1-2 ドロシー、旅に出る
何が起きたかは判然としていない。
ドロシーは赤の中に落ちていた。
魔女候補生に与えられる精霊樹の杖も、被っていた三角帽子もどこに消えたのだろう。
ドロシーは四肢を投げ出して、召喚の間、と呼ばれていた瓦礫群の中に倒れていた。
頭が痛い。
割れるように痛い。
いや、多分、割れているのだ。
だからこうも痛いのではないか。
(わたし、ここで死んじゃうのかな)
ドロシーの頭から命が流れていくのが分かった。
とても寒い。
凍えてしまいそう。
寒いのは嫌いだった。
孤児院の外に放り出された日を思い出すから。
(死ぬのは嫌だな)
漠然とドロシーは思った。
死なんて遠い未来の話だとずっと思っていたのに。
視界がぼやけている。
眼鏡がないせいだ。
ぬるりと暖かい赤がドロシーの視界を遮っている。
だからはっきりと見えない。
衝撃で砕けた天井より差し込む僅かな朱の光の下で、ゆらりと蠢く人影が誰のものであるのかも。
その人が女性なのか、男性なのかも。
人影がゆっくりとドロシーに近づいて来る。
輪郭は濃くなっても、やはりはっきりとしない。
だけれども、ドロシーは思った。
「……きれい、な、瞳」
曖昧模糊とした世界の中でも、その人影の眼窩に収まる瞳が満点の星々のように煌めき、輝いて見えたのだ。
美しい夜のような瞳が、驚いたようにしばたかれた。
その人の手がすっと伸ばされる。
ドロシーの痛みの根源に触れて、何かしている。何をしているのかはよく分からない。
だけれども少しひやりとした感触はとても心地良く思えた。ずっと触っていて欲しいと思った。
(あ、待って、行かないで)
するりとその人の手が離れていく。
その人はドロシーを見下ろしている。
「……」
意識が朦朧としている。
ドロシーは事故で今、まさに死にゆこうとしている。
荒廃した召喚の間から出ようとするその人の動きを感じ取って「まって」とドロシーは言った。その人の動きがぴたりと止まる。
「どうせ、しんじゃう、なら」
その人の目がこちらを見ている。
少し距離が空いたせいだろう、冬の空みたいな色は朧気だ。
だけれども、ドロシーはその人の目に釘付けだった。
今は夕刻。
まだ朱の太陽が空にいる。
夜空はほど遠い。
「あなたの、目、……見てたいな……よぞら、みたい、で……きれい、だから」
ドロシーは夜が好きだった。
晴れた冬の日の夜空が好きだった。
透明な空気がますますクリアになる真冬の夜空。
孤児院の屋根裏の窓から見上げた星々が好きだった。
満天の星空を見上げながら想いを馳せる。
――この星空の果てにはどんな世界が広がっているのかな。そこにはどんな人がいて、どんな物語があるのかな。そこには本当のパパとママがいるのかな――
魔女になれば、孤児院を出れば、いつかその果てに足を向けられる日が来るのではないかと期待していた。
ドロシーを捨てた両親と再会出来る日が来るのではないかと。
意識が薄れていく。
ドロシーはもうお終いのようだった。
「……主よ、そなたはここで死なぬよ」
視界が黒く塗りつぶされていく過程で、聞こえた声はこう言った。
「我が死なせぬ」
☆ ★ ☆ ★ ☆
――きょ、きょ、きょ。
少し風変わりな鳥の囀りの元、ドロシーはすっかり崩壊した建造物――召喚の間を前に唖然としていた。
学長の言うとおり、まさしく粉微塵。
見渡す限りの、瓦礫、瓦礫、瓦礫の山である。
床に描かれていた召喚魔方陣もどこへやら。
ここ数日お世話になっていたこの空間の面影はどこにも見当たらない。
「うわぁ……本当に粉微塵になってる」
寮の荷物をひとまとめにした背嚢を傍らに置いて、ドロシーは呆然としていた。
「ドロシー! まだいたか。良かった、もう旅立ってしまったのかと心配したぞ」
そんな棒立ちのドロシーの背中に降りかかるのは、恩師バーンリー教授の声である。
彼女の手には布で巻かれた長物。背中には背嚢が背負われていた。
相当慌ててドロシーを探していたのだろう、彼女の頬には大粒の汗が浮かんでいた。
