2-8 ドロシー、聖獣を救う



 にゃははは、そんな人を馬鹿にしたような笑声が濃霧の中を通り抜ける。


 魔女オリエッタ。彼女はセドリックの腹に突き刺さった短剣を、まるでフルーツの盛り合わせに突き刺さったフォークを抜き取るような仕草で引き抜いた。


 う、とセドリックの苦しげな声と共に、彼が身につける菫色の法衣が赤く染まり始める。


「にゃは、ここまでずっとタイミングを見計らってきたんだよ。神皇国じゃ、どーしても魔法は使えないからねぇ」


「そんなっ、オリエッタ。貴方は【菫教会】を発った日からずっと一緒だったじゃないっ! どうして、こんな酷いことを……!」


「ごめんねぇ、聖女さまぁ。うち、お金第一主義なのよん」


 そう言って、絶望に打ちひしがれるエミリーに向かって、オリエッタは可愛らしくウインクしてみせた。


「ね、赤毛ちゃん。商談しない? うち、そこらの野良魔法使いと違って、傭兵歴長いんだよね。だから分かるよ。赤毛ちゃん、アンタ見た目にそぐわず相当な魔法使いでしょ。こんな凄い魔獣を使い魔にしちゃってんだもん」


 オリエッタの目が鋭くなる。


 氷柱が突き刺さったかのように、ドロシーの心臓は急速に冷えた。


 彼女の言葉は本物だ。

 歴戦の傭兵。人を殺すことを厭わない、本物の魔女だ。


「昨日戦ってすぐに分かった。アンタの魔獣は普通じゃない。本当なら、戦って、死ぬか生きるか、瀬戸際の戦いってのをやりたいんだけどさ。でも、それで仕事が失敗しちゃったら怒られちゃうし?」


 そう言って、オリエッタはその扇情的に改造したローブの胸元から、革袋を取り出した。


「だから、ほら」


 じゃらん、と手の中で革袋をもてあそび、オリエッタは笑う。


「ここに一〇〇万レラある。その聖女、うちに売ってくれない? アンタも無駄に魔力消費したくないでしょ? こんな赤の他人を見捨てるだけで、一〇〇万レラも貰えるなんて幸運、そうそうないよん?」


 とんでもない額だ。


 ドロシーが(というよりはエトアルが)最初の町で捕まえた元魔人は、五〇万レラ。その二倍の額をオリエッタは提示しているのだ。


 だが、ドロシーは首を振った。


「ふざけないでください! そんなお金で、人の命を売り買いするだなんて!」


 断固拒否だ。


 たとえ、この場で戦うことになろうとも、ドロシーは決してエミリーを売りはしない。


 この場にエトアルが居なくとも、ドロシーはこの選択肢を選んだはずだ。


「エトアルさんっ!」


「……仕方あるまい。主よ、魔力を拝借するっ! 倒れるでないぞ!」


 ドロシーの肩から夜鷹が飛び立つ。

 次の瞬間には、夜鷹は美しき夜の瞳を持つ魔王となっていた。


「にゃは、交渉決裂ってわけ!」


 革袋を胸元にしまうと、オリエッタはその左手を虚空に掲げた。


 光が彼女の手に灯る。


「おいで、ぶちちゃん! コイツを燃やし尽くすんだにゃっ!」


 ――まああああああああおおおおおおおおおうううううっっ!


 そんな猫の鳴き声が、光より轟いた。


 光より出でるのは、タイタンと同じほどの巨躯を誇る巨大なぶち猫。二股に分かれた尾を揺らしながら、金色の目でドロシーとエトアルを見下ろしている。


 ――なあああああああん。


 巨大な猫が鳴くと、ミルク色の濃霧の中に青白い炎が灯った。


 ぽ、ぽ、ぽ、と穏やかに灯る炎は、本の中に登場する人魂のようである。


「火車か」


「かしゃ?」


「東方の魔獣よ。死者を食らう化け猫だ」


 そう言って、エトアルはぶくぶくと丸い巨躯を見上げて笑った。


「しかしよく肥え太った猫である。どれほどの死者を食らってきたのだろうな」


「にゃは、鳥は猫の大好物よん! 大人しく食われなっ――!」


 オリエッタが火車に指示を出すよう、猫耳を取り付けた杖を振るえば、火車が牙を剥き出しにして飛びかかってくる。


 青白い炎が火車に続き、エトアルを焼こうと襲い来る。


 重い火車の一撃を軽い身のこなしで躱すと、次に降り注ぐ火の球をエトアルは外套で防御する。元魔人の《火球》をいなした時のように、人魂めいた青い炎は外套の上で弾けて消えた。


「エトアルさん、火車じゃなくて、オリエッタさんを」


「分かっておる!」


 流石は使い魔王。主であるドロシーの思惑など、彼には筒抜けのようだった。


 そうだ、今、狙うのは火車ではない。


 火球の鋭い爪を、草地を滑ることで避けると、エトアルは大跳躍。


 その手を掲げ、魔力を集める。次第に形になっていくのは、夜よりも深い闇の大鎌。それを振りかぶって、オリエッタ目がけて振り下ろす。


「にゃんとお見事っ!」


 黄色い声を上げたオリエッタが、後方へと飛び退く。


 大鎌の切っ先は、大地を抉るだけだった。


 再び放たれるのは、エトアルを狙った火車の前腕の一撃、エトアルはそれを回避し、さらにオリエッタと距離を詰める。


 次いで、放たれる火の球を大鎌で弾き落とす。


(よし、これでセドリックと距離が開いた!)


