3-3 ドロシー、魔王の過去に触れる
夜。
久々にお風呂に入って垢を落として、身ぎれいになったドロシー。
体を包み込む菫の香りが心地良い。そのまま、花の香りに誘われるままに、硬いベッドの上に横たわり、眠りに入ったのはどれほど前か。
「ん、エトアルさん?」
夜鷹が羽ばたく気配を感じ、ドロシーは目覚めてしまった。
糊のついた瞼を擦り、ベッドから体を起こせば、窓が僅かに開いている。
眼鏡を装着し腰を上げると、ドロシーは裸足で窓辺に急いだ。
僅かに開いた窓の側には一枚の羽根が落ちている。
エトアルはどこにいってしまったのだろうか。
ドロシーはもう一度目を擦り、窓を開けた。
それから、少し欠けた銀の月が照らし出す【菫園】の敷地内を見渡した。
(――どこに行ったのかな)
夜鷹の姿はどこにもない。鳴き声も聞こえない。
心がざわつき始めたところで、ドロシーは【菫園】の敷地内に建つこぢんまりとした教会に目が留まる。
菫色に塗られた屋根に、錆びた鐘。白い外壁を覆う蔦。
古めかしい教会の扉を開けるのは、一人の男。
「……エトアルさん」
あれは魔王形態となったエトアルだ。鴉の濡れ羽色の髪、ボロボロの外套。
エトアル以外にあのような不審者めいた格好をしている人物はそういないだろう。
(でも、どうしてエトアルさんが教会に?)
ドロシーは何故だかいてもたっても居られなくなって、靴を引っかけるようにして履くと、髪を結ぶことも着替えることもせず、寝間着のまま部屋を飛び出した。
☆ ★ ☆ ★ ☆
夜の教会は神秘的だった。
古ぼけた建物だというのにもかかわらず、その威厳と矜持の面影だけははっきりとしている。
特に悪いことをしているわけでもないのに、息を潜め、ドロシーはそっと開いた教会の扉を覗き込んだ。
ふくらはぎにまで届く長い赤毛が、くすぐったい。
教会の窓より差し込む光を浴びて、その輪郭線を滲ませる魔王。
彼はじっと講堂の奥に佇む、白い聖女像を見上げていた。
そして彼は振り向かずに言った。
「主よ、起こしてしまったか」
「ひゃあっ?!」
「……そなたは本当によく驚くな」
「エトアルさんが何でも急なんですよ」
ドロシーが苦言を呈せば、口元に苦笑を携えながらエトアルが振り返る。
夜空色の瞳。
何故だかとてももの悲しい色を秘めている。
ドロシーはひたひたと、無意識に足音を殺しながらエトアルの側に急いだ。
エトアルはやはり、聖女ヒトア像の前から動こうとはせず、再び、彼女の神聖な姿を見上げていた。
法衣を纏い、錫杖を握りしめ、じっと微笑む聖女ヒトア。
こうして彼女の姿を見るのは、二年ぶりだ。
彼女に祈らなくなったその日から、ドロシーは彼女の顔を見ていない。
「聖女ヒトア」
エトアルがぼそりとこぼすように、白く滑らかな石の像の名を呼んだ。
「あの小娘が、こうも崇拝される存在になるとはな」
「そうか、エトアルさんはヒトア様と戦ったんですよね」
「勇者と名乗る愚か者一行とな。まあ、実際に愚か者であったのは我であったが」
「……らしくないくらい悲観的ですね」
「我は愚か者よ。一族を滅ぼした、最後の王であるぞ。それを愚か者と言わずになんと言おう」
エトアルは自嘲する。
ドロシーは何も言えなかった。ただ、背の高い魔王の横に並び立ち、眷属が見上げるのと同じように聖女像を見上げるばかり。
憎いのだろうか。
エトアルを封じた聖なる娘。彼女が魔族の時代に終止符を打ったのは、紛れもない事実である。
だが、それにしては彼の目は――
(何だかとても悲しそう)
ドロシーの知るエトアルは、尊大で、誇り高く、そして得体の知れない男だった。
何を思ってドロシーの旅に同行しているのかも、まだよく分からない。
彼は魔力のため、ひいては自分の命のためにドロシーと時を共にしていると言うが、実際のところはどう思っているのだろう。
こんな落ちこぼれの魔法使いに使役されるような身に貶められ、それをどう思っているのだろう。
ドロシーがヒトア像ではなく、ヒトア像を熱心に見つめる魔王の横顔を眺めていると、不意に、彼の高い鼻がすんと鳴らされた。
「上等なワインの匂い……菫か。どこもかしこも菫ばかりで気が滅入る。主まで冒されるとは」
すんすん、もう一度エトアルは鼻を鳴らす。
ドロシーが身に纏う香気のことを指しているのだろう。
エミリーと入った風呂には、菫から抽出したエッセンスが混ぜられていた。
爽やかで甘い香り。
エトアルはそれを上等なワインと形容した。
「あの娘は花が好きだった。いつも我に語っていたよ、いつか、この世界が美しい花々に包まれる平和な世界になるとな。実際、こうして外の世界を見て回ったが、あの娘が言った世界とはほど遠い」
