4-3 ドロシー、名前の難しい司教に謁見する



 神聖な空気。

 耳が痛いほどの静寂。


 ドロシーはヒトア教徒ではなかったが、思わず自分がその宗教の敬虔な信徒であると思わされてしまいそうな、そんな荘厳で、威圧的な空気が【菫大教会】の内部に広がっていた。


 ドロシーたちは菫司教――スヴァトスラフ・クライーチェクが祈りを終えるまでの間、教会の片隅にある客室で待機するよう促された。


 客室とは言っても随分と手広で、大柄な聖獣、ユニコーンやタイタン(特にタイタンは窮屈そうではあったが)も収容出来るだけの広さを誇っている。


 聖者は聖獣を従える。


 聖獣は個体差によってその大きさはまちまちであるようだが、基本的に聖者の守護者としての働きをこなすために聖獣は大ぶりな姿形をしていると聞いた事がある。


 教区の中心でもある【菫大教会】にどれだけの聖者が所属しているのかは知らないが、きっとその聖者と聖獣たちが不便なく行き来できるように教会内は整備されているのだろう。


 客室や、その間口、各部屋に通ずる道の幅など、そのほとんどが大きく広く取られているのはそのために違いない。


 そんな中で、どれほど待っただろうか。


 いなくなった夜鷹の分、軽くなった頭や肩の感覚を寂しく思いながら、思わず腰がとろけてしまいそうなほどに柔らかなソファに背中を預けて、しばらく。


「その、すう゛ぁ……えっと、菫司教はどんな人なのかな」


 ドロシーはなんと無しに訊ねてみた。


「司教さまは……お義父さまは、とても勉強熱心で革新的なお方よ。祈りの合間に神学……ヒトア教に伝わる教えや、歴史について研究も欠かさない。立派なお人なの」


「だからといって、祈りの時間をおろそかにすることもない。リキノトで重傷者が発生すれば、その者のために祈ることもある。聖職者の鑑のような人だ」


 二人が口にするスヴァトスラフ司教という人物は、誰もがヒトア教の聖職者として想像するような人物像をそのまま当て填めたかのよう。


「だから、彼の期待に応えられる聖者になれたか、少し不安ね」


 エミリーの顔色は優れない。

 重く張り詰めた緊張の空気が漂い始める。


 その空気の発生源は、もちろんエミリーとセドリックだった。


 父と慕う存在と久しぶりに再会することは、こうも緊張するものなのだろうか。


(わたしもパパと会うってなったら、こんな風になるのかな)


 自分を落ち着かせようと大きく深呼吸をするセドリック。彼の太く凜々しい黒い眉も、今日は酷くしょぼくれて見える。


 ドロシーはそっと視線を聖者たちから逸らし、客室の窓に懲らされた菫の意匠へと向けた。見事なステンドグラス。美しい菫の絵が、色つきガラスで再現されている。


 その神々しい光に目を細めていると――


(……歌が聞こえる。ヒトア教の聖歌かな)


 遠くより聖歌が聞こえて来る。きっと信者たちが歌っているのだろう。


 それだけで、一つの癒やしの祈りとして成立するとも言われている聖歌。癒やしの歌声に体を委ねようと、教会を訪れる者も多く居ると聞く。


 ただドロシーにとっては呪いの歌に等しいものだった。


【薔薇園】で喉から血を滲ませるまで歌わされた時を思い出してげんなりしてきたところで、客室のドアがばたりと開いた。


「それでは皆様、スヴァトスラフ司教がお見えになります」


 その言葉が終わるより先に、二人の聖者が席を立った。


 彼らの動きにつられるようにしてドロシーもまた立ち上がる。


 レジーナが錫杖を鳴らすと同時に、奥の重厚なドアの陰より姿を見せるのは、菫の花冠。


 廊下のステンドグラスより差し込む日の光を背後より受けながら、ゆったりとした歩みで客室に入ってくる一人の男性。


 深い菫色の法衣は、エミリーやセドリックが纏っているものとは異なり、より豪奢に。銀糸で縫い込まれた菫の文様の他にも、金糸で描かれた菫の姿まで見られる法衣。


 左右の手にはレジーナの錫杖をより立派にした錫杖と、分厚い法典が握られていた。


(この人がスヴァ……なんだっけ? なんちゃら司教――)


