4-4 ドロシー、愕然とする



「――ええ?!」


 スヴァトスラフ司教の爆弾発言に、ドロシーを含めた三人の声が客室に轟いた。


 聖者に従う聖獣たちも主の動揺を受け、居心地が悪そうに神々しい声を漏らす。


「……静かに。声が外に漏れてしまうよ」


 スヴァトスラフ司教は苦笑する。


「君たちの反応はもっともだけれどね」


「他の教区……同じヒトア教徒の方が、どうして聖者を狙うんです? 新しい聖者の誕生は、ルクグ王国内のヒトア教徒にとって嬉しいことだと思うのに……」


 そっと声量を抑えた声でドロシーは訊ねた。


 意味が分からなかった。聖者が聖者の命を狙う? そんなことがあって良いのだろうか。


 いや、むしろ、だからこそ、なのだろうか。


「ドロシーくん、【花の子供たち】であったなら、多少なりともヒトア教について知っているだろう? ヒトア教の総本山である神皇国には、教皇様と、彼を補佐する枢機卿三名がいらっしゃる」


「それは知っています」


「神皇国は聖者のための国。そこに住まうのに、出自となる国は関係ない。この世界に散る、全てのヒトア教徒のための国だよ。鍛錬のために、あの国に身を置いた聖職者は数多くいる」


「それも、知ってます」


「では次期教皇、次期枢機卿は誰から選定されるか知っているかい?」


 スヴァトスラフ司教の問いに、ドロシーは静かに首を左右させた。


「いえ、そこまでは……」


「次期教皇は、当然、現枢機卿の中から現教皇によって選ばれる。では次期枢機卿は誰から選ばれるのか。……それは、各国の各教区を担う司教たちから選ばれることになっている」


 そこで菫司教は自分自身を指さした。


「つまり、僕も次期枢機卿候補であるということさ。そして、他の教区の司教たちも同じくね」


 彼は淡々と、枢機卿選定までの流れを簡単に説明していく。


「次期枢機卿を選定するのは、現枢機卿。年齢や病によって執務が困難と判断された場合、あるいは教皇を任命された場合に彼らは次期枢機卿を選ぶというわけだ。その選定条件は秘匿されてはいるものの……まあ、聖者の輩出人数は深く関わっているとされているね。だからこそ、各教区の司教たちは聖者候補の捜索に余念がない」


 そして、と彼は続けた。


「……僕たち菫教区は昨年二人の聖者を世に送り出した。それはすなわち、僕が他の教区の司教たちより、ほんの少しだけ枢機卿の座に近づいてしまったということに他ならない。聖者の認定は簡単なものではないんだ。それを二人も同時に行ってしまった僕の存在を快く思わないものもいるのさ」


 嫉妬は人間の原始的な感情の一つなのだと、昔読んだ本に書いてあったのを思い出す。


 だからこそ簡単には制御出来ない。


 嫉妬心。

 スヴァトスラフ司教が比較的年若い司教であるからこそ、その嫉妬心もより深いものになる。


「だからって、命まで狙うだなんてっ……! そんなの、ヒトア様の教えに反しています」


「そうだ! そんな恐ろしいことがあってはならない! 何のための教えだというのかっ……!」


 セドリックは苦しげに叫ぶと、自分自身の太ももを強くぶった。


 曲がったことが何よりも嫌いなセドリックには、聞くに堪えない話だったのだろう。


 実際、彼はオリエッタの凶刃の被害者だ。


 くだらない嫉妬心と権力闘争のために命を落としかけたなど信じたくもないのだろう。


「ヒトア教も一枚岩じゃない。ヒトア様の教えを、と聞こえの良い言葉を使ってはいるものの、結局やっていることは他の貴族や王国間の争いと変わらない、権力闘争だ。まったく嘆かわしい話だよ。枢機卿同士でも何かと諍いが起きているという話も聞くくらいだ」


 そこで言葉を句切ると、スヴァトスラフ司教は溜息交じりに訊ねてきた。


「ドロシーくん、失望しただろうか。平和と愛を訴えるヒトア教の裏側にある泥のような権力闘争でもめていると知って」


「いえ、何となく、もしかしたらって、分かってたから――」


【薔薇園】のこと、マザー・ローズのことを考えれば、すぐに分かる。


 全てのヒトア教徒が、誰も彼もがあの聖女の言葉を信じて行動している敬虔な信者ではないことぐらい。


 ただ、教区を取り纏める司教クラスの人間がそのような凶行に出るとは思いもしなかったけれども。


「分かっていた?」


「え、あ、いや。聖者を襲うなんて、そんな罰当たりなことを依頼するなんて、それぐらいやばい理由だろうなって、あはは、想像していたってだけで」


 ドロシーは取り繕うように笑ってみせた。


【薔薇園】で受けた折檻のことは、エミリーやセドリックにはまだ話していない。


 二人は心からヒトア教に殉ずる聖者だ。


 そんな彼らに、同じヒトア教の辛い話を聞かせたくなかったのだ。


 今も、二人の聖者は、その信仰心を揺るがす悍ましい話を聞かされている真っ最中。


 これ以上、苦しい思いはさせたくない。


「だが、もう安心して良いと思う。【菫大教会】には僕の祈りで満ちている。仮に、オリエッタが信者のふりをしてここに侵入したとしても、おいそれと魔法は使えない。使い魔を呼び出すことも出来ないだろうから、旅の中よりかはずっと安全だろうと思うよ」