その語りは、ドロシーに向けたもの、というよりか独白に近いもののようだった。
懐かしむように目を細めたのもつかの間、彼はやはりわびしい色を横顔に宿して「所詮人は人の子か」と一つ息を吐く。
そこでドロシーの頭に大きな疑問符が浮かんだ。
エトアルの独り言は、まるで聖女と時を共にしたかのようなものだった。
聖女ヒトアと、彼女を護る勇者たちと、魔族の戦い。それは両陣営に多大な傷を残す、過酷な戦いだったと語られている。
そのような過酷な戦火の中で、花がどうこうと話せる時間などないように思える。
「……語る? エトアルさんはヒトア様に封じられたんですよね? いったい、どこで語ったんですか?」
「永劫の闇の中で。光もなく、音もなく、ただ無情に時だけが流れゆく世界」
「闇の、中?」
ドロシーがオウム返しに訊ねれば、エトアルの双眸が鋭く細められた。
高い鼻に皺を寄せ、彼は忌々しげに鼻を鳴らした。
「人の子とはじつに残酷な生き物よ。たった一六歳の小娘を生贄に、我を封じる結界を作り出したのよ。我は小娘と永劫の闇に囚われた」
また一つ、こぼすようにエトアルは続ける。
「……ヒトア。かの娘の役目は我の魔力をその魂に封じ込め、我を消し去ること。娘は己の寿命のすべてを、我の魔力を奪うことに充てたのだ」
ドロシーが言葉を失っていると「変わった娘であった」とエトアルは堰を切ったように話し始めた。
「我の魔力をその身に取り込み、我の魔力に苦しみながら、あの娘は外の世界のことを語り続けた。美しい花々のこと、美しい海のこと、美しい夜空のこと、旨い食事のこと、己を慕う人民の笑顔のこと、愛していながら想いを告げられなかった者のこと」
そこで一度言葉を気って、エトアルは深く息を吐く。
「もう二度と見ることの叶わぬ世界の話を、我に……いや、もしかしたら、自分自身に言い聞かせておったのかもしれぬ。まったく、愚かな娘だ。闇の中とは言え、時は無情に流れゆく。娘は老いさらばえ、死が目の前に迫った。それでも、あの娘は我に語り続けたのだ」
エトアルが何故、悲しそうな目をしていたのか、何となく理解した。
彼は彼女との長い時を思い出していたのだ。
(エトアルさんは、もしかしたら……ヒトア様のことを)
ドロシーの妄想めいた推測を打ち消すように、より低くなったエトアルの声が静かな教会に響いた。
「だが、この数日そなたと同行した旅の中でよくよく理解した」
物憂げな彼の双眸が、月のない夜のように暗い落胆の色に染まっていく。
「あの娘が語るほど、世界は美しくない」
「――、そんなことない!」
ドロシーの悲痛な叫びが反響する。
面食らった様子で、エトアルが目を丸くする。
まさかドロシーが叫声を上げるなどとは思いもしなかったのだろう。
「主よ」
「確かに、愚かな人は沢山います。同じ人間なのにお互いを傷つけ合って、同じ人間なのにちょっとした違いを嗤って、石を投げます。沢山の自然を破壊して、燃やして、お金のために人を傷つける人もいます」
つい先日、猫耳三角帽子の魔法使いに襲われたばかりだ。
ドロシーの赤毛を嫌う人間とも会った。笑う同級生もいた。
だけれども、全ての人間がそうだとは限らない。
限らないのだ。
「でも、それだけじゃない。心優しい人はいます。美しい人はいます。リーナもそうです。バーンリー教授も、エミリーやセドリックだってそうです。世界は、そこまで悪くありません」
そして続ける。
真っ直ぐに、夜空色の目を持つ王に向かってはっきりと言う。
「今日の夜空はとても綺麗ですよ。少し欠けた月の穏やかな光を見てください。少しもの悲しい色は、貴方の瞳と同じ色をしています」
ドロシーは彼に降り注ぐ月明かりの元を追った。
埃を被った天窓。その向こうに広がる夜空。
「わたし、夜空が好き」
なんて美しい夜だろう。
「いつも、太陽に隠れてしまっているけど、でも、力一杯輝いている星が好き。沢山の色が混ざった夜の色が好き」
だから、とドロシーは再び魔王を見た。
「お願いします、エトアルさん。どうか、否定しないでください」
「それが主の命令か?」
「命令……、とか、そういうのではなくて……」
エトアルに伝わっただろうか。
途中、熱くなりすぎて、ドロシーは心の内を上手く言葉に出来ないでいた。
彼には失望して欲しくなかったのだ。
ただ、それだけで。
エトアルの青白い手がドロシーの頭に伸びる。
癖の付いた長い赤毛。それを優しく撫でやって、彼は言った。
「主よ、もう床に着け。これ以上の夜更かしは魔力に響くぞ」
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