 彼がスヴァトスラフ・クライーチェク。

 エミリーとセドリックの義父にして、この菫教区を取り仕切る司教。


 朽ち葉色の髪に、灰色の瞳。ドロシーと同じく、目が悪いのか細いフレームの銀縁眼鏡をかけている。年の頃合いは四〇代前半といったくらいだろうか。ぱっと見は若く見えたが、広い額と柔和な顔立ちに走る皺が彼の年齢を物語っている。


 ドロシーは驚いていた。

 想像以上にスヴァトスラフ司教は若かったのだ。


 教区を取り纏める司教を務めるには、聖者に認定されるのは必須条件。それ以外にも、長きにわたるヒトア教への奉仕の実績、ヒトア教の歴史学、聖書学を収めた実績が必要になると聞いた事があった。さらには、他の教区からも認められる人望が必要だとも。


 スヴァトスラフ司教の灰色の瞳が、緊張に顔を強ばらせる二人の聖者に向けられる。


「エミリー・バイオレット、そして」


 その声はエトアルのものよりも低く、とても落ち着いている。


「セドリック・バイオレット」


 はい、と二人の聖者は全く同じタイミングで声を上げた。


「巡礼の旅を終え、聖者の証である冠と聖獣を賜り、無事、僕の元に戻って来てくれた……」


 それから、彼は穏やかに微笑んだ。


「お帰りなさい、可愛い僕の子供たち。ずっと君たちの帰りを待っていたよ。レジーナ、……錫杖と法典を」


「かしこまりました、司教」


 彼は重装備な錫杖と法典をレジーナに渡すと、ばっと大きく両手を広げた。


「さあ、おいで。僕の子供たち」


「……お義父さまっ!」


 スヴァトスラフ司教の言葉にエミリーとセドリックは駆け出し、気が付いた時には彼の胸の中にいた。


 聖者二人は、その菫の花冠が示す肩書きを忘れた様子で目元を赤くし、涙に潤んだ声で口々に言った。


「お久しぶりです、お義父さま!」


「お義父さま、貴方の元に戻ることが出来て、私、とても幸せです」


 そんな二人の様子を見て、ドロシーはぎょっとしていた。


(エミリーならまだしも、セドリックまで……)


 あのセドリックがぼろぼろと大粒の涙をこぼして、スヴァトスラフ司教に抱きついているのだ。何というか、イメージにそぐわない。


 しかし、それだけ――その姿を前に涙をこぼすほどに、二人はスヴァトスラフ司教を愛しているということだろう。ドロシーにはいまいち良く分からない感情だった。


「君たちはまだまだ子供だね。まったく、泣いていては教皇に示しが付かないよ。聖者として、胸を張らなくては」


「すみません、お義父さま」


「お義父さまのお姿に、思わず緊張が緩んでしまったのだと思います」


 二人は少し恥ずかしそうにスヴァトスラフ司教の側を離れると、手持ちのハンカチで涙を拭っていく。


「さ、席に戻って。そちらの……ドロシー・ローズくん、だったね? 君も座って欲しい」


 スヴァトスラフ司教の言葉に促されるままに着席すれば、聖者二人、それから菫司教自身もその後に続く。


 ドロシーの対面に腰掛けた司教は、灰色の視線でドロシーを捉え、「レジーナから大まかな話は聞いているよ」と口を開く。


「君の活躍により、二人の命が救われた、とね。ローズ……【薔薇園】の子、【花の子供たち】に助けられるとは、これもヒトア様の思し召し。君は菫教区の救世主だよ」


「……きゅ、救世主だなんて、お、大げさですよ。人として普通のことをしたまでです」


「自分の力に、慢心せず、奢り高ぶらない。君は素晴らしい魔女だ」


(お、大げさだなぁ……)


