3-2 ドロシー、聖女との格差に喘ぐ
「お、お風呂だ。凄く広い」
王立第三三魔法学校の寮にもシャワールームはあったが、浴槽に浸かるタイプのものではなかった。
事前に魔石に込められた水魔法を使って水を生成。頭から水を被り、その間に手早く体を洗う、といったシステムである。
【菫園】の風呂場には魔石シャワーはもちろんのこと、バスタブまで完備されていた。沢山の子供たちの入浴を済ませないといけないからか、バスタブはやや広め。
陶器製の浴槽は白く、良く磨かれており、小柄なドロシー二人くらいなら、窮屈でも入れそうなくらいの広さがあった。
湯気が立ち上る中に感じるのは、仄かな甘い香り。
菫の匂いだろうか。
よくよく浴槽内を見てみれば、菫の花弁が浮かんでいる。
(なんてゴージャスなお風呂! マザー・バイオレットが言った通り石けんも揃ってる!)
風呂場には体を洗うための石けんだけでなく、洗髪用の石けんまで準備されていた。
これにはもう感涙ものだった。
ドロシーの髪は長い。
こうして三つ編みを解けば、癖の強い赤毛の毛先はドロシーのふくらはぎにまで到達するほどの長さを誇る。
――石けんも揃えておきましたから、これですっかり綺麗にしてくださいな――
ドロシーの魔法装備を抱えながら、そう告げたマザー・バイオレットの言葉が脳裏に過り心の中で深く感謝した。
(ありがとう、マザー・バイオレット!)
湯気に眼鏡を曇らせながら、ドロシーは湯船に手を差し入れる。
「暖かい……」
丁度良い温度。ドロシーには少しばかり熱めの温度だったが、体を洗っていく内に温くなるだろう。
ウキウキ気分で魔石シャワーを起動。水を被って、軽く汚れを落とし、浴槽内に足を差し入れたところで「ドロシー、ちょっと良いかしら?」と声がかかった。
「マザー・バイオレットに聞いたら、もうお風呂に行ったって聞いて」
「はひっ?! え、エミリー?」
「一緒に入りましょう? 私が背中を流してあげるわ。一人じゃ大変でしょ?」
浴室とドアを隔てるついたての向こう側で、衣擦れの音が聞こえてくる。
エミリーはもう入る気満々のようである。
「え、でも、でも、私が入ると湯船が汚くなるよ。エミリーは、エミリーで新しいお湯に入った方が……」
ドロシーは一週間以上、体を洗っていないのだ。
その体で湯船に入って汚れを落とせば、あっという間にこの綺麗な菫風呂も見るに堪えない汚水と化すだろうに。
「気にしないよ。私も随分と汚れているしね。二人で一緒に綺麗になりましょ? 長く旅をしていると、お風呂のありがたみが身に染みるわよねぇ」
ついたての向こう側から、彼女は姿を見せた。
ドロシーはとっさに装着していた眼鏡をおでこの方に押しやった。
これは直視してはいけない、とドロシーの本能が訴えている。
「どうかしたの? 眼鏡ないと前が見えにくいんじゃない?」
くすくす、とドロシーの奇行を笑うエミリー。
彼女はドロシーのぼやけた視界の中で魔石シャワーの側までひたひたと進むと、そのまま水を被った。
(格差……)
ドロシーは脱力しながら浴槽に半身を沈めた。
ほんの一瞬見えた、エミリーの体。その体が瞼に焼き付いている。
(とんでもない格差を感じる)
リーナは人形みたいな美少女だったが、胸の格差は大差なかった。ドロシーとはどんぐりの背比べといった具合。
しかし、エミリーは豊かである。豊満である。ドロシーとリーナが小ぶりなリンゴなら、エミリーは大きなメロンが二つひっついているといった具合。いや瓜か。よく育った巨大な瓜が二つ付いている。
圧倒的な質量による敗北感を、ドロシーは噛みしめていた。
むっちりとした女性的な体つき。
小柄で子供っぽいドロシーからすると、その体型は羨ましいものがある。
「瓜……」
「瓜? 瓜でも食べたい? この時期あったからしら……」
