4-6 ドロシー、狸女を告発する



 スヴァトスラフ司教の自室は、宿舎の最上階、ドロシーの部屋の真上にあった。


 部屋は手広で、聖獣が行き来することを想定しているのか、客室と同じく間口が広く取られている。


 ただ、驚いたのは、菫教区の最高職位に着く菫司教の部屋は――


(本に溺れそう)


 とにかく本で溢れ帰っていた。


「散らかっていてすまないね。色々と、ヒトア教にまつわる文献や資料を集めていると……いや、単純に片付けが苦手なだけなのかもしれない」


 恥ずかしそうに笑っては、スヴァトスラフ司教はドロシーを部屋に通してくれた。


 見渡す限りの本、本、本。


 古い匂いで満ち満ちた司教の部屋は、大量の本で埋め尽くされているという点以外は、ドロシーに宛がわれた部屋とそう変わらない。質素な作りだ。


 そんな研究者の部屋の奥。


 窓を飾る菫のステンドグラスの横に設置された飴色のテーブル。陣取っていた書類を退かした机に向かい合うように腰掛け、スヴァトスラフ司教が準備するのはお茶である。


 日用魔法を蓄えた魔石の熱で湧かしたお湯。お湯に沈められた茶葉からは芳しい香りが漂っている。


 菫がデザインされたティーポットから、同じデザインを施されたカップに温かいお茶が注がれていく。


「いい匂いだろう?」


 そっと菫司教が差し出すお茶からは、爽やかな菫の匂いがする。


「この【菫大教会】の周囲に花壇があったのは覚えているかな? あそこで採れた菫から作ったハーブティーだよ。ピメの村のものと比べると質が落ちてしまうけれど、リラックス効果はあると思う」


 静かな語りを終えると、スヴァトスラフ司教はそっとドロシーに菫茶を差し出した。


 それからテーブルに肘を突き、彼は指を組む。


「さ、語ってごらん。僕は君の言葉を全て聞こう。途中、言葉を挟むことも、否定することも、遮ることもない。ただ、そこに咲いている菫のように、君の言葉だけを聞くと誓おう」


 それはヒトア教の司祭が懺悔室でよく使う誓約の言葉だった。


 草花のように貴方の言葉を聞き、草花のように貴方の言葉を他言しない――そう言った意味が込められている。


 ドロシーを安堵させるためにスヴァトスラフ司教は言ったのだろう。


 思った以上に、ドロシーは緊張しているようだった。


「その、わたしのお願い、というのは……【薔薇園】で起きている、差別について……です」


 ドロシーはゆっくりと、やや混乱しつつある頭で必死に言葉を選びながら、スヴァトスラフ司教に語り始めた。


 そう、お願いというのは誰でもない、あの北の地で、聖職者という肩書きを忘れた様子で、赤毛差別を平然と行う、あの狸女――マザー・ローズについてのものだった。


 最初、エミリーからスヴァトスラフ司教に会って欲しいと言われたときは、こんな思いは抱かなかったし、彼に語ろうとも思わなかった。


 あの【薔薇園】には二度と関わりたくなかったからだ。


 ただ、ダニーを見て、ドロシーの考えが変わった。


 大人たちのくだらない言葉や暴力で、自分を嫌いになってしまう帝国系の子供たちが一人でも減って欲しい。


 きっと、ドロシーが去った【薔薇園】では、今でもマザー・ローズが赤い髪の子供たちを差別的に扱っているだろう。


 ドロシーと同じ思いを、して欲しくない。


 ダニーのように自分を嫌って欲しくない。


 エミリーやセドリックとの旅の中、リキノトが近づくに連れて、ドロシーの思いは固まっていった。


 帝国系王国人の不当な差別が、敬虔なヒトア教徒の中でも起きているという事実を伝えるべきだと。


 言ったところで変わらないかもしれない。

 だが、言わなくては、告発しなくては誰の目にも留まらないのだ。


「わたしは赤ん坊の時に【薔薇園】に引き取られたと聞きます。薔薇教会の前に捨てられていたのを、教会の司祭が拾ったと。それから物心が付く頃までは、多分、平和だったんだと思います。中央からやって来た新しい寮母……マザー・ローズがやって来るまでは」


 ドロシーが四つのころだったか。


 先代のマザー・ローズが高齢で、さらに目を病んでしまったことから、新しい寮母が教区の中央――【薔薇大教会】から派遣されてきた。


 彼女の来訪が、ドロシーの生活を地獄に変えてしまった。


「彼女は赤毛を嫌っていました。先の大戦で、王国側が帝国人に酷い目に遭わされたのは知っています。マザー・ローズも辛い思いをされたんだと思います。でも、菫司教はご存じでしょうが、【薔薇園】のある山の近くは帝国との国境付近。古い時代から、帝国人と血が混ざっているわたしたちの村には、帝国の人が関わらなくても、時たま赤い髪の子供が生まれるんです。だから、孤児院には赤毛の子がそれなりの数いたと思います」