 ドロシーは、事態を飲み込めずに呆然としているエミリーに向かって目配せをした。


 彼女が絶望と涙に濡れた琥珀色の視線とドロシーの視線が交錯する。


 ドロシーは強く頷くと、今度は四肢を投げ出して倒れるセドリックの方を見た。


 ここでやっと、彼女もどういう意図でドロシーが視線を送ったのか理解したようだった。


 虚ろな瞳に光が宿る。


 なぜ、火車ではなく、オリエッタ本人を狙ったか。


 それはセドリックから距離を取らせるためだ。


 今、セドリックを救えるのはエミリーだけだ。彼女の祈りだけが、彼を死の淵から引き上げることができる。


 側に火車やオリエッタ本人がいては、祈りを捧げることなど不可能だ。


「セドリック!」


 エミリーが駆け出す。

 ドロシーも彼女に続く。


 セドリックから流れ出た血潮が、小さな池となってヒトト山の地面に広がっていた。


 菫色の法衣が血で汚れることも構わずに、エミリーが祈りを捧げ始める。


 清らかな光がエミリーとセドリックを包み込む。


「にゃははは! 同じ魔女だからわかるよん。使い魔を使役してるときほど、無防備なことはないってねっ!」


 濃霧を切り裂いて聞こえるのは、オリエッタの嘲る声。


「野郎共、出ておいで! 今が好機だにゃんっ!」


 がささ。

 茂る低木の枝葉が擦れ合う音。


 ぞわりと肌が粟立った。

 今まで感じなかった悪意が、一斉にドロシーたちへ向けられる。

 その恐怖に体が震えている。


 ――オリエッタには仲間がいたのだ。


「残念でした、ハンサムさん。アンタの主は今とっても無防備よん!」


 そう言ってオリエッタは笑う。


「地獄の業火で焼かれな赤毛ちゃんっ!」


「主! ――くっ……!」


 エトアルがドロシーの元へ戻ろうとするが、それを火車が許さない。


 ずずん、火車の鋭い爪の一撃が、青々と茂る木を手折るようにしてなぎ倒す。


 その轟音に紛れるようにして、ミルク色の闇の方々から聞こえるのは早口に捲し立てられる呪文である。

 それは《業火》の呪文。《火球》の上位互換。


 燃えさかる炎で全てを消し炭にする魔法。それが複数の魔法使いの手によって放たれるのだ。


 それが意味するのはすなわち、死。


「エミリー!」


 ドロシーはとっさにエミリーに覆い被さっていた。


 伏せたところで、火から二人を庇うことは難しいだろうけれども。


 囂々と、空気を焼く炎が、ヒトト山の自然を焼く炎がドロシーへと迫り――


 そして、見えざる腕によって阻まれた。


 清らかな壁が、ガラス細工のように透き通った巨人が、ドロシーとエミリー、そしてセドリックを護るように伏せている。


 めらめらと燃えさかる炎が、巨人の背中の向こうで踊っている。


「、た、タイタン、よく、やった。姉ちゃん、と、ドロシーを、護れ……」


 口から血の泡を弾かせながら、セドリックが呟く。


「セドリック、無理しちゃ駄目っ、死んじゃうわっ!」


 ぼろぼろと涙をこぼしながら、ドロシーがタイタンの防護壁の中で体を起こす。


 途中となった祈りの言葉を震える唇で紡ぎながら、彼女は祈り始める。


「ありゃ、まだ動けたかー、心臓狙ったつもりだったんだけどねえ」


 にゃは、とオリエッタは笑う。


「猫女、これ以上は許さぬぞっ!」


「あーん、ハンサムさん。もっとうちを見てよぅ! 飼い主が心配なの? 全然当たんないわよ! ほら、ぶちちゃん、やっちまいなっ!」


 巨大な化け猫の威嚇の声が木霊する。


 エトアルはドロシーが気になって本気で戦えていないようだ。戻ろうにも、魔女と火車、二つの攻撃がそれの邪魔をする。


 タイタンが《業火》からドロシーたちを護ってくれた。


 しかし、次は上手くいくだろうか。セドリックは虫の息。次もタイタンを動かせるかも分からない。


 そして、相手の数は不明だ。濃霧の中に潜む魔法使いは何人いる?


 次なる呪文の声もドロシーの耳に届いている。


 一度は護ってくれた、だが、二度目はどうだ?


 守り切ることは出来るか?


 ドロシーは周囲を見渡した。

 濃霧。ミルク色の闇。


 その中でもがく影。


 今にも事切れてしまいそうなほどに、弱り切った陶器の聖獣がそこにいる。


 あの魔石を取りさえすれば、ユニコーンを解放できるはずだ。


 ドロシーは次の魔法が繰り出される寸前、タイタンの腕の隙間からするりと抜け出した。


 そして一目散に駆ける。駆ける。駆ける。


「ドロシーっ……!?」


 エミリーが息を飲む声がする。


 ドロシーのすぐ後ろを、雷が落ちた。文字通り雷を落とす《落雷》の魔法だ。


 だがドロシーは臆さない。


 ドロシーの目には、豪奢な彩りで我が身を飾る聖獣しか見えなかった。


「お願い、ユニコーン。わたしに力を貸して!」


 ドロシーは手を伸ばす。


 黒い石。聖獣を苦しめていた魔石に触れて、それをむしり取る。


 背後に雷が迫っていた。

 轟く雷鳴。視界一面を白に塗りつぶす稲光。


「主!」


 エトアルの声が遠くに聞こえ、そして――


 美しき旋律が、美しきベルの音が木々の合間を突き抜けていった。

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