2-9 ドロシー、猫の魔女を撃退する



 ――おおおおおおおおおおおおおっ!


 それは気高い聖獣ユニコーンのいななきである。


 先ほどまで滅茶苦茶に打ち鳴らされていたベルの音が、今は心地良い旋律となってドロシーの胸の中に広がっている。


「ユニコーン」


 ドロシーはその陶器の聖獣の横顔に触れながら、そっと囁いた。


「お願い、貴方のご主人様を、皆を、エトアルさんを助けて」


 陶器の目に光が宿る。

 最早、この聖獣ユニコーンを苦しめる魔石はない。


 神々しいいななきを上げると、ユニコーンは猛々しく前足を振り上げた。


 天を突かんと伸びる角に、光が収束する。


「野郎共、さっさとあの赤毛をぶち殺せ!」


 焦りの色が見えるオリエッタの指令がかかると同時に、濃霧に隠れる魔法使いたちが一斉に魔法を展開し始める。


 しかしもう遅い。


 すでにユニコーンの法力は奇跡となって顕現しようとしていた。


 ユニコーンの、花の意匠が施された前足が大地を踏み抜いた刹那、天へと放たれる法力。濃霧を切り裂き打ち上がった光の柱は、一定の高度に達すると、音もなく弾けた。


 弾けた光は方々へと弧を描き、ヒトト山の雄大な森の中へと目まぐるしい速度で突き立った。


「わあ」だとか「うわ」だとか、その光に襲われたであろう魔法使いたちの悲鳴が断続的に聞こえてくる。


 彼らが唱えていた呪文は途切れ、今まさに形になろうとしていた魔力が霧散する。


 その隙を突いて、ドロシーはユニコーンと共にエミリーたちの側へと駆け寄った。


「エミリー! 大丈夫だった?」


「ドロシー、信じられないわ。ユニコーンが奇跡を起こすなんて……私の法力はもう底を尽きかけていたのに……」


 目元を赤くしたエミリーは、あそこまで衰弱していたユニコーンがこうも元気に走っていることが信じられないという様子で首を振っていた。


 確かに、ドロシーもユニコーンがここまで余力を残しているとは思わなかった。


「ううん、そんなことより、セドリック。大丈夫? 痛みはない?」


「姉ちゃん、ありがとう。大分、楽になってきた」


「良かった……セドリックは何とかなったみたいで」


 顔色はまだ土色をしていたが、セドリックの命は何とかつなぎ止めることが出来たようだ。


 彼の胸に空いていた裂傷は、まだ痛々しい姿をさらしていたが、エミリーの癒やしの祈りによって出血は止まったようである。


 きりっとした黒い眉の合間に、苦しげな谷間を作りながらセドリックは上体を起こす。


「セドリック! まだ、動いちゃ駄目よ」


「いや、今しかチャンスはない。俺たちの聖獣で、ドロシーの使い魔を助けるんだ。今に次の攻撃が来る」


 セドリックの言葉通り、ユニコーンの攻撃は魔法使いたちを完全に無力化したわけではなかった。


 方々から聞こえて来る呪文が、その事実を裏付けている。


 エミリーが陶器製の聖獣をじっと見上げる。


 そして何かを感じ取ったように強く頷いた。それから、滑らかなユニコーンの頬を優しく撫でる。


「ユニコーン……そう、分かったわ」


「エミリー、どうしたの?」


「ドロシー、セドリックの傷は塞がっているけど完全じゃない。タイタンを操るには、まだ祈りが不完全なの」


 そう言って、彼女はセドリックの傍らに膝を突き直すと、真っ直ぐにドロシーを見つめ微笑んだ。


「だから、ドロシー、ユニコーンを貴方に託すわ」


「――ええ?! でも、わたしは魔法使いで、法力は全然……神様に祈ったこともほとんどないのに!」


 ヒトア教系統の孤児院にいて、ある程度の知識は持っていたが、ドロシーは聖職者としての修行をしたこともない。そもそも、マザー・ローズのこともあって、ドロシーはヒトア教に懐疑的だった。


 そんなドロシーがユニコーンを操るだなんて。


 だがエミリーは何か確信めいた表情で、ドロシーに言った。


「大丈夫、これもヒトア様の思し召しだわ。さっきの《神の鉄槌》も、ドロシーの祈りによって引き起こされた奇跡。大丈夫、貴方なら出来る」


「次の攻撃が来る! 俺がタイタンで皆を護る! ドロシー、君に全てを託す!」


 セドリックがガラス細工の巨人に指示を出す。巨人の腕が、皆を護るように大きく広げられた。同時に、結界めいた薄い膜が周囲を包み始めた。


 堅牢潔癖な、セドリックの法力が生み出す結界だ。


 彼が消耗していることもあって、その結界は実に頼りなかったが。


(そんな無茶苦茶な!)


