第2章 追放魔女と使い魔王、聖女を拾う

2-1 ドロシー、聖女を拾う



「主、そろそろ寝なくては魔力に響くぞ」


 エトアルが呆れた調子でそう言った。


 ヒトト山中腹。木々の生い茂る山の獣道に、焚き火が一つパチパチと燃えている。


 暗い闇を退ける火の明かりの中、ドロシーはじっと夜空を見上げていた。


 今日は満月。ドロシーの好きな夜だ。


「うん、でも、もうちょっとだけ。こんなに綺麗な満月、久々に見たから。ここみたいに、良い具合に拓けてる場所も中々ないですし、ね」


 そう言ってドロシーは火に当たりながら空を見続ける。


 綺麗な色だ。複雑な空の色。


 山の木々の合間を埋める闇とは違う、赤や青、紫、黄色、緑といった複雑な色が織りなす黒。


 そこにぽっかりと穴を空けた銀の月の下、涙のように落ちる星々の煌めきが、夜の混ざり合う色を照らし出す。


 ドロシーは溜息を吐いた。


「今日の月は綺麗な銀色。リーナの髪の色みたいで、わたし好きなんだ」


 リーナ。


 彼女は今、元気にしているだろうか。しろちゃんと仲良くやっているだろうか。


 魔法学校を発って、そろそろ五日は経過しようとしている。


「まったく、主は……我らは今道に迷っているのだぞ? ここに迷い込んでもう三日も経っている」


「うん、分かってます。まさかコンパスが狂っちゃうなんて思いもしませんでしたし……」


 ドロシーは懐から下の中町で購入したコンパスを取り出した。


 北を指し示すはずの針が、くるりくるりと狂ったように回っている。


 購入した当時は、こうも狂っていなかったはずだ。


 夜鷹の姿をしたエトアルが、この夜空と同じ色をした目を細めて言った。


「戦の火種の山ほどではないにしろ、ここの山にも魔石鉱床が眠っているのだろう。魔力の影響によって、指針が狂ったとしか我には考えられぬ。微弱な魔力の気配を、この山に入った時から感じている。明朝、一度空より位置を再度確認し、太陽の位置より下る方角を定めよう」


「うーん、魔石鉱床とか、フィンさんはそんなこと言ってなかったんですけどね。まあ、わたしを相当な手練れの魔女だと思ってたみたいですし……魔女なら簡単に乗り越えられるのかなぁ」


 ミデロ・メールの新米記者フィンは、ヒトト山がコンパスを狂わせる魔性の山とは一言も言っていなかった。


 魔獣が生息しているから気を付けろ、とは言っていたが。


 コンパスを懐にしまうと、ドロシーは落ち葉を集めて作った簡易ベッドの上にどさりと転がった。


 まだ夜を見ていたいと思う気持ちはあるが、エトアルの言うとおりそろそろ眠らなくては。


 入山前に購入した携帯食料はまだ手元にあったが、これ以上野宿が続くと流石に厳しくなってくる。


(……たっぷり休息を取って、明日には何とか下山しないと。山で迷って死ぬなんて、そんなのだけはごめんだわ)


 絶対に【星鳴きの砂浜】に行くんだから。

 眼鏡を外して、赤い睫を下ろしたその時だった。


 ――誰か、助けて!


 絹を裂いたような女性の悲鳴が、ドロシーの耳朶を叩いた。


 続いて、何かが落ちるような鈍い音も聞こえる。


「……エトアルさん、聞こえましたか?!」


 ドロシーは簡易ベッドから起き上がると、眼鏡を装着し三角帽子を被った。


 慌てて背嚢を背負い、杖を掴み、声のした方角を睨む。


 闇がわだかまっている。鬱蒼と茂る木々の枝葉が、月明かりをすっかり遮っているのだ。


「主よ、気を付けよ」


 ドロシーが声の方へと進んだところで、エトアルがドロシーの肩に止まる。


 そのまま早足に、声の方角へとドロシーは進んだ。


 不安はなかった。

 だって、ドロシーの肩には使い魔王がいる。


 そうしてたどり着くのは岩壁だ。


 切り立つ岩肌より力強く生える草木を折って落ちて来たと思しき何かを確かめようと、ドロシーはエトアルに食われてほとんど残っていない魔力をかき集める。それから小さく呪文を唱えた。


