4-7 ドロシー、蜘蛛にビビる



 スヴァトスラフ司教に誘われるままに、ドロシーは【菫大教会】の聖堂へと赴いた。


 荘厳で威圧的な神々しさを携えた聖堂。その奥には、昼間レジーナが説法を説いていたと思われる舞台が一つ。さらに奥には、菫教会にもあった聖女ヒトア像が佇んでいる。


(……おっきい)


 ピメの村の菫教会にあったヒトア像も立派なものだったが、この大教会に設置された像は巨像と呼んでも差し支えないほどの大きさがあった。


 セドリックが操る、ガラスの聖獣タイタンよりさらに二回り以上も大きい。


 しゃらん、と清らかな金属音が、スヴァトスラフ司教の錫杖より奏でられる。


 彼の部屋に安置されていた、菫の錫杖と法典を手に、彼は真っ直ぐにヒトア像の元へと急ぐ。


 その脇を通り抜け、たどり着くのは、大柄な聖獣でも通ることが出来そうな大ぶりのドア。錫杖を壁に立てかけ、彼はドアに手をかける。


「ここより先に広がるのが、祈りの間だ。神聖なる【菫大教会】の中でも、もっとも神聖な、主神と繋がる聖域だよ。もしかしたら、祈りの間に刻まれた聖印が、魔の力を持つドロシーくんを拒んでしまうかもしれないが……」


 ゆるりとドアを開けて、スヴァトスラフ司教は言った。


「きっと僕はここを通ることが出来ると信じているよ」


 菫色の法衣の裾を翻し、立てかけた錫杖を手に取ると、彼は暗い室内へと進んで行った。


 ドロシーは喉を鳴らした。何故だか、酷く緊張する。この神聖な空間に、ドロシーのような魔女が入って良いのだろうか。日中のように、結界に弾かれるのではないか。そんな不安が胸中に湧き上がる。


(でも、知りたい)


 ドロシーは意を決したように頷くと、スヴァトスラフ司教の後を追った。


 ドアをくぐり抜けると同時に不思議な感覚がドロシーの頬をなでていく。心地良いような、不快なような、不可解な感覚だ。


 ぞわりと肌が粟立ち、不思議と進む足が速くなる。


 神聖性に満ちた、祈りの間。

 そこはどこか見覚えがあるような作りをしていた。


 この既視感の元はどこにあるのだろうか、と考えたとき、思い出すのは王立第三三魔法学校。


(召喚の間に似てる)


 ドロシーは漠然とそう思った。


 天窓より降る月と星の明かり。雲の到来が不安だったが、まだまだ夜空の輝きは地上を照らすだけの力を秘めているようだった。


 ただ、光を遮るように細い影が幾重にも重なっている。


 天窓の周囲に何か飾りが張り巡らされているのだろうか。


 その分断された夜の光を受けて、輝くのは床に刻まれた巨大な――魔方陣のようなもの。


 召喚の間に刻まれていた魔方陣にも似ているが、しかし、その文様はまるで違う。


 菫だ。


 聖女ヒトアが愛した一二の聖なる花の内の一つ、菫がそこに描かれている。


「ドロシーくん、聖印の中に」


 魔方陣のようなものは、どうやら聖印と呼ぶようだ。


 その聖なる印の中心に立つのは、スヴァトスラフ司教である。


 祈りの間と聖堂の境界を跨いだ時のように、ドロシーが聖印と祈りの間の境界を恐る恐る跨いだその時。


 とん、と固い感触がドロシーの肩に触れた。


 ふと振り返れば、そこには異形の何かが立っている。


 それは一見すると人のようにも見えたが、しかし、下半身が人のそれではない。


 蜘蛛だ。


 巨大な蜘蛛の下半身を持つ、女がそこにいる。


「――きゃあっ!?」


 ドロシーは驚いた猫のように飛び上がった。慌てて駆け出すと、聖印の中央で待つスヴァトスラフ司教の元へと一直線に進んだ。


「す、すみれ、しきょ、あ、あれは」


 驚きのあまり呂律が回らない。


 しかし、スヴァトスラフ司教は「ああ、すまない。驚かせてしまったね」と苦笑する。


「は、はひっ?」

「おいで、アラクネ」


 銀縁眼鏡の下、灰色の双眸を細めるとスヴァトスラフ司教は、その異形の蜘蛛女に向かってそう言った。


 かしゃかしゃと、何やら金属が擦れるような歪な音を体のどこからか奏でながら、蜘蛛女は八本の足を蠢かせては、司教の元へと迫ってくる。


(う、動きがこわいっ!)