「食べるなんて滅相もないです!」
「?」
「えと、ううん、な、なんでもない。わたし、早速、髪の毛とか洗っちゃおうかな」
バスタブに入ってきたエミリーの、水平線にこんもりと浮かぶ頭の双子の瓜が、ぼやけた視界にもはっきりと映り込んだので、逃げるように浴槽を出た。
バスルームに置いてあった籐の椅子に腰掛けると、眼鏡をかけ直し、石けんを手に取る。
濡れた手の中で石けんを転がして泡立てると、それを体中に塗りつけた。
足の指の股から、首の縁までしっかりと入念に。それから、ボディブラシで固くなった皮膚をこそぎ落とすように擦っていく。
(うーん、流石に汚いな。湯船で擦る前にエミリーが来て良かった)
ぼろぼろと角質が落ちていく感覚。少し入らないだけでこれだ。
あのままエミリーが来る前に湯船で擦っていたら、悲惨なことになっていただろう。
まったく、人間の体とは面倒な仕組みになっていると思う。
体の隅々まで擦っていると「背中擦ろうか?」とエミリーが訊ねてくる。
「だ、大丈夫。このブラシ、柄が長いから届くし!」
「そう? 助けが必要だったら言ってね」
それから体を洗い終え、魔石シャワーで流してから、次は髪の毛にとりかかる。
これが一番の問題。なにより長さと質量がある。
「それだけ長いと、髪の毛を洗うのも大変そうね」
「う、うん。いつも凄く時間がかかって。洗うのも、乾かすのも」
「あ、洗髪用の石けんはいくらでも使って良いわよ。遠慮しないで。ドロシーは私たちの英雄なんだから」
「え、英雄とか、言い過ぎだよ。あれはエトアルさんが戦ってくれたら」
「でも、貴方がいなかったら、ユニコーンは法力を失って、朽ち果てていたかもしれないわ。貴方の勇気が、私たちを救ってくれたの」
「……でも、不思議だよね。ユニコーンはどうしてわたしの言葉を聞いてくれたのかな。法力だって……わたし、魔法使いなのに」
魔力と法力は相性が悪い。
血と肉に宿る魔力。
高潔な魂に宿る法力。
そのどちらもを兼ね備えている人間はいない。
聞いたこともない。
ドロシーは魔力を持っている。それも軍のお眼鏡に適う、ギリギリの(エトアルは違うと言ったが)魔力だ。
法力に関しては調べたことがないので分からないが――魔力を行使する魔法使いである以上、ドロシーが法力を使えるはずがないのだ。
そもそも、法力は魂の力。高潔な精神力を持つ人間にのみ行使出来る力なのだ。
その高潔な精神力を磨くためには、自己犠牲と利他的行動を美徳とするヒトア教で厳しい修行をせねばならない。
「貴方の純粋な思いが届いた、としか考えられないわ。聖女様のご加護ね」
ふう、と溜息。
暖かい湯船に浸かって、エミリーは随分とリラックスしているようだった。
「それにしても、見事な赤髪ね。あんなに大変な旅だったのに、ドロシーの髪はつやつやで、とっても綺麗。こんなに長く伸ばすの大変だったでしょ? 三つ編みにしてもふくらはぎ近くまであるわよね?」
「うん、大変だったよ。切ろうとしてくる悪い人もいたし」
マザー・ローズの顔を思い出し、ドロシーはすぐに首を振ってあの狸女の顔を忘れることにした。
今はこの菫の良い香りに浸っているべきだ。
ドロシーは洗髪用石けんを手の中で泡立てると、その泡を髪に馴染ませていく。
泡が髪全体に広がるまで、その工程を繰り返していく。
「聞いてもいいかしら? どうして伸ばしているの? ほら、……赤毛は大変でしょ? ここの孤児院の子にもいたでしょ? 短く切って、目立たなくしている子。それだけ伸ばしていると、ドロシーが言ったみたいに悪戯してくる人もいたと思うのに」
王国においてマイノリティである赤毛はとにかく目立つ。
だからこそ、ドロシーのように赤毛を伸ばす帝国系王国人は少なかった。