 ぽっと杖の先に穏やかな光が灯る。


《星明かり》の魔法である。町を照らす魔石灯にもこの魔法が込められている。


 太陽ほどではない、穏やかな光で周囲を照らす魔法である。


 生み出した星の光で、ドロシーは暗がりを照らし出し、息を呑んだ。


 そこには栗色の髪をした少女が倒れていたのだ。


「大変、エトアルさん! この人、あの崖から落ちてきたみたいです!」


 ドロシーは倒れる少女の様子をうかがった。


 豊かな胸は苦しげではあるものの上下している。幸い息はあるようだ。


 ただ酷い怪我をしている。頭を切ったらしく血が、彼女の綺麗な栗色の髪を汚している。


 さらに、崖から落ちた際にぶつけたのだろう、左腕が明後日の方角を向いている。


 顔に擦り傷は見受けられたが、それ以外に目立った外傷はなかった。


 あの高さから落ちたのだ、むしろこれだけの傷で済んだのが奇跡としか言いようがない。


 岩壁より生える木々がクッションの役割を果たしてくれたのかもしれない。


「聞こえますか? わたしの声が聞こえますか?」


「うっ……」


 ドロシーが呼びかけるが、少女はうめき声を上げるばかり。


「エトアルさん、貴方の魔法で治せませんか? わたしの傷を治した時みたいに――」


「主の命ではあるが、先に終わらせねばならぬことが出来た」


 低い声が、ドロシーの上の方から落ちてくる。


 ドロシーの肩に止まっていたエトアルは、人の、いや、魔王の姿となってそこに立っている。


 彼の夜空色の瞳は、ドロシーでもなければ、傷ついて昏倒している少女にでもない、深い闇のわだかまりの中を睨んでいた。


「血の臭いに釣られてやってきたようであるぞ!」


 うううううううううっ!


 それは獣のうなり声。


 杖の光を声の方に向ければ、闇に紛れ、赤い瞳でこちらを狙う黒妖犬の姿が浮かび上がる。


 その数、ざっと一〇匹。


「黒妖犬の群れっ……!」


「どこぞの魔法使いの使い魔ではなさそうだな。魔獣は我に任せよ。主は小娘の怪我の具合を確認してくれ」


「はい! エトアルさんも、怪我……しないでくださいね」


「主の命だ必ずや成し遂げよう……して、黒き犬よ。我に牙を剥けてタダで済むと思うでないぞ」


 エトアルが纏う古い外套が闇に溶けたところで、ドロシーは昏倒する少女へと向き直った。


 ドロシーは杖が倒れてしまわないように地面に深く突き刺すと、その光を頼りに少女の容態をもう一度確認した。


(大丈夫、酷い怪我じゃない。出血も、頭の傷からで、酷いのは骨折だけ、首の骨は心配だけど……)


 後ろで黒妖犬の悲鳴が上がる。


 きゃいん、きゅうん、怯えた獣たちの声。


 一〇匹と徒党を組んで襲い来る獣たちを、文字通りエトアルは虫の子を散らすように倒しているのだ。


 エトアルと黒妖犬の戦いはすぐにでも決着が付くだろう。


 ドロシーの予想通り、彼は間もなく戻って来た。僅かな血の気配だけを漂わせて。


「手短に済ませた。主よ、娘の容態は……」


「右側頭部に裂傷が一カ所。左上腕と、左前腕部分の骨が折れているようです。後は頭の切り傷。それ以外に目立った傷はありません」


「であれば、さほど魔力消費はせずとも治療可能か……」


 彼女を治療しようと、エトアルがすっと手を伸ばしたその時だった。


 ばちん、と閃光が迸りエトアルの手が弾かれた。


「なっ……! これはっ……聖なる力――法力か」


 夜空色の瞳を大きく剥いて、エトアルは自身の手を見た。


 震える手の平より立ち上るのは白い煙だ。


「魔を拒む法力ですか? この人、まさか……」


 ドロシーはよくよく少女が纏う衣類を見てみた。


 深い紫色のローブには、銀糸で描かれた菫の姿がある。


 ドロシーの脳裏にマザー・ローズが纏っていた法衣の姿が過った。


 深い赤の法衣に、銀糸で描かれた薔薇の姿。


 彼女が纏うローブはマザー・ローズの法衣とよく似ている。


 もしかしたら、とドロシーは一度地面に突き刺した杖を引き抜くと、さらに周囲を照らしていった。


 そして茂みの中に見つけるのは、菫で作られた花冠である。


 ヒトア教の敬虔な信者の中より選ばれると言う、聖者。


 魔を拒み、魔を弾く、聖なる力――法力をその身に秘めし者たち。


 その聖者の試練を乗り越えた者のみ、この花冠を被る資格を与えられるという。


 ドロシーは確信した。

 彼女は聖女だ。


「聖女、聖人の治療は魔法使いでは無理です。彼女たちの気高い法力が、それを拒んでしまいますから」


「聖女とな。……では、主よ。この娘をどうする? 我の治癒魔法が使えぬのでは、見捨てるほかあるまい。これ以上魔力の浪費は出来ぬぞ」


「それは駄目です」


「して、主には他に何か考えがあるのか?」


 エトアルの問いにドロシーは強く頷いた。


「わたしが手当をします」

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