3-6 ドロシー、赤毛少年を助ける



 日も傾き始めた空の下、捜索に励む男たちの声が木霊する。


 伸びっぱなしで人の手が一切入っていない森の中は、薄暗い。


「これだけ探して見つからないなんて……」


「ヒトト山の方に行っちまったか?」


「山は危険だって、マザー・バイオレットが口を酸っぱくして言ってただろ? ガキんちょが一人で上れるような場所じゃねえよ」


「街道に出て、リキノト方面に行っちまったんじゃねえか?」


 ロン爺さんを含めた村の男たちが口々にそう言った。


 彼らの手には、魔獣と遭遇した時のための武器として農具が握られている。


 かれこれ数時間以上探し回っていたが、村を出て行ったダニー少年の姿はどこにも見当たらない。


 じれったそうに、ロン爺さんがドロシーに訊ねた。


「魔女さん、本当に森の方に行ったんですかね?」


「えっと……」


「先ほどまで騒々しい声が聞こえていたが、突然大人しくなった。だが、森に逃げたのは確かであろう。あの騒ぎようは間違いなく、人の子に興奮した獣どもの声であろう」


 夜鷹の囀りが、ドロシーの頭の中で言葉に変換される。


「確かに森に逃げたはずです。魔獣たちの騒ぎ声が聞こえたと、エトアルさんが」


「そのちっこい鳥が言ったのか?」


「ちっこい鳥ではなくエトアルさんです。こう見えても、凄い魔獣なんですよ」


 具体的には言わないが、凄い魔獣であることには違いないだろう。


 だが村人たちは、エトアルが魔王で、さらに聖者たちを救う一役を買っていた――というかほとんど主役であったのは知らないのだ。


「早く見つけねえと、ガキが魔獣の飯になっちまう」


 ロン爺さんが汗に濡れた額を拭いながらそう言った。


 ピメの村は四方を自然に囲まれている。


 すぐ側にはヒトト山に続く道が。


 西の方面にはヒトト山の裾野から続く森林が広がっている。


 広大な自然の中から、赤毛の少年を探し出すのは至難の業だ。


 魔獣のこともある。


「……そうだな。ここらで別れて、ダニーを探すとしようか。ロン爺さんたちは、村の側に。結界の範囲内であれば、その装備でも安心だろう。森の奥は危険だしな。山の方から下りてきた魔獣がいるかもしれない。爺さんたちが怪我するのは俺も見たくない」