最初の町でドロシーの髪を引き掴んだ、あの酔っ払いのような男に絡まれるのが目に見えている。
だからこそ、自衛のために髪を短くするのだ。不用意に問題を招かないために。
髪を短くして帽子を目深に被れば、帝国系だとは容易に見抜かれないから。
だが、ドロシーはそうしなかった。
「……わたし、【花の子供たち】でしょ? 本当のパパとママが世界のどこかにいる。わたしが赤い髪の子供だってことは、少なくともママは知ってるだろうから」
どちらが帝国系の人間だったのか、どちらも帝国系だったのか、それとも帝国人そのものだったのか。
いずれにせよ、我が子の髪の色を知らない母親はいないだろう。
「だから、目立つように伸ばしたの。わたしはここにいるって、目立たせたくて。わたしの髪のこと、とやかく言う人は多いけど。でも、これがわたしなの。わたしの、髪なの。わたしと、パパとママを繋ぐ大事なものだし……親友も、この髪の色が好きだって言ってくれたの。だから切りたくないんだ」
マザー・ローズが何度となくドロシーの髪を馬鹿にしてきたが、その言葉を気にしていたのも最初の数年だけだ。
ドロシーの髪はドロシーのもの。どうするかはドロシーが決めること。他者の意見に左右されてはならないのだ。
この髪を嫌うことも、この髪を愛することも、それはドロシー次第だ。
何より、この髪を切ることは、両親との繋がりを断ち切ることに繋がるような気がした。
「旅に出たのも、海に行きたいって漠然としたものだったけど、ちょっとだけね、期待してるんだ。わたしの赤毛を見て、パパとママのどちらかが気付いてくれたらって」
ドロシーは魔石シャワーを起動した。
すっかり泡だらけになった髪を水で流していく。
「……ドロシーは強いね。だから、立派な魔女になれたのかしら」
ざばりと湯船から水音が響いたかと思えば、温い指の感触がドロシーの剥き出しの肩に触れる。
「ひゃっ!」
「はい、すっかり綺麗になったわね。交代して、次は私が洗う番よ」
濡れそぼった髪を絞って、ひとまとめにすると。髪が湯船に浸からないように気を配りながら、ドロシーはエミリーが入っていた湯船の中に足を入れた。
代わりに今度はエミリーが籐の椅子に腰掛ける。
それから久しぶりに眼鏡をかけ直し、ドロシーは息を呑んだ。
ドロシーの面前に広がるのは、魔石シャワーを浴びるエミリーの背中である。
「……その痕」
思わず、ドロシーは口にしていた。
エミリーの背中には大きな火傷の痕があったのだ。
白い皮膚の上に広がる黒ずんだ痕。
「ドロシーが話してくれたから、私も話すわ。私ね、スラムの出身なの」
「……スラム」
「リキノトは大きな街。大教会もあるけど、救いの手が全ての人のところに行くわけじゃない。私が産まれたのが、戦争が終わる二年前。誰がお母さんなのかも私は知らないし、覚えてもいないけど」
エミリーが石けんを泡立てて、その泡を体に塗りたくり始める。
彼女はごく普通の、いつもの調子で話し続けた。
「物心ついた時には、私とセドリックは二人一緒だった。スラムで何とか日々を過ごしてた子供なの。ゴミを漁って、何とか食いつないでた。今と比べたら、本当に酷い毎日だった。誰も助けてくれなくて……」
エミリーの手が自分を抱くようにして回される。
華奢な指先が、彼女の柔らかそうな皮膚に埋められた。
「この傷はね、その時に付けられたものなの。ゴミを漁っていたセドリックに大人が熱湯を浴びせようとして、とっさに庇って」
「そんな、酷いこと……」
「……セドリックは私の弟よ。もちろん、血は繋がってないけどね。気が付いたら一緒にいて、それから今日までずっと一緒だった。聖者になるのも一緒だなんて、思いもしなかったけど」
ふふ、とエミリーは小さく笑声を上げた。
彼は度々エミリーのことを姉ちゃん、と呼んでいた。実の姉に呼びかけるように。