 より星明かりと、月明かりを反射する聖印の光で、よりアラクネの姿がはっきりとする。


 それはさながら球体関節人形のようだった。


 体の至る所に菫の意匠が施されているが、人形特有の不気味さと蜘蛛の生理的な嫌悪感を携えたフォルムはごまかせない。


「これは僕の聖獣――アラクネだ。彼女には、この神聖な祈りの間を守って貰っているんだ。ドロシーくん、あの天井の――天窓の下に張り巡らされた鋼鉄の糸が見えるかい?」


「あ、はい」


「あれはこのアラクネが生み出した糸だよ。帝国的に言うと、ワイヤーというらしいけどね。万が一に、この聖域を侵す悪者が現れた時、アラクネがあの糸で捕縛するのさ。とても優秀な聖獣だよ。巡礼の旅から帰還するときも、彼女が多数の魔獣を捕縛して僕を助けくれたものさ」


 光を分断する影は、アラクネのワイヤーのものだったようだ。


「ただ、少し怖い見た目をしているから、普段は連れ歩かないようにしているんだよ。小さな子が泣いてしまうからね。リキノトにいる間は、僕自身を守る必要もないから」


「せ、聖獣だったんですね。すみません、菫司教の大切な聖獣を……」


「良いんだ。僕がこの聖獣を賜ったのは、丁度……そうだね、エミリーとセドリックを引き取る直前だったかな。二人とも、孤児院の菫畑を守るアラクネを見てわんわん泣いてしまって」


 あはは、と思い出を楽しげに語るスヴァトスラフ司教。


(そりゃ泣くだろうなぁ……夢に出てきそうな見た目しているし……)


 と、ドロシーは過去の聖者たち、そして当時の孤児院にお世話になっていた孤児たちを内心哀れんだ。


「さて」


 聖獣アラクネを従えたスヴァトスラフ司教がドロシーに向き直る。


「君も知っているだろう。法力とは精神の力。そして、魂の力とも呼ばれている。君が持つ法力を、今、ここで見極めよう」


 しゃらん、と錫杖の飾りが打ち鳴らされると同時に、聖印より光が迸る。

 祈りの間に光が満ち始めた。


「でも、魔力を持つ人間は、前世では魔族に与した悪い人なんでしょう? だから魔力を持って生まれると、聞いた事があります」


「……それは聖魔戦争の時に付け加えられた一文だという説が濃厚だ。自分たちの戦いを正当化するために記された文言――もちろん、これを古くより信じる信者も多いが、僕はそうは思わない」


 スヴァトスラフ司教が天を仰ぐ。


「魔力とは肉体、血に宿り、生命の営みによって脈々と受け継がれる力。親から子に、子から孫に。代替わりしていきながらも続き続ける人の血の力だ。そこに前世の行いは関係がない」


 対して、と彼は続けた。


「法力とは、長き時を転生し続ける魂が持つ気高き力。だからこそ法力は決して親から子に受け継がれることはない。僕も平凡な一般家庭の子供だったし、レジーナもそうだった。決して聖職者の血縁者ではなかったんだよ」


 そこで再び彼はドロシーへと視線を戻し、どこか寂しげに彼は言った。


「まあ、魂なるものを実際に観測した者はいない以上、これはヒトア教徒の間にだけまことしやかに囁かれている説だと考えてもらっても良いけれどね。仮に転生していたとしても、前世の記憶がないのでは証明のしようがない」


 確かに、転生の証明は誰にも出来ない。

 前世の記憶とやらを持っている者が現れない限りは。


(それでも、記憶があったとしても)


 その者が語る過去と、過去の記録が完全に一致して、そこでやっとその人物が転生したと証明出来るのだ。


「魔力と法力。相反し拒絶し合う二つの力は、一件、共存不可能であると思いがちだけれども、高貴なる魂が、より高度な魔力を有する肉体の中に宿る可能性は誰にも否定できない。今、ここで、皆の説が覆るかもしれないね」


 スヴァトスラフ司教は、好奇心に冒された二つの目でドロシーを見下ろし、錫杖をそっと差し出した。


(エミリーたちは菫司教のことを、研究熱心な人だと言ったっけ。部屋も本で埋め尽くされていたし)