 セドリックの言葉に男たちは頷くと、村の近場へと引き返していった。


 森の方は、教会や【菫園】に施された結界の効果もあって、魔獣の数は少ないと聞いた。


 ヒトト山の山中よりかは、少ないだろう。


 だが、魔獣と遭遇しない保証はどこにもない。


 ドロシーや聖獣を連れた聖者二人であれば、多少の魔獣であれば対応出来るが、農具だけが身を守る武器である農夫たちでは少々心許ない。


「でも、いったいどこに行ったのかしら……ユニコーン、何か感じない?」


 エミリーが陶器の横顔を優しく撫でるが、ユニコーンは答えない。


「ドロシーとエトアルみたいに、貴方とも会話が出来たら良いのに」


 残念そうにユニコーンから手を離すと、エミリーは「ダニー! 聞こえたら返事をしてちょうだい!」と、いつぞやセドリックを探していたその時のように声を張った。


「ダニー! 出てくるんだ。村の外は危険だ。ここは魔獣除けが届かない! 食われてしまうぞ!」


「ダニーくん! 聞こえたら出てきて!」


 セドリックに続き、ドロシーも大声でダニーを呼ぶが返事はない。


 それからドロシーは二人の顔を見上げて「わたしたちも別れて探そっか」と提案する。


 森の奥が危険であるならば、そちら側をドロシーが。


 比較的手前の方をセドリックとエミリーが。


 森が深まるほど魔獣との遭遇の危険性が高まるのであれば、そちらの方が良いだろう。


「わたしはこっちの方に」


「……分かったわ。私たちはあちらの方に。気を付けて、ドロシー」


「大丈夫。そっちこそ、怪我しないようにね」


 聖獣を狂わせた悪い魔法使いは側にはいない。


 今の二人であれば、ドロシーやエトアルが側にいなくても大丈夫だろう。ユニコーンとタイタンだっている。


 ドロシーは聖者二人に向かって小さく手を振ると、獣道からまた別の獣道へと草木を跨いで進んで行く。


「ダニーくん! 聞こえたら返事をして! 森は危険だよ! 早く帰ろう!」


 声を張り、さらに森の奥へ奥へと進んでいく。


 より闇が深まり、ヒトト山で迷っていたあの時を思い出す。


 魔の気配が強まっている。


「エトアルさん。まだ何か聞こえたりしませんか?」


 ドロシーは肩に留まる夜鷹に訊ねた。


「声については耳を澄ましているが……」


 エトアルが嘴を開いたその時だった。


 ――ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあ。


「鴉?」


 鳴き声と共に、そう遠くない位置で鳥が飛び立つ音が続く。


 それも一羽や二羽ではない。何十羽という鳥が一斉に飛び立ったのだ。


 何やら騒々しい気配を感じる。


「聞こえたぞ、主よ」


 エトアルがふと天を仰ぎ、夜空色の双眸をすうっと細めた。


「魔獣の声が聞こえる……なるほど、旨そうな馳走がいると喜んでいるようだな」


「……急がないと! どこの方角からですか?」


「日の傾きからして、ここより北北西か」


「えっと、あっちですね!」


 ほんの一瞬、エミリーとセドリックを呼ぶ考えも過ったが。


(ダニーは手ぶらだろうし、わたしが行かないとっ!)


 ダニーの保護を優先すべきと、ドロシーは駆け出した。


 生い茂る草木を掻き分け、魔獣の声がしたとエトアルが言った方角を目指して一直線に。


 苔生した岩に足を取られそうになりながらも、真っ直ぐに進んだ。


 夏が近づいているから、じっとりとした蒸すような暑さが森の中に広がっている。


「ダニーくん! ダニーくん! いたら返事して!」


 いよいよ森も深まり、視界も最悪だ。人の通らない、獣道かも定かでないような道。


 だからこそ、人が通ったと思しき箇所が目立つ。


「こっちね!」


 服に引っかかったのか、それとも自分で折ったのかは分からないが、まだ折れて間もないであろう低木の枝が目に留まる。


 蜘蛛の巣を破った痕跡もある。


 きっとダニーだ。ダニーが通ったのだ。


 そう確信して進んだ先には、僅かに拓けた場所があった。


 そこに腰を下ろす、赤い髪の少年の姿――


(良かった、無事だったんだ!)


