2-5 ドロシー、安心する



「な、何者だ、お前は! どこから現れた!? た、タイタンの拳を素手で受け止められる人間など……!」


 セドリックが困惑した声を上げる。


 それもそうだ。普通の人間であれば、あの巨体から繰り出される拳など、正面から受け止めることは不可能だ。


 床に叩き付けたラズベリーパイみたいになるだけだ。


「なるほど、聖獣とはこの程度の代物か? おもしろいからくりではあるが……」


 拳を受け止めたエトアルは、不敵に笑う。


「だが、我の敵ではないな」


 ぐっとエトアルが受け止める腕に力を込めれば、圧倒的な体躯の差があるにもかかわらず、タイタンの拳は容易く弾かれてしまった。


 ガラス細工のような巨人は均衡を崩し、不格好に尻餅をつく。


 ずずん、と僅かな振動がドロシーに伝わる。


「な、た、タイタンがっ……!」


「して、聖者よ。主に拳を振るった罪深さ、その身をもって思い知るがよい――」


 驚愕に身を強ばらせるセドリックに対し、大きく開いた手の平を向けるエトアル。


(まずい、エトアルさんを止めないとっ!)


 魔王の力と聖者の力、どちらが勝るかは分からないが、いずれにせよこの状況は誰にも望ましくないものだ。


「おーっと、ちょいと待ちなってハンサムさん!」


《火球》がエトアル目がけて放たれる。燃えさかる橙色の炎。


 それをエトアルは外套で防ぐ。火は彼を包むことなく、弾けて霧散。霧の中に消え入った。


 放ったのはもちろん、ドロシーではない。


「……傭兵か」


 夜空色の双眸が苛立たしげに細められる。


「なあ、うちに任せなって、聖者の坊ちゃん。聖獣は人を傷つけるためのものじゃないって、アンタが言ってただろ? タイタンちゃんだって、流石に人を潰すのは憚れるんじゃない? それがどんだけ悪い魔女でもね」


 小柄な影が軽快に喋る。


 猫耳を縫い付けた変わった三角帽子に、扇情的に前を開けたローブ。猫を模した意匠を施した杖。


 風変わりな格好だが、間違いなく彼女は魔法使いだ。


 それも《火球》を無詠唱で放てるくらいには優秀。


「どうやら、この魔女……凄い魔獣を使い魔にしてるみたい。瞬時に人型に変身させるなんて、どこの派閥の魔法? って感じ。変身の魔法は相当の手練れじゃなきゃ、無詠唱で使えないもんよ」


 うぅん、と猫耳魔法使いは何だか艶っぽいうなり声を上げた。


 それから厚めのリップから赤い舌を出して、いやらしく笑う。


「ぞくぞくしてきたっ、うち、こういうヤツとやり合えると思うと……! あぁん、やっば、興奮してきたっ! しかもこの魔獣、うちの超好みぃ!」


 我が身を抱くようにして体をくねらせる女魔法使い。


 言葉通り興奮しているのか、頬が紅潮している。


(なんか、聖職者の護衛にふさわしくないやばそうな人が……)


 聖獣タイタンに、手練れの魔法使い。


 ドロシーの体力も尽きようとしている。戦闘はなるたけ避けたいものだ。


「面倒だな、ひとまとめに潰してくれよう」

「あーん、そのでっかい体でうちの体押し潰しちゃってよ」


 そう言いながらも、猫耳魔法使いは好戦的な視線でエトアルを挑発している。


「……ちょ、ちょっと待ってください、エトアルさん。早まらないで!」


 エトアルの力であれば、あっという間に彼女も伸すことが出来るだろう。


 だが、これ以上、事態をこじらせるのは得策ではない。この先のことを考えるのであればなおさらだ。


 ドロシーが立ち上がったその時だった。


「――待ちなさい!」


 一触即発、にらみ合う魔王と魔法使い。


 そんな二人の間に躍り出るのは一人の聖女であった。菫色の冠の軌跡を、乳白色の霧の中に残しながら、彼女は叫ぶ。


「落ち着いて、オリエッタ! 彼女たちは私の命の恩人よ!」


「おりょ? エミリー様はこの魔女に襲われたのでは?」


「どうしてそう思うんです!?」


 猫耳魔法使い――オリエッタが、構えていた杖を下げながら言った。


「魔法の痕跡を感じたって、聖者の坊ちゃんが、ねえ? そうに違いないって息巻いてたもんで。なんせコンパスが狂うなんて、早々あり得ないことですし? 誰かが方向を狂わせる魔法を使ってるんだって、ねえ、坊ちゃん」