 少なくともリキノトを中心に据えた菫教区よりかは、赤毛の子供が多かったことだろう。


 そんな少なくない赤毛の子供たちの中で、もっぱら標的にされていたのはドロシーだった。


 だが、今はもうドロシーはいない。

 ドロシーが魔女の道に逃げてしまったから。


「わたしと同じ、赤い髪の子供が、また酷い目に遭う前に……ううん、もう遭っていると思います。きっと今も辛い思いをしていると思うんだ」


 ドロシーは強く奥歯を噛んだ。


「だから」


 そう言って、真摯にドロシーの語りに耳を傾けていた、菫司教の顔を見上げ、言った。


「菫司教……遠い薔薇教区の、小さな孤児院の話ですが、どうか……お願いします。薔薇司教にお伝えして、マザー・ローズを孤児院の寮母から外すことは出来ないでしょうか」


 ドロシーの願い。

 それは、マザー・ローズを孤児院から追放することだ。


 ヒトア教から追放することは、きっと難しいことだろう。


 だが、孤児たちの教育の場から退けさせることは不可能ではないはずだ。


 孤児院から逃げた魔女の言葉一つでは、影響力に乏しいだろう。


 だが、教区こそ異なれど、人望に厚い菫司教の言葉であるなら、あるいは。


「わたしは、自分のために孤児院を逃げました。それしかわたしを助ける手段がなかったから。軍に入って、魔女になるしか、逃げる道はなくて……だから、【薔薇園】のことを誰かに伝えることも出来ないままで……今を逃したら、【薔薇園】の赤毛の子供たちを救う機会は二度と来ないと思うんです!」


 そこで、ドロシーは言葉を終えた。


 丸眼鏡が曇って見える。視界が歪んで、はっきりとスヴァトスラフ司教の顔を見ることが出来ない。


 一拍遅れて感じた頬を伝う温い感触で、ああ、泣いているのだと気が付いた。


 手の甲で涙をぐしぐしと拭って、もつれる肺を大きく膨らませて深呼吸。


 昔を思い出したせいだろうか、ドロシーは酷く感情的だった。


 うんうん、と頷きながらドロシーの告発に耳を傾けていた司教。


 たっぷりと時間を取って、ドロシーが落ち着くのを待ってから彼はゆるりと口を開く。


「……教区が違えば、僕の意見も通らなくなる。難しい話だが、しかし、その仕打ちは許されるものではないよ」


 大きな手が、カップを強く握りしめるドロシーの手を包み込む。


 温もりが慰めるように、あるいは落ち着かせるように優しく撫でていく。


「やれるだけのことはしよう。薔薇司教に、君のことを書いた手紙を送ろう。君は子供たちの恩人だからね。そんな君の願いだ。僕に出来ることはその程度ではあるけれど」


「……菫司教。ありがとうございます」


「さ、菫茶を飲んでごらん。少しは落ち着くと思うよ」


 スヴァトスラフ司教の手がゆっくりと離れていく。


 ドロシーはそれから彼に促された通りに、カップに口を付ける。


 仄かに香る甘い匂い。爽やかな菫の香りが、渋みのあるお茶の味に乗ってドロシーの胸を通り抜けていく。確かに、このお茶には大きなリラックス効果があるようだった。


 ドロシーの胃の中に溢れていたマグマみたいな怒りも、永久凍土みたいな悲しみも、ゆっくりと菫の香りで解きほぐされていくようだ。


 ドロシーと同じ時にカップへ口を付けると「辛かったね」と、スヴァトスラフ司教は言った。静かに受け皿にカップを戻して、真っ直ぐにドロシーを見据える。


「君は他人のために動ける人だ。他者のために時に自らの命を危機にさらすことさえ厭わない。エミリーやセドリックのために戦える勇敢さも兼ね備えている。……魔を操る魔女ではなく、聖女としての素質があったかもしれない」


 そこで、彼の灰色の目に強い光が灯る。


「いや、だからこそ……ドロシーくん、君は――」


 スヴァトスラフ司教の言葉に熱が籠もる。


「ユニコーンを操れたのかもしれない」


「え、で、でも、わたしは魔法使いで、法力なんて……」


「過去に一度でも君は自分の法力について調べたことはあるのかい?」


「いえ、一度も……」


「だろうね。君の話を聞く限り、マザー・ローズは筋金入りの赤毛排斥主義者だ。いや、あるいは金髪至上主義者なのかもしれない。いずれにせよ、赤毛を嫌うマザー・ローズが、ヒトア教に君を近づけさせるとは思えない」


 確かに、ドロシーは過去に潜在法力を調べる機会というものに恵まれなかった。


 他の子供たちは毎年のように検査を受けていたというのに、ドロシーや他の赤毛の子供たちは何かと理由を付けて検査を先延ばしにされていたような。


 なるほど、彼女は赤毛を憎むあまり、そもそも自分が信奉するヒトア教に近づけさせようとすらしなかったのか。


「……君の法力を確かめてみよう」


 思い立った様子で、スヴァトスラフ司教は立ち上がる。


 ドロシーは目を丸くした。


「え? い、今から、ですか? でも、菫司教。貴方はお忙しい身でしょう?」


「時間のことであれば、問題はないよ。それに、今じゃなくては……祈りの間に、魔の者を通すだなんて、そう許されることではないからね」


(確かに、法力のことについては凄く気になるけど)


 もう夜遅い。

 しかし、彼は今ほど絶好の時はないという。


「ドロシーくん。君の話を聞いたときから、ずっと気になっていたんだ。君にはなにかがある。そんな不思議な魅力がある。魔力を持ち、強大な使い魔を使役しながら、聖獣を使役するだけの強い祈りの力を秘めている」


 そして彼は、どこか懐かしむように目を細めて、独りごちる。


「……君は、僕が探し求めた存在なのかもしれない」

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