 内心ほっと一息吐くと、ドロシーは「ダニーくん!」と呼びかけた。


 赤毛の少年がはっとした様子でこちらを見る。


「やっと見つけたよ、ダニーくん。ここにいたんだね。皆心配しているよ。さ、帰ろう」


 魔獣が狙っている、とは言わなかった。


 ダニーはまだまだ幼い少年だ。無為に不安にさせては、逆効果だろうと。


「……こっち来んなっ!」


 赤毛の少年ががなり立てる。


 膝が赤くすりむけているのが、遠目でもよく分かった。中々酷い擦過傷で、ハーフパンツの下から覗く白い足が、滴る血で汚れている。


「怪我しちゃったんだね。転んだのかな? すぐに村に戻って、治してもらおうね」


 ドロシーは手負いの獣を相手にするように、慎重に穏便にダニーの元へと近寄った。


「だからこっちに来んなって!」


 ドロシーを拒否するように大きく手を振るダニー。


 そんな彼へと微笑みながら「大丈夫だから」とドロシーはゆっくりと距離を縮めていく。


「だって、危ないからっ! オレ、でけえ蛇に追いかけまわされてっ……! 今も側にいるかもっ!」


 傷の具合もはっきりと視認出来るくらいに近づいたところで、やっと、ドロシーはどうしてダニーがこうも近寄るなと叫んでいたのか理解した。


「姉ちゃ、そこ」


 少年の緑の瞳が、恐れに震えた目が、釘付けになる上の方。


 生い茂る木々の葉の合間に絡まるようにして、身を隠すのは巨大な蛇――


「……! 大蛇……」


 ひゅ、とドロシーが息を呑んだところで、大蛇がどさりと地上へと落ちてくる。


 それは硬質な鱗で覆われた巨大な蛇である。


 ただの大蛇でないことは、その蛇が纏う魔力からして明らかだった。


 ぱちぱちと弾ける空気の気配。大蛇は雷の魔力をその身に宿している。


「っ、! 大丈夫、わたしが守るから」


 ドロシーは大蛇とダニーの間に割って入ると、杖を掲げて大蛇を睨み付けた。


 ちろちろと赤い舌を振るわせる大蛇は、新しい獲物を品定めするようにドロシーを見下ろしている。


「主よ」


「大丈夫」


 エトアルの声にドロシーは首を左右させた。


 昔のドロシーであれば、尻尾を巻いて逃げ出していたことだろうが。


「何だか、今、凄く出来る気がするんだ」


 今朝、《火球》が使えた。

 だったら、今だって出来るかもしれない。


 どうして今朝になって、不得手としていた攻撃魔法が使えたのか、ドロシーには分からない。理屈なんて、今、ダニー少年を救った後、考えれば良いのだ。


 ドロシーは血と肉が燃え上がるのを感じていた。


 この小さな体の中を巡る魔力が激しく燃えさかっている。


 バーンリー教授が教えてくれた攻撃魔法の呪文を、ドロシーは鼻歌を歌うように口ずさんだ。


 ひくりと大蛇が体を大きく震わせる。


 ドロシーを品定めしている場合ではないと、魔獣ながらに判断したのだろう。


 その巨大な口を大きく開け、短剣よりも鋭い牙を剥き出しにし、ドロシーの頭を食いちぎらんと飛びかかる。


 少年の悲鳴が上がるが、ドロシーは冷静だった。


「――燃えろ!――」


 ドロシーが最後の呪文を唱えた刹那――《業火》が、紅蓮の炎と共に顕現した。


 ごうごうと燃える炎が、昼間生み出した火の球よりも巨大で、激しい炎の息吹が瞬く間に大蛇を包み込む。


 悲鳴が上がる。

 それはダニーのものではなかったし、ドロシーのものでもない。


 炎に焼かれ、悶え苦しむ大蛇のものだ。


 大蛇は火を消そうと大地に体を擦り付け、雄叫びを上げて森の奥へと逃げていく。


 赤く燃える大蛇の体がすっかり見えなくなったところで「ダニーくん」とドロシーは振り返った。


「悪い蛇はわたしが追い払ったよ。ほら、帰ろう? 怪我、痛かったよね? わたしの手持ちの軟膏を塗ってあげるから。後でエミリーとセドリックに祈って貰おう」


 ドロシーは座り込むダニーの側にしゃがむと、ポーチの中から小ぶりなクリームポットと比較的清潔な布を一枚取り出した。


 口を綴じていた紐を解き、蓋を開けて、軟膏を指で取ると、膝の擦過傷に塗っていく。


 止血と痛み止めの効果がある魔法使い特製の軟膏だ。