 彼は知りたいのかもしれない。

 自分の知らない、未知の世界を見てみたいのかもしれない。


 ドロシーが海を見てみたいと思ったように、スヴァトスラフ司教は聖魔の力を宿す未知の人間を見てみたいのかもしれない。


「さあ、ドロシーくん。これを持ってごらん」


 聖なる光を宿した菫の錫杖。


「神聖なる菫の杖。精霊樹ミスティルテインの杖と同じさ。精霊樹が魔力を増幅するように、この聖なる錫杖は君の法力を正しい方向に導いてくれるはず」


 促されるままに、思わず手に触れようとして、想起するのはエミリーを治療しようとして拒絶されたエトアルの姿だった。


 同時に、結界に弾かれたあの瞬間、体に走った熱と痛みが、気を遅らせる。


「大丈夫」


 スヴァトスラフ司教がそっと語りかける。我が子に囁くように、優しく。


「聖獣ユニコーンに認められた君なら、きっと、この錫杖を握ることが出来るはず」


 ドロシーはそっと手を伸ばした。


 そして、つん、と薬缶の熱さを確かめるように指先で触れて、熱や衝撃が走らないことを確認すると、ゆっくりと時間をかけて錫杖を掴んだ。


 スヴァトスラフ司教が支えていた手を離せば、ずっしりとした錫杖の重みに想わず取り落としそうになる。しゃららん、と錫杖の飾りが煩わしく鳴った。


「さ、君が精霊樹ミスティルテインの杖を握り、呪文を唱えるその時のように構えてごらん。聖印と司教の錫杖。聖獣ユニコーンを操るだけの法力が秘められているとするならば、きっと、この二つが反応を示すはず」


 ドロシーは魔法の杖を握る時のように、両手で錫杖の柄を握りしめると瞼を下ろした。


「そうだ、ドロシーくんそのままじっとしているんだよ」


 スヴァトスラフ司教の声が遠くなる。


 聖印から離れようとしているのだろう。ドロシーの法力だけに、聖印と錫杖が反応出来るように。


「さあ、祈ってごらん。ヒトア教の祈りの言葉は不要だ。ただ、純粋に祈るんだ、ドロシー。君の想うがままに」


(って、言われても!)


 何を祈れば良いのか分からなかった。


 スヴァトスラフ司教やエミリー、セドリック、あるいは司教補佐官レジーナが、ヒトア教の思想の元、祈りを捧げるのとはまるで違う。


(何を祈ればいいの? 誰かの安息? 誰かの平和? 誰かの喜び?)


 誰かのために祈るのは、正直ドロシーの性分には合わない。


 誰かのために祈るより、誰かのために気が付いたら行動しているのがドロシーだからだ。


 そこで思い出す。

 ドロシーの心の奥底から沸き起こる情景。


 それは夜だ。

 綺麗な夜。


 ドロシーが焦がれる、美しい夜。

 ドロシーが守りたいと思った、果てのない夜。


「――!」


 スヴァトスラフ司教が息を呑む声が聞こえてきた。


 ドロシーの瞼を貫いて、目映い光が網膜を焼く。


 驚愕のままに瞼を上げれば、菫の聖印が激しい光を放っている。


 眩しくて目が痛いほどだった。


 奥で、スヴァトスラフ司教が手を叩く乾いた音がする。


 彼と呼応するように、聖獣アラクネもまた同じように、両の手を叩いていた。


「素晴らしい! やはり君には気高い神聖なる力が宿っていたんだ。素晴らしいよ。破壊の魔力を持つ肉体に、祈りの法力を持つ魂! 相反する二つの力を持つ人間――これは世紀の大発見だ。ヒトア教の歴史に君の名は残るだろうね」


 スヴァトスラフ司教は玩具を前に興奮した子供みたいに捲し立てている。


 確かに、魔力と法力を併せ持つ人間の存在など、ドロシーも聞いたことがない。その希有な人物が自分であることも、正直なところ信じられない。


 だが、今は、そんなことを考えている場合ではなかった。


「す、菫司教っ!」


 ドロシーは立ち上る光の柱の中で叫んでいた。すっかり光に呑まれ、周りもはっきりと確認出来る状態ではなかった。


 強すぎる光がドロシーの心臓を臆病にさせる。胸の奥に秘められた心の臓が、縮み上がっている。


「、こ、これどうやって止めるんですか? 光が、どんどん、強くなっていってっ……! せ、制御がっ……効かないっ……!」



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