4-5ドロシー、菫司教とお月見をする



 ――夜。


 菫の仄かな香りが夜風に乗ってドロシーの鼻孔をくすぐった。


【菫大教会】その敷地内の端にある宿舎の三階には、バルコニーがあった。


 そのバルコニーから、夜の【菫大教会】の姿を眺めながら、ドロシーはぽつりとこぼす。


「エトアルさん、大丈夫かな……」


 夜空を見上げると、あの美しい目をした魔王の姿が瞼の裏に蘇る。


 ボロボロの外套に、伸びっぱなしでボサボサの黒髪。やや老けた顔。


 好戦的で挑発的で、でもドロシーには従順で優しい使い魔王。


「何事もないといいんだけど」


 魔石を持たせたままであることも不安の種となっていた。


(あの魔石で怪我とかしてないかな……古の魔王なんだし、きっと大丈夫なんだろうけど)


 魔力の塊である魔族の王。


 その彼が魔力を込めただけの(それがとびっきりの悪意の塊だとしても)石で火傷するとは思えない。


 ただ、この神聖性だ。


 リキノトを包み込む法力の結界は【菫大教会】の敷地内ほどと言わずとも、エトアルの体を確実に蝕んでいるはず。


(でも、エトアルさんのことよりも……)


 ドロシーはバルコニーの欄干に背中を預けると、質素な外観をした宿舎をじっと見上げた。


(エミリーとセドリックのことが心配かも)


 はあ、と溜息を吐いた。


 二人の聖者は、スヴァトスラフ司教の発言にいたく傷ついていたようだった。


 ヒトア教の信仰を共にする、聖職者に命を狙われたかもしれない――


(二人とも黙ってばかりで、ご飯も全然進んでなかったみたいだし)


 あれだけ精神的ダメージを受けては、食欲も湧かないだろう。


 聖者にとって、健全な精神こそが資本。その精神力も、今は酷く弱っている。


 会話のない暗い夕食の時間が終わると、二人はすぐに自室に戻ってしまった。


 ドロシーは宿舎の風呂を楽しんだが、ピメの村での時のようにエミリーが乱入してくることもなく。


(寒い)


 風が出てきた。遠く、街の果てより迫る雲。夜空が厚い雲で覆われようとしている。


(こんな風に一人になるのは、久々かも)


 思えば、この二年、ドロシーの側には誰かがいた。


 王立台三三魔法学校では、ルームメイトのリーナに、鬼教授のバーンリーが。


 一人旅が始まったと思えば、すぐにエトアルがやってきた。


 小さな田舎町では新米記者フィンと出会い、撮影会。


 ヒトト山ではエミリーとセドリックと。


 山を下りれば、ピメの村の人々が出迎えてくれて。


 誰かが側にいて、誰かが楽しく話をしてくれた。


(いつの間にか、わたし、さみしがり屋になっちゃったな)


 ドロシーは再び体を反転させると、欄干に両腕を突いた。


 そして下界に広がる菫畑が、強まった風に煽られて揺れる様をじっと見る。


【薔薇園】にいた時は、夜空さえ見られればそれで良く、孤独にも耐えられた。


 だけれども、今はとても、寒い。


 夜とはこうも寒いものだっただろうか。


 体をぶるりと震わせ「そろそろ、部屋に戻ろうかな」と手すりに預けていた体を起こしたところで「……おや、ドロシーくん」と、背後より投げかけられるのは、低く落ち着き払った男の声。


 ふと振り返ってみれば、バルコニーに続く宿舎の廊下に法衣を纏う菫司教の姿があった。


 彼は銀縁眼鏡の下、灰色の双眸をやさしく湾曲させて笑いかけると、ゆっくりとした速度でバルコニーへとやって来る。


 今の彼は手ぶらの状態。


 日常業務を終えて、やっと自由になれたのだろう。彼の足取りは、昼間見たそれよりもずっと軽快に映る。


「何やら風の音がすると思ってね。気になってやって来れば、小さな魔女が月を見ていて驚いたよ」


「菫司教」


「ここで何をしていたんだい?」


「夜を見ていました」


 それから再び夜空を見上げ、ドロシーは「何だか眠れなくて」と付け加える。


「夜……これまた奇遇だね。僕も夜空を見に来たんだよ。このバルコニーからの眺めは綺麗でね。星々の輝きとリキノトの街の明かりが入り交じって、より、夜が幻想的に見える」