 ひとしきり塗ったところで、患部を布で覆う。


「……」


 その手当の間も、手当が終わった後も、ダニーは沈黙を貫いていた。


「ダニーくん?」


 ドロシーが少年の顔を伺うと、ぽたりと手当が済んだ膝に落ちるのは涙。


「何で」と少年はしゃくりあげる。


 極度の緊張から解放された安堵の嗚咽かと思ったが、どうやらそうではないようだ。


「何で、何で、赤毛の姉ちゃんにはそんな力があるのに」


 ぼろぼろと大粒の涙が、ドロシーと同じ色をした新緑の双眸から落ちていく。


「何でオレには何にもないんだよぅ」


 涙を拭いながら、顔を真っ赤にして泣きじゃくる少年に、ドロシーは言葉を失ってしまった。


 ドロシーに石を投げたとき、ダニーは「何でだよ」と叫んでいた。


 その意味を理解して、だからこそ、ドロシーは何も言えなかった。


「オレには何にもない。魔力も、法力もない、役立たずでっ……」


 あの時のダニーの言葉は、自分自身に向けたものだったのだ。


 肺を震わせて、ひっくひっくと少年は泣き続ける。


「母ちゃんも、助けてあげられなかった。オレが何にも出来ないから、役立たずだから。母ちゃんに嫌われたのも、オレが、何にも出来ない赤毛だからっ……」


「そんなことないよ」


 ドロシーはとっさに少年を抱き締めていた。


「そんなことない」


 繰り返すように言っては、ダニーの赤く染まった耳元に唇を寄せて囁く。


「ダニーはわたしを助けてくれたよ」

「違う、オレが姉ちゃんに、助けて貰って」


 そこで一度ダニーから離れると、ドロシーは力強く言った。真っ直ぐ、緑の瞳を見つめながら。


「ダニーが危ないって言ってくれたでしょ? だから、わたしはすぐに魔法が使えたんだよ。こっちに来るなって言ったのも、わたしが襲われないようにって思ったからだよね?」


 そう言って、ドロシーは「ダニー」優しく彼の赤い髪を撫でた。


 ドロシーの赤毛よりも少し色味の明るい髪。自分で無理矢理に切って、長さもばらばらなその髪を、ドロシーは慈しむように優しく撫でた。


「綺麗な赤毛だね。わたしの髪よりも明るい、夕暮れ時のお日様色。綺麗」


「きれいじゃ、ないよ。母ちゃんは、この色のこと、気味が悪いって、汚いって……」


「ううん、綺麗だよ。わたしはそう思ってる。ダニーの心と一緒で、すごく綺麗だって。もう少し伸ばして、切りそろえたら凄い素敵な髪になると思うなぁ」


 ダニーは何も言わなかった。


 ただ、彼の目からこぼれていた大粒の涙の雨は止んで、新緑の瞳が揺れている。


 ドロシーはそんな彼の顔を見つめながら、安心させるべく微笑んだ。


「ね、ダニー。難しいことを言ってるかもしれないけど、ね。わたし、ダニーにも好きになって欲しいんだ。自分の赤い髪のこと」


「……」


 ダニーは答えない。


 だけれども、そんなにもすぐに自分の考えを変えられるはずもない。


 だから、今はこれで良かった。

 ドロシーはダニーの髪の色が好きだと言うこと、その事実だけを伝えられればそれで良かった。


 そこから先、彼がどう考えるかは彼次第だ。


「ね、そろそろ帰ろうか? 日が暮れちゃったら、帰り道分かんなくなっちゃうし」


「お姉ちゃん、ごめんなさい。オレ、訳わかんなくなって。お姉ちゃんが、皆に好かれてるの見て、オレ……悲しくなって、気が付いたら……」


「石、当たらなかったし、大丈夫だよ」


 そう言って、ドロシーはそっとダニーに手を差し伸べる。


「それに、ダニーも皆に好かれてるよ?」


「え?」


「ほら、聞こえるでしょ? 皆の声」


 声が聞こえる。


 おそらく、ドロシーが撃ち放った《業火》の音を聞きつけたのだろう。


 心配そうにダニーの名を呼ぶエミリーの声に、力強い清廉としたセドリックの声。そこに混じって聞こえて来るのは「大丈夫か」「ダニーそこにいるのか」「今、行くぞ」一度はリキノト方面の街道に向かった農夫たちの声が聞こえる。


「皆ダニーが好きなんだよ」


 そこで、ダニーがそっとドロシーの手を取った。


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