 ヒトア教徒は大げさな人が多い。


 ドロシーは大したことなどしていない。ただ、気が付いたら、エミリーを助けていて、そのまま流されるようにリキノトまで来ていた。


「さて、無事、子供たちが戻ったことに祝賀会でも開きたい気持ちではあるものの……オリエッタ・サッキの姿が見えないことについて、まだ、何かあるようだね?」


「はい、お義父さま。その件については……私が、エミリーが今からお伝えします」



 ☆ ★ ☆ ★ ☆



 事の顛末については、エミリーが粛々と語っていった。


 ヒトト山でユニコーンが突如として暴れ出したこと、その後ドロシーと出会ったこと、オリエッタがエミリーたちの命を狙っていたこと、ユニコーンの暴走がオリエッタが準備したと思われる魔石によって引き起こされたこと。ドロシーがユニコーンを助け、法力が尽きかけているにもかかわらず、ドロシーの想いに応えてくれたこと。


 スヴァトスラフ司教は数多の情報をかみ砕くのに苦労しているようだった。


 広い額に手をやって「なるほど、そのようなことが……」と言葉を詰まらせる。


 その反応も仕方ないだろう。


 無事に旅を終えてくれと願って雇った傭兵が、最悪なことに聖者二人の暗殺を画策していただなんて。


 心を落ち着かせようとしたのか、スヴァトスラフ司教は一度眼鏡を外すとそれを菫色のクロスで丁寧に拭いていく。


 それから眼鏡をかけ直すと、巡礼の旅を終えた聖者とその護衛に当たった赤毛の魔女を見やった。


「何故オリエッタが裏切ったのか、ユニコーンを狂わせた魔石とやらも気になるけれども……魔女が聖獣ユニコーンを従えたという話も驚きだ」


 ふむ、と彼は広い額に手をやって、小さく息を吐く。


「いったいどこから話を整理していけば良いのか、困ってしまうね」とスヴァトスラフ司教は困った様子で頬を掻いた。


 そこで菫司教は何かを思いついた様子で「レジーナ」と背後に控える司教補佐官を見た。


「今日の予定は全てキャンセルできるかい? 出来れば明日、明後日の分も。大丈夫、祈りの時間は削らないよ。僕の説法を楽しみにしてくれている奇特な信者の皆さんには悪いけれどね」


「決して不可能ではありませんが……すでに信徒は司教の言葉を聞きたいと、教会に集まりつつあります。彼らをこのまま帰すのは少々……」


「レジーナ、悪いが代わりに君が壇上に立ってくれるかい?」


「わ、わたくしが、ですか? とてもありがたい申し出ではありますが、ヒトア様のお言葉をお伝えするには、準備が……」


「いずれ君が次の菫司教となる。その時が少し早まったと思って頼むよ。最悪僕の原稿を使えば良い」


 スヴァトスラフ司教は上目遣いに補佐官を見つめると茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。


 原稿を流用しても良いとは、誠実さを訴えるヒトア教の司教にあるまじき台詞ではないか。


 客室にいる全ての人間が、スヴァトスラフ司教の言葉に驚いていたことだろう。


「め、滅相もございません! ヒトア様のお言葉は、わたくしの言葉でお伝えいたします。すぐにでも支度をしなくては……」


 司教から預かった錫杖と法典を、それぞれ壁とテーブルの上に安置すると、レジーナは自前の錫杖を片手に慌ただしく客室を出て行った。


「悪いね、レジーナ」


「で、でも大丈夫なんですか? 急に予定を変えてしまって」


「ちょっとくらいは大丈夫さ。何より、僕の子供たちの命にかかわった話なんだから、親が子のために時間を割くのは至極当然のことだろう? 寛容さもまたヒトア様がお伝えになった大切な心持ちの一つ。信者の皆さんもきっと理解を示してくれるはずさ」


(菫司教、名前は難しいけど、気難しくはなさそうな人ね)


 この一六年、ドロシーが接してきたヒトア教徒と言えば、マザー・ローズとその取り巻きたち。彼女たちは厳格にヒトア様の教えとやらを守る人間で、融通の利かない人たちだった。


