2-4 ドロシー、ラズベリーパイになりかける



 朝食を終え、荷物をまとめると、すぐにドロシーたちはセドリックの捜索に入った。


 とは言っても、焚き木をセットしたあの木々の拓けた場所からはあまり離れるようなことはしない。


 セドリック自身もエミリーを捜索しているはずだからだ。


 エミリーの悲鳴はドロシーが野営をしていた場所にまで届く、凄まじいものだった。側にいたはずのセドリックの耳に届かないとは思えない。


 崖下に落ちたと知ったのであれば、ここを目指して移動を始めているはずだ。


 それにセドリックには、二人の聖者を護衛する魔法使いがついている。


 その魔法使いの腕によるが、空を飛ぶ魔法や空間転移魔法を会得している高位の魔法使いであれば、思いの他早くエミリーを見つけ出すのではないか。


 だから、捜索といっても不用意に野営地点から離れることはせず、ドロシー一行はエミリーが落ちた崖下周辺で待機し、セドリックが下りてくるのを待つことにした。


「セドリック! 私はここにいるわ! セドリック!」


 うっすらと霧がかかり始めた森の中、エミリーの清らかな声が反響する。


 この声が彼の耳に届くことを願いながら、聖女は再び「セドリック!」と巡礼の旅を共にした聖人の名を呼び続けた。


「はあ、彼の耳に届くと良いのだけれど……」


 不安げに溜息を吐くエミリーの横で、ドロシーは側の樹木の皮に短剣で傷を付けていた。


 樹皮の傷は野営地点から、等間隔に付けていた。


 セドリックが先に野営地点を見つけた場合、すぐにこちらまで移動出来るようにと付けたものである。


 ガリガリとなるたけ目立つように傷を付け終えたところで、ドロシーはあの絶壁を見上げた。


「やはり私には、聖女を務めることなんて……」


 エミリーは酷く落ち込んでいる様子だ。


 それもそうだろう。聖者に認定されることは、ヒトア教に属する全ての聖職者たちの憧れ、誉れそのものなのだ。


 それなのに、せっかく賜った聖獣をコントロール出来ず、挙げ句の果てには崖から転落。大怪我を負った。仲間ともはぐれて、どれだけ心細いだろう。


「……そう言えば、どうしてエミリーたちは崖の上に? あそこに繋がる道があるの?」


「私たちは、神皇国側――南の方から上って来たのよ。ただ、途中で山道を見失って……セドリックが使っていたコンパスがおかしくなったのよ」


 疲れた様子で倒木に腰掛けるエミリー。

 ドロシーも彼女の横に並んで腰掛ける。


「わたしもそうなんだ。コンパスが狂っちゃって。せっかく買った地図もこれじゃ意味がないよ」


「旅に出た時もこの山を通ったけれど、そんなことはなかったはずなのに」


「エトアルさんが言うには、魔石鉱床か何かが放つ魔力のせいじゃないかって。このコンパスにも魔石が使われてるから……」


 ドロシーは腰に下げたポーチから、手の平サイズのコンパスを取り出した。


 相変わらず、コンパスは狂った方角を示している。


「だから、聖獣……ユニコーンって言ったっけ? その子がおかしくなったのも、魔石のせいなのかも」


「そうだと良いのだけど……」


 きゅ、とエミリーは無事だった右手を力強く握りしめた。


 形の良い爪が、彼女の皮膚に深く突き刺さっている。


 そんな彼女の手を取って、ドロシーは優しく握りしめた。


「エミリー、貴方のその花冠、とてもよく似合ってる。貴方のための花冠なんじゃないかって思うくらい」


 ドロシーは彼女の栗色の髪を彩る菫の花冠に視線を向けた。


