、部屋の奥、雲に遮られてすっかり暗くなった窓の方を見た。


「エトアルさん、会いたいな」


 いつもエトアルは夜鷹の姿で窓辺に止まり、そうして外の様子をうかがっていた。警戒しているのか、それとも夜空を見つめていたのかは分からない。


(明日も早いから……早く寝ないと)


 大きくこみ上げてくる欠伸を噛み殺しながら、やっとドロシーは瞼を下ろした。


(街に出て、エトアルさんを呼ぼうかな)


 訪れた闇の中に微睡みながら、明日のことを考える。


(そしたら、なにか……)


 だけれどもすぐに、その考えとやらも闇の中に溶けて行き。


(わか、る……か、も……)


 ドロシーは眠りの淵に落ちていった。


(……)


 ……。

 ……。


 ……誰?


 眠りに落ちていながら、誰かが蠢く気配を感じ、ドロシーは重い瞼を上げる。

 眼鏡のない、ぼやけた視界の中に揺らぐ影。

 菫色の法衣に、その菫色を押し上げる豊かな胸元。


「……、エミリー?」


 シーツの中でぼそりと呟けば、その聖職者はかつかつとヒールを鳴らしながらドロシーの横たわるベッドへと近寄ってくる。


(何でエミリーがわたしのところに? こんな真夜中に?)


 わざわざ眠る友人の部屋へと忍び寄るような娘ではないはずだ。

 それにエミリーはあんな音の出る靴を履いていない。長い巡礼の旅の中で履きつぶされて草臥れた靴を履いていたはずだ。


(違う、彼女はエミリーじゃないっ!)


 眠気と同時に血の気がさあっと引く。


「貴方、誰ですかっ!?」


 叫声を張って、飛び起きると、ドロシーは眼鏡に手を伸ばした。

 慌てて眼鏡をかけて、クリアになった視界でその菫色の影を捉える。


 そしてドロシーは絶望した。


「……にゃは、お久しぶり♡」


 軽薄そうに笑う女がそこにいる。

 キラリと彼女の手元で光るのは短剣だ。セドリックの命を奪おうとした、あの短剣だ。


「会いたかったにゃあ、ドロシーちゃん」


 傭兵オリエッタ・サッキがどこか猫っぽい笑みを浮かべてそう言った。



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