 それと比べると、スヴァトスラフ司教は柔軟な思考の持ち主のようだった。


 ただ、急に説法をしなくてはならなくなったレジーナが気の毒ではあったが。


(わたしのお願いにも応えてくれそう)


 ドロシーは期待を込めた視線を、スヴァトスラフ司教に向けた。


「さて、エミリーの話で大まかな流れは把握したけれども……」


 あの聖者暗殺未遂において、三つの大きな疑問が残されていた。


 一つ目は、何故、オリエッタが裏切ったのか、その目的について。


 二つ目は、ユニコーンを狂わせた魔石について。


 三つ目は、どうしてユニコーンがドロシーの願いを聞き届けてくれたのかについて。


 気になることは山ほどあったが。


「何故、オリエッタが裏切ったのか……そのことについてだが」


「菫司教には何か心当たりがあるみたいですね」


 言葉尻を濁らせるスヴァトスラフ司教にドロシーが訊ねれば、彼は強くその太い顎のラインを上下させて言った。


「分かるかい? 心当たり、……そうだね、心当たりはある。とても残念な話ではあるけれども」


「お義父さま?!」


「それは本当なのですか?」


 二人の聖者が息を呑む。


「ただ、これより先の話を、教徒ではない魔女に伝えるには少々憚れるものが……」


「お義父さま! ドロシーは私たちのために危険を顧みず戦ってくれたのですよ」


「ヒトア教徒ではなくとも、ドロシーは俺たちの友人です。ドロシーがオリエッタと関わってしまった以上、彼女にも危険が降りかかってしまうかもしれない。何も知らずにここを出すのは……」


「そうです、お義父さま。それに、ユニコーンがドロシーの言葉を聞いた以上、彼女は部外者とは言えません」


 我が子たちの言葉に、スヴァトスラフ司教は悩んだ様子でうなり声を上げた。


 確かに、誰が、何の目的でオリエッタを使って二人を狙ったのか、その理由を知っているのといないのとでは、今後の旅にも色々と関わってくる部分があるかもしれない。


「ドロシーくん、君はどうしたい? この話を聞いた先、君は面倒ごとに巻き込まれる可能性がある。レジーナの話によると君は傭兵ではなく、旅の魔女なのだろう?」


 スヴァトスラフ司教の言葉に、ドロシーはたじろいだ。


 ドロシーはそもそも、エミリーにせがまれてここにいる。


 別にドロシーは探偵でもなかったし、治安維持に務める自警団でもない。かといって、聖者を神聖視するヒトア教徒でもない。


 ドロシーの目的は【星鳴きの砂浜】に行くことだ。見たことのない〝海〟というものを見たくて始めた旅だ。


 ここで謁見を終えれば、聖者たちを置いて【星鳴きの砂浜】を目指して旅立つことも出来る。


(でも、やっぱり気になるし……放っておけないよ)


 ちろりとドロシーは隣に座るエミリーとセドリックを見やった。


 彼らと遭遇したのは、ドロシーが旅を始めたばかり頃。それからずっとリキノトまで一緒だったのだ。


 ここで、はい、さようならとはいかない。

 ドロシーにとって、エミリーとセドリックは大切な友人だった。


 それに、スヴァトスラフ司教にお願いがあるのだ。

 ドロシーにとって大切なお願いが。


「この場で見聞きしたことは決して外には伝えないと約束しますし、わたしには心強い使い魔がいます。なので、多少の問題には……対処できると思います」


 ドロシーにはエトアルがいる。

 魔法だって使えるようになったのだ。


 一度はオリエッタを退けている。再び彼女と相まみえることがあったとしても、きっとドロシーは大丈夫だ。


「そうか、心強い話だ。では……」


 スヴァトスラフ司教は両手を組むと、静かに瞼を伏せた。

 そして異を決した様に目を開けると、灰色の双眸でドロシーを見つめる。


「オリエッタを買収したのは、他の教区の司教だろうと睨んでいる」

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