 ヒトア教の聖者に与えられる、特殊な加工によって枯れることのない花冠。


 各教区がその名に飾る花を頭に戴くということは、実に誉れ高いものなのだと聞いた事がある。


 今のエミリーはその冠の重さに潰れてしまいそうに見えた。


 そんな彼女の心の重荷を、少しでも軽くしてやりたかった。


「……ドロシー、ありがとう。貴方、優しいのね」


 そう言って柔らかく笑うと、エミリーは続ける。


「そうね、胸を張らないと。こんなところでくじけちゃ駄目だわ。これは聖者の証。教皇様から賜った【菫教会】の聖者であることの証。大切な、私自身……」


 菫の冠に手を伸ばすと、エミリーは琥珀色の瞳を閉じた。


「聖獣もそう。セドリック、早く会いたいわ。こんな状態で司教様の元には戻れないもの」


 再び瞼を開けたとき、そこにはもう、気弱な彼女はいなかった。


「もう少し、呼びかけて見るわ。もしかしたら、すぐ側にいるかもしれないものね」


 そう言って、エミリーは立ち上がると、法衣についた埃を払い落とし、「セドリック!」と聖人の名を叫ぶ。


 ドロシーも彼女の後に続こうと立ち上がったところで、ぐにゃりと視界が歪んだ。


 たまらずドロシーは倒木に座り直す。頭が重い。


「……まあドロシー、大変! 私、自分のことばかりで……貴方、顔色が悪いわ。もう少し休むといいわ」


「大丈夫、さっきも少し休んだから」


「ううん、駄目。ここでじっとしていて? 大丈夫、貴方のお薬のおかげで、私、腕が折れてるなんて分からないくらい元気だもの」


 それでも立ち上がろうとするドロシーの肩に右手を置いて、エミリーは聖女らしく笑いかけてくれた。


 間もなく、エトアルがドロシーの膝元までやって来ると「主よ」とさえずった。


「魔力が減り続けている。眠らず一夜を明かしたからだ。あの娘の言うとおり、休息を取った方がよかろう」


「でも、ずっと休んでいられませんよ。聖獣が暴れているんだとしたら、セドリックさんも危険な目に遭っているかもしれないんです。エミリーを助けられるのは、現状、セドリックさんの祈りの力だけです」


 聖者は自身のために祈ることが出来ない。だからこそ、魔法を超える癒やしの奇跡を起こすことができるのだという。


 私利私欲を捨てた、まさしく清らかな心の持ち主にのみ扱える神聖な奇跡。


「早く合流しないと」


 エミリーの手元を離れた聖獣ユニコーンが今、どのような状態にあるかも分からない。


 もしかしたら沈静化して山の中を彷徨っているかもしれないし、襲う誰かを探しているかもしれない。


「ここには魔獣だって沢山生息しているんです」


 長くここに滞在していては、いずれ食糧も尽きて魔獣の餌になるのが落ちだ。


 早々にセドリックと合流しなくては。


「だが、この娘は主の縁者でもない者であるぞ? 我が蓄える魔力であれば、共に飛び立ち、山を越えることは不可能ではないぞ。無論、休息は必要であるがな」


「でも、放ってはおけませんよ。聖者は攻撃出来ない。祈ることしか出来ない。わたしたちが見捨てちゃったら、二人とも食べられて終わりなんです」


 傭兵に魔法使いを雇っていると言ったが、その実力もよく分からない。


「主は人が良すぎる。軍人には向かぬ性格だ」


「そうですね、私も、そう思ってました」


 ドロシーは自嘲するように笑った。


 ルクグ王立魔法学校に入学することを決めたのは、あの【薔薇園】での扱いが耐えられなかったからだ。正直、あの当時のドロシーには国を護ろうだとか、そんな高潔な意思なんてものはどこにもなかった。