 もちろん、警戒は怠らないけれど、とスヴァトスラフ司教は言った。


「でも、もし、菫司教の言うとおりなら、あの魔石はどこで調達したんでしょう?」


「魔石……ユニコーンを狂わせたという石のことかな」


「はい、法力を蝕み、ユニコーンを暴走させた石です。あの石、なんだかとても、悍ましい気配がしていて。ただの魔法使いが用意するには、あまりにも……」


 ドロシーはオリエッタとの戦いの記憶を呼び覚ましていた。


 悪意の塊のような石。見ているだけで不快感で一杯になる石だ。


 あれをただの傭兵が手にできるとは思えない。


 何かもっと、もっと……根源的な恐怖が、そこにあるような気がして。


「菫司教にお渡し出来れば、魔石伝いにオリエッタさんを買収した誰かが特定出来るかもと思ってたんですけど……結界に弾かれてしまって」


「……なるほど、では、その魔石は今どこに?」


 菫司教の問いに、ドロシーはふと菫のステンドグラスへと視線を向けた。


 色ガラスの向こう側に広がる、リキノトの広大な街並みを見つめながら「エトアルさんに……」と口にする。


「……あ、エトアルさんは、わたしの使い魔の名前で。魔石は今、彼が持っています」


「ではリキノトのどこかに? 魔獣がそのままいるとなると、何か問題でも起きてしまいそうだが」


 契約者の魔法使いにとって使い魔に危険性はないと分かっていても、それを知らない一市民には魔獣は脅威そのものだ。


 ドロシーは慌てて「それは大丈夫です」答える。


「エトアルさんは夜鷹の魔獣なので、街にいてもただの鳥にしか見えないと思います。今頃、どこか気持ち良く飛んでるか……誰かの頭にでも止まって休憩してるんじゃないかな」


「夜鷹の魔獣?」


「何か?」


「いや、僕もそれなりの人生を歩んできたつもりだったけど、夜鷹の魔獣なんて聞いた事がないからね。別の大陸から召喚したのか……」


「そ、そうなのかも? とにかくエトアルさんは良い使い魔なので、面倒なことには……ならないと思います」


 多分、と最後に付け加えると、ドロシーは苦笑した。


 エトアルはどうにも暴力的に解決しようとする癖がある。ただ、大抵、彼の手が出るときは、ドロシーの身に何かが起きた時。


 元魔人が率いる野党に狙われた時だとか、怒り狂ったセドリックがタイタンで潰しに来た時だとか、オリエッタとやり合ったときだとか。


(……うーん、ここ三週間ほどで随分と酷い目に遭ってきたような?)


「ふむ、ではまた後日、魔石についての時間を設けるとしよう。ただ、司教という立場上、多忙な身の上、簡単にとはいかないが……ドロシーくん、リキノトの滞在予定はどれほどなのかな?」


「あ、そこまで詳しくは決めていないんです。夏頃に【星鳴きの砂浜】にでも行けたらなって気分で……」


 見切り発車で始めた旅だ、ただ【星鳴きの砂浜】にたどり着くことが出来るのであればそれで良い。その後のことは、砂浜で考えるつもりだった。


 それに、ドロシーもすぐに発つ予定はどこにもなかった。


「そうか、では、リキノトに滞在する間、教会宿舎を使うと良い。法力が満ちる空間で体が休まらないと言うのであれば……無理にとは言わないけれどね」


 ドロシーは逡巡した。


 このままこの神聖性溢れる結界内で長居して良いものかと。


(でも、エミリーたちが心配だな)


 ドロシーはそっと隣に腰掛ける聖者たちを見やった。


 強く握りしめられた拳。噛みしめた唇。


 彼女たちの側に居てやりたかった。


 そっとドロシーは手を伸ばし、エミリーの固い拳の上から手の平で覆った。


 はっとした様子でエミリーがドロシーを見、ドロシーはそんな彼女にに、と笑いかけた。


「菫司教のお言葉に甘えます」


「……そうか。では、空いている部屋を使ってくれたらいい。場所の案内は、エミリーとセドリックに頼もう。準備は他の教会の職員にやらせるとしようか。……悪いが、そろそろ祈りの間に戻らなくてはいけない」


 壁に掛けられた時計を見上げ、スヴァトスラフ司教はゆっくりとした動きで立ち上がった。


「部屋の支度が終わり次第、ここに使いを寄越すよう言付けておく。それまでの間、ここでくつろいでいてくれ」


「……お義父さま」


 はっとした様子で聖女と聖人が立ち上がるが、それを大きな手が制止するように上げられた。


「エミリー、セドリック、見送りは良い。そこで座っていなさい。顔色が優れない。君たちも気持ちの整理が必要だろう」


 そう言って、錫杖と法典を手にし、ドアの元へと急ぐ司教の、豪奢な法衣の背中に向けて「その、菫司教」とドロシーは呼びかける。


「お時間がないことは承知の上で、お願いがあります」


「お願い?」


「今回のこととは関係ないんですが、貴方に折り入ってお願いごとがありまして……【花の子供たち】として、菫司教に伝えたいことが……」


 ドロシーが口元をまごつかせると、何かを察知した様子でスヴァトスラフ司教が頬を緩めた。人を安堵させることに特化した、柔和な微笑みだ。


「……分かった。後日また時間を作ろう」


 そう言って、彼は客室を去って行った。

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