2-6 ドロシー、聖人に殴ることを強要される
――良い行いをしましょう。
マザー・ローズが経典を片手にそう言ったのを覚えている。
神と聖女様はいつだって私たちを見ています。だから、常に見られていると思って良き行いをすることを心がけましょう。
何を言っているのだ、狸女め。
ドロシーが良き行いをしても、お前は一度とたりとも認めてくれたことはなかっただろう。
それどころか揚げ足を取って、ドロシーを蔑む材料にすらしていただろう。
ドロシーは神を信じない。
神や聖女のために祈りを捧げても、誰一人としてドロシーを助けてくれなかったからだ。
だからドロシーは自分で自分を助けるために軍に入ったのだ。
それでも悲しいかな、弱っている人を見ると、手を差し出さずにはいられなかった。
花瓶を割って狼狽える孤児院の子供を見かけた時は、ドロシーがやったと名乗り出た。
マザー・ローズに虐待の口実を与えるだけだと分かっていても、ドロシーはあの子を助けずにはいられなかった。
そして、今回もそうだ。
困っている聖者たちを見て、エミリーを見て、ドロシーは放っておけなかった。
別に感謝の言葉が欲しいわけではない。
賞賛されたいわけではない。
ただ見ていられない。
困っている人を放っておけないのだ。
ドロシー・ローズとはそんな人間だった。生まれ持っての性質と言っても良かったかもしれない。
☆ ★ ☆ ★ ☆
(何だか嫌な夢を見ていたような……)
マザー・ローズの顔を思い出し、ドロシーの寝覚めは最悪だった。
濃霧に包まれたヒトト山はどこか肌寒い。
生い茂る樹木のせいでただでさえ日の光が届きにくい上に、さらに光をカットする霧が広がっている。
間もなく、夜鷹の顔が視界一面に広がった。
エトアルの夜の瞳が、ドロシーの不快な気分を和らげてくれる。
「目が覚めたか? あれから丸一晩眠っていたぞ」
「エトアルさん」
「魔力もおおむね回復したようだ。我が交戦したことも影響しているだろうが……」
魔力は血と肉に宿るとされている。
一般人以上に、肉体の休息は魔法使いにとって必要なものだった。
「主の魔力は我の糧そのもの……失われては、我の存在も危うい」
そう呟くエトアルの声には疲れの翳りが差している。
使い魔と魔法使いを結びつけているのも魔力だ。
魔力の塊とされている魔族エトアルにとって、ドロシーの魔力枯渇は生命の危機なのだ。
エトアルが再三休息を取るようにドロシーに進言したのも、きっとそのためだろう。
そもそも、彼がドロシーの旅に同行しているのも、その命を繋ぐためのはず。
(……エトアルさんに迷惑かけちゃったな)
ドロシーは小さく「すみません」とエトアルに告げると、体を起こした。
真っ先にドロシーの存在に気が付いたのは聖女エミリーである。
「……良かった、ドロシー。ヒトア様への祈りが届いたんだわ」
ほっと胸をなで下ろす仕草を見せるエミリーは、両手を使って祈りの仕草を見せた。
ドロシーが彼女の左腕に巻き付けた布や添え木の姿は見当たらない。
「あ、エミリー、腕」
「セドリックに祈って貰ったわ。おかげで、こうして貴方のためにちゃんとした祈りを送ることが出来る」
昨日、彼女がドロシーのために祈ってくれた時のように、エミリーはかしずくと両手を握りしめて祈りを捧げるポーズを取った。
間もなく、光が彼女の肉体に宿り始める。
まだ体に残っていた倦怠感が、みるみる内に安らいでいくのを感じた。
骨折が治って、癒やしの力が戻ったのだろう。
「聖者二人分の祈りなんだから、そりゃ魔女にも効くって。うちも祈って欲しいなぁ」
倒木に腰掛けたオリエッタが冗談めかしてそう言った。
気まぐれな猫みたいな目は、ドロシーの肩に留まる夜鷹を見つめている。
エミリーの祈りの儀式が終わると、顔を見せるのはきりっとした黒い眉。
セドリックはドロシーの顔色を視認するや否や、勢いよく頭を下げた。
「すまない! 俺が君の魔力を無駄に消費させてしまったようだ」