 入学してすぐに、軍人という職は自分には合わないと理解した。


 最悪の事態においては、同じ人間を相手に戦わなくてはならないのだ。ドロシーは、有事の際に誰かに手をかけることは出来るだろうか。


 いや、多分無理だろう。


 正式に魔女になれていたとしても、この性格が災いしてすぐに除隊になっていたに違いない。


「……、困ったな、少し疲れちゃったみたい」


 体が熱い。火照っている。


 大粒の汗が三角帽子と額の隙間から滴り落ちていく。ぽつんと、ローブに小さなシミが出来た。


「ドロシー、私に祈らせて……強い魔力を持つ魔女に、私たちの祈りがどこまで届くかは分からないけど、お願い」


 倒木に腰掛けるドロシーの足元にかしずくと、エミリーは祈りの言葉を紡ぎ始めた。


 孤児院時代、耳にたこができるほど聞かされた祈りの言葉。


 間もなく、エミリーの体が仄かに発光し始める。

 美しき法力による、祈りの輝きだ。


 マザー・ローズの祈りが、ドロシーを癒やしてくれることは一度としてなかったが。


 エミリーの想いはちゃんとドロシーに届いたようだ。


「エミリー、ありがとう、少し元気が出てきたよ」


 体を襲っていた疲労感は僅かに軽減された、ように思える。


 魔力と法力はあまり相性が良くない。潔癖な聖なる力が、どうしても魔力を拒み、馴染まないのである。


 それでも、聖女という絶大な法力を持つ彼女の祈りだからか、それとも、彼女自身の思いの強さからか、今は少し効果があったように思えた。


「少し、霧が出てきたな。主よ、一度、野営地に戻ったほうが良いかもしれぬ。目印を見失って、迷っては本末転倒だ」


「そうですね、そろそろ……エミリー、一度切り上げて戻ろうか」


 エトアルの言うとおり、山には霧が立ちこめ始めていた。


 ひやりとした空気が火照った体に心地良かったが、このままじっとしていては乳白色の霧に包まれて、道を見失ってしまうだろう。


 エミリーが申し出に頷き、またドロシーが立ち上がった時のこと。


「――エミリー! エミリー、どこにいる!」


 潔癖そうな男の声が霧の中に響いた。

 はっとした表情でエミリーが面を上げる。


「……っ、セドリックの声だわ! セドリック! 私はここよ!」


 希望に輝く琥珀色の瞳で、うっすらとかかるミルク色の霧の中を見つめた。


 立ち並ぶ木々の合間から、影が見える。


 背の高い影と、小柄な影。


 さらに奥、僅かに見える巨大な影はセドリックの聖獣のものだろうか。


 そして、駆け足に霧の中を駆け抜け、ついにその輪郭を露わにするのは、菫の冠を戴く黒髪の男。息せき切った男は、血走った黒曜石の双眸でドロシーの姿を咎めると「見つけたぞ!」と声高く叫んだ。


「貴様! エミリーから離れろ!」


 黒くキリッとした眉に、同じ色の髪を短く切った男。


 彼の頭が戴くのは、聖者の証である花冠。


 セドリックに他ならない。


 やった、案外早く見つかったぞ、と内心喜ぶドロシーであったが、何やら様子がおかしい。思えば言葉遣いも何だか荒々しい。


 彼は聖人の肩書きなど忘れた憤怒の形相でドロシーを睨んでいる。


「貴様がユニコーンを狂わせた魔女だな!」


「待って、セドリック!」


「タイタン! 魔女を倒せっ!」


 エミリーの言葉は怒りに狂う聖者の耳に届くことはないようだ。彼がびしっとドロシーを指し示せば、霧の向こう側で何かが蠢いた。


 高身長なセドリックよりも二回りは巨大な影。


 ずずん、と威嚇するように足を鳴らしながら、霧より姿を見せるのは巨大な人型である。


 その巨躯を構成するものは果たしてどのようなものだろう。その巨人とも呼べる物の体は、ガラス細工のように透けている。


 透明な巨人は、主である聖者の法力に従い、金属音のような雄叫びを上げると、ドロシー目がけて拳を振り下ろす。


(あ、やばい)


 全てがスローモーションに映った。

 ドロシーは動けない。


 巨大な拳はもうドロシーの目と鼻の先にまで迫っている。


 エミリーの悲鳴と同時に、深く目を瞑ったその時。


 重く鈍い音がドロシーの耳朶を叩いた。


 音の下、巨人の拳を素手で受け止めるのは、ボロボロの外套を纏う一人の男。


 魔王形態となったエトアルだ。


「主に拳を振るうとは、聖人といえど許さぬぞ」


 夜の瞳がぎろりと心なき聖獣を睨む。


「手短に済ませる」

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