 ドロシーは内心叫んでいた。

 だが、もう時間は無い。

 呪文はもう完成する。ドロシーはやるしかない。


 このやり取りの間にも、エトアルとオリエッタ率いる火車の戦いは続いているようだった。


 少し離れた濃霧の中を飛び回る影。振り払われる夜色の鎌。猫の叫び。オリエッタの嬉々とした声。立ち上る青い火柱。


 そうだ、エトアルを助けるためにも、ドロシーがやらねばならない。


 エトアルは明らかにドロシーの消耗を恐れて、後手に回っている。より強い魔法を使うことも出来なければ、脅威的な身体能力でオリエッタを追い詰めることも出来ないのだ。


(ええい、ままよ!)


「ユニコーン!」


 ドロシーは高らかに聖獣の名を呼んだ。

 甲高いハンドベルのいななきが、轟く。


「もう一度、力を貸して!」


 光が、先ほどよりもその勢いを増した光の柱が、ユニコーンの角より立ち上る。


 方々より放たれるのは火だ、雷だ、凍てつく氷の息吹だ。魔法使いたちの渾身の魔力が、一斉に襲い来る。


 それら全てをセドリックとタイタンが受け止め、エミリーがそんな彼を支え、そして――天より光が落ちた。


 弾けた光は、今度は雨のように降り注ぐ。


 次に上がるのは悲鳴だ。

 濃霧に紛れ、姿を消した姑息な魔法使いたちの怯える声だ。


 杖を放った者もいるのだろう。固く乾いた音があちこちから聞こえて来る。

 そして次に聞こえたのは、巨大な猫のもの悲しい鳴き声だ。


 なぁん、なぁん、と苦しげに鳴いている。


「ぶ、ぶちちゃんがっ……! にゃ、にゃんとういうこと?」


 濃霧の中より転がり出でるのは、猫耳三角帽子の女魔法使い。


 驚愕に目を大きく広げた彼女の視線の先には、光で体毛を焦がされ悶える巨大な化け猫の姿があった。


 火車はユニコーンの光の雨を受けてしまったようだ。白い体毛が焼け焦げ、ぶち模様がさらに増えている。


 分厚い被毛のおかげで本体へのダメージはさほど入っていない様子ではあったものの、二股に分かれた尻尾を内股に挟んで、火車はすっかり怯えてしまっている様子。


 呆然と立ち尽くすオリエッタの首に触れるのは、夜色の鎌。

 魔王エトアルの大鎌だ。


「しまったっ……!」


「して、どうする猫女。聖獣は二体とも自由となり、聖人は復活したようであるが?」


「ぐ、ぐぬぬ。混沌の魔石を外すのはまだしも、聖獣を従えるなんて……聖獣の法力にあてられて平気なヤツはおろか、操る魔女なんて聞いたことないよん!?」


 ぎりり、とオリエッタは悔しげに歯を食いしばり「ドロシー」と、忌々しげに名を呼んだ。


「赤毛ちゃんは、うちが思う以上に出来る魔女みたい? ちょっと分が悪いかもね。……ひとまず退散っ! 野郎共、撤退! 撤退!」


 声高々に叫ぶと同時、彼女は地面に目がけて何かを投げつけた。


 多分、それは魔力を込めた魔石か何かだったのだろう。


 閃光と轟音がドロシーの目と耳の機能を奪った。


「猫女は逃げたようであるな」


 ドロシーの視覚と聴覚が戻った時には、すでにオリエッタの姿はなかった。彼女の使い魔である火車の姿もだ。


 おそらく、彼女が従えていたであろう魔法使いたちも、尻尾を巻いて逃げたのだろう。


 残されたのは、二人の聖者と、彼らに付き従う聖獣、一人の魔王、それからドロシーだけだった。


「た、助かったのか……」


 セドリックが脱力した様子で生々しい血の絨毯の上に体を横たえる。

 ドロシーがほっと安堵の溜息を吐いたところで「ドロシー!」エミリーの両手に絡め取られた。


「凄いわ! 貴方、ユニコーンに認められたのね」


「み、認められる?」


 ゴム鞠みたいな弾力のある胸に気道を圧迫されながら、ドロシーは息も絶え絶えに訊ねる。


 ドロシーが今にも窒息しそうなことに気づきもしないで、エミリーはますます強くドロシーを抱きすくめる。


 エミリーの代わりに答えてくれたのは、ミルク色も晴れた春の空を見上げるセドリックだった。


「今でも信じられない、巡礼の旅も司教たちの試練も受けていない魔女が……ユニコーンを操れるなんてな……」


「あ、操ったというか、お願いしただけです。多分ユニコーンも、エミリーを護りたかったんだと思うよ」


 まだエミリーはドロシーを解放してくれない。


「聖獣は心なき人工の獣。聖者の清らかな意思にのみ、従う神聖物。あの時のユニコーンの動きは、明らかにドロシーの意志に従ったものだ」


「……細かいことはもう良いわ。私たちは助かったのよ、ドロシーのおかげで。オリエッタも居なくなったしね。さ、早く、山を下りましょう!」


 そこでやっとドロシーを解放してくれた。

 げほ、と小さく咳をして、ドロシーは涼やかなヒトト山の空気を肺一杯に吸い込んだ。