ただ、彼の風貌とエミリーの風貌は似ても似つかない。髪の色も、目の色も何もかも。
だからきっと、その呼び方は孤児院時代を共にした名残なのだろうとドロシーは勝手に解釈していたが。
二人の結びつきは、ドロシーが想像するものを遙かに超えていた。
「お義父さまが、私たちを聖者候補にって推してくれた時は、そんな夢みたいなことがあるのかって驚いたわ」
「お義父さま?」
「私たちを救ってくれたファーザー・バイオレット。一〇年前まではマザー・バイオレットと一緒にこの【菫園】を取り仕切っていたお方よ。【菫園】のお隣に小さな教会があったのは見たかしら? あそこの司祭様でもあったの。今は【菫大教会】が担う教区を管理する司教さまなのだけど」
これまた凄まじい人物の名前が飛び出して来たとドロシーは驚いた。
司教。
王国内の一二ある教区の一つを担う、聖職者。聖職者たちの階位の中でも、上から三番目に位置する高位の人物である。
広大な王国のすべての信者を管理するのは難しい。
ゆえにルクグ王国のヒトア教は一二の大教会と一二の教区を作り、一二の司教たちに信者たちの管理を任せることにしたのである。
一二の教区には、それぞれ聖女ヒトアが愛した花の名が付けられている。
薔薇、菫、百合、向日葵……といった具合に。
そしてその教区内に点在する、孤児院や教会にもそれぞれ花の名が付けられた。
エミリーの言う、ファーザー・バイオレットこと、菫司教はその一二の教区の一つを取り仕切る、偉大な聖職者であるということだ。
「彼は傷ついた私たちを見つけて、この【菫園】に連れてきてくれた。都会のやさぐれた夜じゃなくて、小さな農村の昼に私たちを連れてくれたのよ。彼は私の命の恩人。ドロシーと同じね」
すっかり体を洗い終えたエミリーが、水を被って振り向いた。
琥珀色の澄んだ瞳が、何かを願うように細められる。
「それでね、ドロシー。私、彼に貴方を紹介したいの。私たち兄姉は貴方に救われた。そのことを報告したいの」
「し、司教様に、ですか?」
「ええ、難しいかしら? リキノトまで道は一緒でしょ? オリエッタのこともあるし……私たちには力強い傭兵が必要なの。もし、代金が必要だったら、後々、リキノトに着いてから支払うから……」
確かに、オリエッタのことは心配だった。
リキノトまでそう離れていないと言っても、いつ、彼女と彼女の仲間たちが襲ってくるかも分からないのだ。
「ドロシーの旅は急ぎの旅なの? すぐにでも【星鳴きの砂浜】に行かないと駄目?」
「急ぎというわけじゃないけど、わたしは魔法使いで、法力の世界にはあんまり合わないんじゃないかと思って。今も、ちょっとだけエトアルさんが心配なんだ。食卓じゃ平気そうにしていたけど、……辛いんじゃ無いかって」
「不思議ね」
「え?」
「オリエッタ以外の魔法使いにも何度かあったことがあるわ。使い魔持ちの、元軍人の傭兵とかね。その中で、自分の使い魔にへりくだっている魔法使いは一人としていなかったわ」
「それは……えっと」
流石に彼が魔王であるとは言えない。
よりにもよって聖女ヒトアを信仰する教徒には。
「エトアルさんは強いから。わたしの実力には見合わないくらいに」
エトアルは本気ではない、とドロシーは考えている。
彼はドロシーの魔力が枯渇することを恐れて、思うとおりに戦えていなかった。
それは先のオリエッタとの戦いではっきりとした。
そんな彼の体力を無益に消耗することは、なるたけ避けたいものだ。
「それに、わたしも何度も彼に命を救われているしね」
ドロシーは首元まで湯船に浸かった。
「司教に会うかどうかはエトアルさんに訊いてみて、話はそれから、かな」
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