 そう言って、彼はドロシーが先ほどまでそうしていたように、欄干に肘を突いた。


 司教の肩書きを持つ人物が取るポーズにしては、随分とラフなスタイルだ。


「夜は好きだ。僕がまだ司祭だったころ、ピメの村で奉仕していた時さ。子供たちが寝静まった後を見計らって、こうして夜空を見上げていた。ピメの村から見上げる夜空は、とても美しくてね。ここで見るより、もっと星が綺麗に映る」


 スヴァトスラフ司教はどこか熱っぽい視線で夜空を眺め、深呼吸をした。


「懐かしさで胸がいっぱいになる。この感覚が好きなんだ。遠い、昔を思い出してね。郷愁というのかな。昔が懐かしくなるんだ。どこまでも自由だったあの日々をね」


「……わたしも夜が好きです。夜が一番好き」


「どうして?」


 菫司教は静かに訊ねた。


 彼の横顔は、彼が言うとおり郷愁の色に溢れている。


「……どうして、って……何でかな」


 ドロシーも同じく夜空を見上げながら、呟くように言った。


「上手く言葉にするのが難しいんですけど……物心が付いた時には、孤児院の屋根裏部屋から見える夜空をずっと見上げていたんです」


 それからは、気が付いた時には語り始めていた。


「どれだけ辛い日々でも、どれだけ苦しいことがあっても、この夜空の向こう側には、わたしのパパとママがいるんだって思えば、力強く思えたの。いつか会えるかもって……パパとママが、同じ夜空を見ているかもしれないって思うだけで、苦しくなくなっていくような気がしたんだ」


 不思議だった。

 ドロシーは饒舌に語っていた。


 スヴァトスラフ司教は、今日会ったばかりの、よく知らない相手だというのに、ドロシーは語らずにはいられなかった。


 彼が、ドロシーの愛する夜を、同じく愛している者であると知ったからだろうか。


「どれだけ嫌われても、無視されても、夜だけはずっとわたしを見てくれてるって、お月様だけは見てくれてるんだって、そんな気がしてた」


 そうだ、思い出した。


 孤独な一四年間、ドロシーを照らし出してくれていた月が、月を内包する夜こそが、ドロシーの友だったのだ。


 夜風が、赤毛の魔女と菫司教の合間を駆け抜けて行く。


「……やはり孤児院での暮らしは辛いものだったみたいだね」


「え?」


 ドロシーは彼の方を見上げていた。


 エミリーやセドリックのものよりも、豪奢になった菫の花冠。その下で、司教は悲しげな表情を浮かべている。


「僕が薔薇司教に礼を言わなくては、と言った時、君は酷く苦しげな表情をしていたよ。【薔薇園】で何かあったのだろうとは思っていたけれど」


「……はい」


「君が抱えるものは僕が想像する以上のもののようだ」


 そこで、一度ドロシーは背後を振り向き、思う。


(……今なら、お願い、……言えるかな)


 側に聖者たちの姿はない。


 彼も多忙の身だ。目の前に転がっている問題のことで頭がいっぱいだろうに、さらにドロシーからのお願いごとで負担を強いるのは本意ではなかったが。


「その、今日の昼頃、お願いがあると言ったのは、そのことに関してです」


 今ほど絶好のチャンスというものはないだろう、とドロシーは判断した。


「教区の異なる菫司教にお願いしたとして、何も変わらないかもしれないけど……」


 弱々しくなる言葉尻に、スヴァトスラフ司教はやはり人好きする笑みを携えて、そっとドロシーの背中に手を伸ばす。


「分かったよ、ドロシーくん。僕の部屋で聞こう」


 優しくドロシーの背中を押し、彼は目配せをした。


「直に夏が来ると言っても、夜は冷えるからね」


 眼鏡の銀色の縁が、星の明かりのように輝いて見えた。

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