2-2 ドロシー、聖女に手当をする



 ぱち、とくべた小枝が弾ける音がする。


「これで良かったのか?」


 エトアルが一時間ほど時間をかけてかき集めてきたのは、ヒトト山に自生する木の実や草花である。


 一見しただけではただの植物であるが、知識のある人間には分かることがある。


 これらには薬効があった。


「はい、十分です」


 小さなすり鉢の中に木の実を投入し、すりこぎで潰しながらドロシーは頷く。


 手元を照らす明かりは焚き木の火の明かりのみ。それを頼りに、ゆっくりとすり鉢の中身をすり潰していく。


「これで痛みを和らげる薬が作れます。頭の傷の出血も止まりましたし……」


 戦火の中では、治療魔法が使えない時、あるいは医療魔法使いが側にいない時がある。


 だから魔女、魔人候補生たちは、自然界に自生する草花から薬を調合する知識を必ず学ぶことになっている。


(魔法こそ習得できなかったけど、この知識は役に立ったかも)


 実技こそ成績最悪の落ちこぼれではあったが、ドロシーは座学においては優秀な成績を収めていた。


 孤児院時代に、寄贈された本を暗記するほど読んできたおかげもあるだろうか。


 特にドロシーは記憶力が良かった。


 成績優秀、希代の天才魔女候補であるリーナの次ぐらいには。


「エトアルさん、彼女の体に触れることは出来ますか?」


「なにゆえ?」


「横になっていている相手に無理に薬を飲ませては、誤飲の原因になりますから」


「ふむ、挑戦してみよう」


 先ほど法力による拒絶を経験したばかりだからか、エトアルはそろっと慎重に左手を伸ばし、害がないと分かると優しく抱き起こしていった。


 添え木と布で固定した右腕が、不用意に刺激を受けないように、丁寧な動きで。


 神話では悪辣無情の王であると言われていた彼でも、怪我人はぞんざいに扱わないらしい。


「そうです、そんな感じで上半身を支えてもらって……はい、大丈夫です」


 出来上がった薬の中に、革の水筒から水を注いでさらに混ぜると、ドロシーは意識を失っている彼女の口元にゆっくりと薬液を注いでいった。


 間違っても薬液が肺に入ってしまわないように、ちょっとずつ。


 ドロシーの思いが通じたのか、少女はゆっくりとその喉を嚥下させていく。


「治癒魔法が利かぬとは実に面倒な体よ」


「聖職者には聖職者の〝祈り〟がありますからね。もう一人ヒトア教徒の仲間が居れば、魔法使いの癒やしの魔法は不要なんです……今はこの場にいませんけど」


 神と聖女ヒトアへの〝祈り〟が信者の命を救うとは、ヒトア教の教義の一つである。


 もちろん、ただの祈りではない。


〝祈り〟とは、ヒトア教の聖職者がその身に宿す法力を用いて起こす奇跡の手段。


 癒やしの祈り、守りの祈り、この二つ。


 文字通りこの二つの祈りは多数の命を救ってきた。


 聖職者は魔法使いのように攻撃魔法が使えない代わりに、その清廉潔白の法力によって効果絶大の癒やしの奇跡と、要塞のごとき守りの奇跡を起こすことが出来るのだ。


 その奇跡の力は、先の大戦において、敵国の龍が放つ業火のブレスから教会と信徒、そして市民を護ったという。


 そして、この祈りには欠点が一つある。


(……聖職者は自分のために〝祈る〟ことが出来ない)


 彼ら聖職者の〝祈り〟は常に他者に向けたもの。自分のために祈ることが出来ないのだ。


 自己犠牲と利他的な信仰心が生み出した、歪な奇跡だった。


 たとえ、今、彼女が目覚め、祈ったとしても折れた腕が戻ることはなかったし、頭の怪我も治ることはない。


 だからドロシーは今、こうして献身的に彼女の手当を行っているのだ。


 たっぷり時間をかけて完成した薬液の三分の一程度飲ませると、ドロシーは「もう大丈夫です」と少女を寝かせるよう指示を出した。


 これで骨折による苦痛はある程度排除出来るだろう。


「骨折も、……本当はすぐにでも治療してあげたいですけどね。痛み止めの調合ぐらいしか、わたしには出来ないから」


 少女の額に残る乾いた血の痕を、布で拭いながらドロシーは呟く。


 落ちこぼれだとふてくされず、座学をちゃんと聞いていて良かった。


 調薬用のすり鉢とすりこぎ、それから薬学の授業のノートを一緒に持ち出そうと考えた数日前の自分に拍手を送ってやりたい。


「やれるだけのことはやりました。後は目を覚ますのを待つだけですね。他に深い傷がなくて本当に良かったです」


 東の空より太陽が昇り始め、白む空を眺めながらドローは思う。


 ドロシーの視線の先には、鬱蒼と生い茂る木々の向こう、朝日に照らし出される高い岩壁の姿があった。


 こうしてはっきりと岩壁の高さを確認すると、ますます彼女が生きていることが信じられない。


 あの高さから落ちて、左腕の骨折と頭を切る怪我で済むだなんて。


(まさしく奇跡ね)