「あ、頭を上げてください、セドリックさん」
「セドリックだ。俺は敬称を呼ばれるような男ではない! 俺は過ちが大嫌いだ。俺自身の過ちであればなおさらだ」
だから、とセドリックは言った。
「殴ってくれ」
「はい?」
「俺はタイタンの拳で君を殴ろうとした。その分、俺は報いを受けるべきだ」
「止めなさい、セドリック。貴方は昔からそうなんだから……」
「駄目だ、姉ちゃん。これは俺と彼女の問題だ」
セドリックという聖人は、本当にこうと思ったら、こうと決めたら曲げない男のようだった。
多分、ドロシーが殴るまで彼はこの場を離れるつもりはないのだろう。
エミリーに視線を向ければ、彼女は首を左右させた。申し訳ないが、どうすることもできない、と言うように。
ドロシーは意を決すると、右手に握りこぶしを作った。
「……、えい!」
ぺち、と弱々しい殴打の音が濃霧の中に広がった。
柔らかい感触。人に殴られることは多々あれど、人を殴ったのはこれが初めてだ。
「こ、これで良いですか」
「こんなものでは駄目だ。もっと強く殴ってくれ」
「えぇ……」
ドロシーはドン引きした。
「にゃはは、聖人さまはこうなると引かないよ。うちも二回くらい殴らされたよん」
「えぇ……」
ドロシーはさらにドン引きした。
昨日、エミリーが激しくセドリックの頬を抓っていたのは、きっとこの面倒なやりとりをずっと繰り返してきていたからだろう。
こうしてせがまれるのを回避するために、彼女は強く抓ったのだ。
「も、もう十分です。わたしはもう気にしてませんし、それよりユニコーンを探した方が貴方たちのためになるんじゃ……」
「そうよ、セドリック。ドロシーは許してくれたんだもの。彼女も困っているわ」
「……、だが、これでは」
見かねた様子でエトアルが呟く。
「我が思いきり殴ってやろうか? 聖人といえど、首が弾け飛ぶだろうが」
「そ、それは止めておいてください」
エミリーの説得で、渋々であるがセドリックは諦めた様子。
ほっと一つ息を吐いて、ドロシーは訊ねた。
「それで聖獣……ユニコーンの方は? 何か進展はあった?」
「それが、まだ。この濃霧だし、ドロシーのこともあったし、あれからほとんど捜索するようなことはなかったわ。オリエッタにはちょっと周りを見てきて貰ったりはしたけど……」
聖女の琥珀の瞳が、倒木の上でくつろいでいる猫のような女魔法使いに向けられる。
彼女は「にゃは」と笑っては、口を開く。
「色々見たけどなーんにも無し。濃霧も酷いし、無理に動けばまた崖から滑落して大怪我しちゃうよん。ま、幸い聖人の坊ちゃんの法力と聖獣のおかげで、魔獣が近寄ってこないから何とかなってるけど」
「エミリー、ユニコーンの気配は感じられないのか?」
セドリックが訊ねた時、エミリーの目の色が変わった。
「エミリー? どうしたの?」
「ユニコーン……」
琥珀の瞳が何かに取り憑かれたように濃霧の方を見た。木々が立ち並ぶミルク色の闇。
その果てより聞こえるのは、激しく内なるベルのような音。
神聖さを感じさせるその音は、どこか馬のいななきのようにも思えた。
「――! この声」
エミリーが何かを感じ取ったように息を呑む。
「苦しんでいるんだわ……!」
そして、濃霧目がけて駆け出した。
「エミリー、待て! 危険だっ!」
彼女の菫色の法衣がミルク色の中に溶けるより前に、セドリックと彼に従う聖獣対他院が追いかける。
「まぁったく、聖者のお嬢ちゃんお坊ちゃんは周りが見えてなくて困るよん」
二人の聖者の後に続くオリエッタ。
ドロシーも側の木に立てかけられていた杖を取り、背嚢を背負うと、猫耳三角帽子の後を追う。
この濃霧だ、見失えば簡単に再会は出来ないだろう。
「主よ、無理に動くのは」
「分かってる。でも、放っておけないよ」
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