 そうする間にも霧が晴れていく。尻尾を巻いて逃げた魔法使いのように、じわじわとドロシーたちから逃げるように霧散していく。


 そうしてはっきりと姿を見せるのは綺麗な春の空。太陽の位置はやや高い。


「……もしかして」


 ドロシーははっとして、腰に下げたポーチからコンパスを引っ張り出した。

 赤く塗られた指針が一点の方角を指している。


「やっぱり! コンパスの針が戻ってます。多分、オリエッタさんとその仲間たちが、方位を狂わせていたんだ」


「おそらく、あの霧も連中が仕掛けたものなのだろうな」


 エトアルがぼそりと呟く。

 すでに彼は省エネルギーモードこと、夜鷹の姿に変貌していた。


 ドロシーの包帯を巻いた翼を毛繕いする彼は、立ち去った魔法使いたちにはもう興味がないように思えた。


 彼の夜空色の眼差しは、大地に長い手足を投げ出す聖人と、その聖人を抱き起こそうとする聖女に向けられていた。


 エトアルの無警戒な様子を見るに、本当にオリエッタと彼女が率いる魔法使いたちは近辺から姿を消してしまったようだ。


「魔石でユニコーンを暴走させ、二人を引き離す。その間に各個撃破と考えでもしていたのだろうな」


「そう思うと、早く合流出来て良かったですね」


「主のお人好しが二人を救ったというわけだ」


 あと少し、セドリックとの合流が遅れていたら、いったいどうなっていたことか。


 おそらく、セドリックはオリエッタに殺され、エミリーもただでは済まなかったことは間違いない。あの黒妖犬だって、オリエッタが用意したものの可能性だってある。


(でも、どうしてオリエッタさんは二人の命を狙って……?)


 疑問が残るが、考えたところで分かりようがない。犯人はすでに逃走してしまっていたし、何より被害者二人はすでに移動の準備を終えている。考えるのは道中でも良いだろう。


「ドロシー! 貴方も一緒に行きましょう! 【星鳴きの砂浜】まで道は一緒だわ」


「うん、でもちょっと待って」


「主?」


 エトアルが翼を羽ばたかせ、ドロシーの肩に留まる。


 ドロシーの視線の先には、ユニコーンが落とした光の柱によって焦げた草むらの姿があった。


 確か、ドロシーはあの辺りでユニコーンを苦しめる魔石をむしり取ったのだ。


 だとしたら、あの辺りに、あの石は落ちているはず。


 ドロシーはやや駆け足にその草むらに向かうと、そこを掻き分ける。


(やっぱりあった!)


 予想通り、そこにはあのどす黒い石が転がっていた。


 見ているだけで不快な気分になってくる、悪意の塊のような石。


 ただの魔力が込められただけの石とは到底思えない。


 ドロシーは腰のポーチからハンカチを取り出すと、その石に直接触れないように気を付けながら取り上げる。


「例の魔石か」


「はい、一応持って行こうかと。オリエッタさんは逃げちゃいましたけど、また襲ってこないとも限りませんしね。何かあったとき、役に立つかもしれません」


 ハンカチに越しに触れていても、あまり良い気分はしない。


 夏の、じっとりとした夜に感じる憂鬱感にも似た、不快感。


 ユニコーンが暴れるのも納得だ。こんな石、魔法使いの端くれであるドロシーでも触れていたくない。


「ふむ」


「エトアルさん、何か感じますか? ……魔王の勘というかそういうのがあったり?」


「あまり良いものではないことは確かだ。ドロシー、取り扱いには重々気を付けろ。人の悪意と我は称したが……これは……」


 エトアルが何か言いかけたところで「ドロシー! 何をしているの?」エミリーの声が背中に突き立った。


「ごめん、今行くよ!」


 手早くハンカチでくるんで、ドロシーはポーチに魔石を放り込んだ。


 それから、すでに行き先を見定めている二人の聖者と二体の聖獣の元に急ぐ。


「ドロシー、私たち凄く運が良いわ! ほら、見て、ここヒトト山道よ!」


「ヒトア様の祝福か。本当に運が良い」


「ええ、試練を乗り越えた私たちに、ヒトア様が褒美をくださったのね。祝福に違いないわ。すぐに山道に戻れるなんて――」


 菫の花冠を被る、二人の聖者が口々に偉大な聖女に向けた感謝の言葉を口にした。


 すっかり濃霧も晴れて、見通しの良くなったヒトト山。


 透き通った空気に琥珀色の視線を乗せて、エミリーが見つめるのは一つの立て札。


 ――ヒトト山道、リキノト方面出口――


 随分と年季の入った立て札だったが。


「主よ、そう警戒するな。魔力的な脅威は感じない。この立て札からも、周囲にも」


 エトアルの言葉に小さく頷くと、ドロシーは山道に出た。


 無事下山出来ることを、信じもしないヒトア様に何となく祈りながら。


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