 聖女ヒトアが微笑んだのか、この聖女は実に運が良い。


「これで治療は終いのようであるな」


「はい……、ただ、その前に」


 ドロシーは倒木に腰掛ける、魔王形態のエトアルに向かって手を差し出した。


 疑問符が一つ、ボサボサの黒髪の上に生まれた。


「エトアルさん。右腕、見せてください」


 怪我しているでしょう、とドロシーが言えば、彼は夜空色の双眸を丸くした。


 まさか、怪我をしていることがドロシーに知られているとは思わなかったようだ。


「我は平気だ。この程度掠り傷よ。人の子と違って、我は……」


「命令です」


「……承知した。主の命とあれば仕方あるまい……」


 渋々と言った様子でエトアルはドロシーに左腕を差し出した。


 きっと、黒妖犬との戦いの最中に傷ついたのだろう。ボロボロの外套には真新しい裂けた痕跡があり、その下では、青白い肌の上に走る赤い裂傷が痛々しい姿をさらしている。


 魔王といえど、掠り傷といえど、やはり痛みというものはあるようで。


 先ほど、少女の体を起こしていた際の魔王エトアルの動きは、その右腕を庇うようなものだった。


「……どうして治療しないんですか? 魔力の馴染みはわたしたちよりずっと良いと思うのに」


 魔族とは魔力の塊であった、と神話では語られていた。


 彼らは魔獣や人とは異なり、魔力そのものが命を得た存在なのだと。


 それ以上に詳しい情報は知らなかったし、知る術もなかったが、もし、神話で語られていることが事実であるならば、エトアルもまた魔力そのもの。


 魔法で治療することなど容易いことなのではないか。


 ドロシーは外套の袖をまくり上げると、エトアルの腕に走る傷に消毒と止血を兼ねた軟膏を塗っていく。


 これは眠れる聖女様の頭の傷にも塗ったものと同じものだ。


「我の魔力はそなたの魔力。無駄に浪費しては、そなたに負担がかかるだけよ。このような傷など、魔力を食らう内にいずれ消えてなくなるであろうに。いざという時、そなたの魔法が必要になる時もあろう。先の《星明かり》の魔法のようにな」


「でも、わたし、《火球》も危ういくらいに魔法が下手なんですよ。そもそも、入学の時の検査じゃ、魔力の量だってそんなになかったって結果でしたよ。治癒魔法だって使えないんです。いっそ全部エトアルさんが持って行っても良いくらいですよ」


 軟膏を傷全体に塗り広げて、清潔な布の切れ端を宛がうと、その上を帯状に切った布で巻いていく。


「主よ、そなたは己を過小評価しすぎだ」


「正当な評価だと思いますけど」


「我をこの現世に呼び出し、我に魔力を食らわれながらも、こうして平然としていられるなど、普通の人間ではありえぬ話よ」


 エトアルが冗談を言っているようには思えなかった。


 夜空色の二つの目は、真っ直ぐにドロシーを見据えている。


 ドロシーはとっさに彼から視線を逸らし、巻き付けた布が勝手に落ちてこないようキツく縛ると「子供をからかうのは止めてください」と言った。


「だって、わたし、魔法学校に入学したときも、平凡な魔力だって。魔法学校に入れるギリギリの魔力しかないって、軍の人にも言われたし」


 ドロシーは孤児院に軍の人間がやって来た日のことを想起した。


 有能な魔女、魔人候補がいやしないかと、軍の人間は度々孤児院に姿を見せては、魔力検査を行っていく。


 こうして彼らのお眼鏡に適った子供たちは、晴れて王立魔法学校に入学出来るというわけだ。


 どうにかして孤児院を出たいと考えたドロシーは、検査可能の年になった一四歳の春に真っ先に検査を願い出た。


 軍の人間は驚いていた。


 自分から進んで検査を受けようという子供は、そういない。


 簡易検査の結果、ドロシーの潜在魔力は軍が求める規定値を僅かに上回るものだった。


 あの日、ドロシーだけが、その事実を喜んでいた。


「その軍とやらの目がぼんくらの節穴であったということであろう。真実を見定められぬ者が、魔を教えるとは……笑い話にもならぬ」


 ドロシーが手当を終えた右腕を見下ろしながら、エトアルは小さく息を吐いた。


 そんな時だ。


 もぞりと、眠れる聖女がその身を震わせた。

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