 にゃはは、とオリエッタと呼ばれた女魔法使いは悪びれた様子もなく笑う。


 そんな彼女の脇を抜けると、エミリーは目を丸くしているセドリックの元に急いだ。


「セドリック!」


 それから、元気な右腕でセドリックの頬を思いっきり抓った。


「いたたたたたたっ、え、エミリーっ、ね、姉ちゃん、や、やめっ」


「もう、セドリックはいつも思い込んだら猪みたいに突っ込むんだから! ちゃんと周りを見なさい! 教皇様もそうおっしゃったでしょう! 貴方の視野はもう少し広くすべきだと!」


「だが、エミリー。ユニコーンの暴走は何かしらの横入りがなければありえない。何者かがユニコーンに細工を……」


 エミリーに抓られた箇所を撫でながら、セドリックは反論する。


 聖女は小さく溜息を吐いた。それから、添え木で固定されている左腕を見せつけるようにして掲げた。


「この手当を見てちょうだい、セドリック。私一人でここまで出来ると思うの? 左腕が折れた状態で、頭の包帯まで巻ける超人ではないわ。落ち着いて、貴方は聖者でしょう? 教皇様から賜った冠はお飾りなの?!」


 エミリーの叱咤にセドリックはついに閉口した。


 先ほどまでの威勢はどこへ消えたのか、彼はがっくりと肩を落としてしょぼくれている。


「にゃはは、セドリック様はエミリー様に頭が上がらないんですから」


「……オリエッタ、貴方聖職者の護衛なんだから、もう少ししゃんとして。貴方への依頼料は、信者の皆さんから受け取った大切なお布施から出ているのよ」


「にゃは、これは失礼しましたのですよ」


 エミリーの言葉に打ちひしがれるセドリックとは異なり、オリエッタは飄々としている。


「ドロシーは私の命の恩人。間違っても、ユニコーン暴走には関わってないと言えるわ。聖女ヒトア様に誓って!」


「……ねえちゃ……、エミリーがそう言うのであれば、そうなのだろうな」


 セドリックがその頭に戴いていた冠を外すと、かつかつとドロシーの側まで歩み寄る。


 エトアルが警戒の色を示すが、ドロシーは視線で大丈夫だと訴えた。


 ここで何かするような人物には見えない。


 何より義憤に燃えていた黒の眉が、雨に濡れた犬のように哀愁漂う形を取っている。そんな人物が攻撃を繰り出すとは思えない。


「……、すまなかった、魔女ドロシー殿。勘違いをしていたとは言え、エミリーの恩人に俺は……聖者失格だ」


 セドリックが深々と頭を下げる。


 その背後で、聖獣タイタンも同じように頭を垂れた。


「ま、待ってください、とにかく人が揃ったんです。今はそれを喜びましょう」


 椅子がわりにしていた倒木から杖を支えに立ち上がると、ドロシーは「面を上げてください」とセドリックに言った。


「何とか合流出来たんですから、次は、ほら、暴走しちゃったユニコーンを捕まえに、いかないと……」


(あ、これは……)


 慌てて立ち上がったせいだろうか、ドロシーの視界がまたしても歪み始めた。


 一晩寝ていないだけなのに、今日はいやに疲れている。


「ドロシー!」


「主よ!」


 エミリーの悲鳴と同時に、エトアルの声がドロシーの耳朶を叩く。


 気が付いた時には、ドロシーはエトアルの腕の中にいた。


 魔王の腕の中、というと何だかとても恐ろしいもののように聞こえるが、どうしてかとても安心出来る。それは何故だろうか。


「……ちょっと、疲れちゃいましたね。少し休みましょう、休んでから……ユニコーンを探して、それから、海に……」


 そこでドロシーの意識は途絶えた。

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