「まったく、学長も急すぎる。目覚めてすぐに退学など……何も備えを渡さずに追い出すなど、まるで追放しているようではないか」
学長への文句をひとしきり並べ立てた彼女に向かって、ドロシーは訊ねる。
「……バーンリー教授。これは本当にわたしがやったのでしょうか?」
ドロシーは魔法学校の落ちこぼれだ。
学長が言うように、ドロシーの魔力は合格点ギリギリの量しかなく、さらに初級攻撃魔法《火球》もまともに操れない不器用っぷりを誇っている。
そんなドロシーが、あの召喚の間を粉微塵にするなど到底考えられなかったのだ。
しかし、ドロシーの明瞭になった記憶が訴えている。
ドロシーが召喚魔法を使った瞬間に、あの爆発が起きたのは確かなようだ。
「現状、そうとしか考えられない。あの時、召喚の間にいたのはドロシー、お前だけだ。専属医師や学長の見立てによると、お前は無理に召喚魔法を行使しようとし、魔力が暴走。その結果、この大惨事を引き起こしたと。手練れの魔女、魔人にも稀に見られる現象だな」
「魔力暴走の話は座学で聞いたことがありますが……まさか、わたしが、そんな目に遭うなんて」
「お前が昏倒している間、医師がお前の魔力を測ったが……魔法兵の必要値を大幅に下回っていることが判明した。これも魔力暴走の特徴だ。脳と心臓にある魔力を蓄える器官が、異常な魔力に破壊され……魔力を失う。簡単な日用魔法くらいは使えるだろうが、……魔女として必要な値は、残念ながら」
「未だに信じられません。何となく、あの日のことを思い出しましたけど、でも……これをわたしがしただなんて」
ドロシーが呟く横で、バーンリー教授が深々と頭を下げた。
「教授! 頭を上げてください」
「すまない、ドロシー」
静かに謝辞の言葉を述べると、バーンリー教授はゆるりと面を上げた。
いつも強面で強い意志を宿した彼女の表情が、今日に限って酷く曇っている。
「学長には何度も抗議したのだ。魔力の最低値を下回っていたとしても、場合によっては回復した事例もあるとな。だが、学長は頑なでな。彼の逆鱗に触れたのは、やはり」
「召喚の間の破壊、ですよね。……あはは、仕方ないです。大切な設備をこんな風にしちゃったんですから」
召喚の間は粉微塵。
再建するまでにどれほどの時間と費用がかかるか、考えたくもない。
光の門を開くための重要な施設だ。
これがないと、新米魔法兵候補たちが使い魔を呼び出すことも出来ないのだ。
「ドロシー。この決定は残念なことだ……だが、なによりお前の体が無事で良かった。この爆発の中心にいながら、掠り傷で済んだことはまさに奇跡に他ならない」
「かすり傷? 誰かがわたしの治療をしたのではなく?」
「どうした?」
バーンリー教授は睫をしばたかせる。
いったい何を言っているのだと言わんばかりの視線に、ドロシーは何も言えなくなった。
「いえ、なにも……」
ドロシーは再び瓦礫の山に視線を向けた。
(あれは夢だったのかな)
思い出した記憶の中に、夜空の目をした人がいる。
彼が、あるいは彼女がドロシーの傷を治してくれたと記憶している。
その人は名乗り出なかったのだろうか。
王立魔法学校の生徒、あるいは教諭の一人であれば、何かしら報告をしそうなものであるが。
ドロシーが思考の海に溺れかけた時「ドロシー!」澄んだ少女の声が、凄惨な瓦礫地帯に広がった。
「リーナ!」
駆け寄る足音の方を振り向けば、そこには長いストレートのプラチナブロンドをなびかせる美少女の姿が目に入る。
胸から下げたペンダントトップが、キラリと太陽光の下で輝いている。
「授業が終わって医務室に急いだら、誰もいない上に、あの噂好きの子たちがとんでもないこと言っていて……!」
ぜ、ぜ、と肩で息をしながら、リーナはドロシーの手を握りしめた。
そして迫真の眼差しでドロシーの目を射貫く。
「ドロシー、嘘と言って。退学処分にされたなんて、嘘でしょ?」
「嘘じゃないんだ、ごめんねドロシー。一緒にお国を護ろうって、魔女になろうって言ってたのに」
そんな、とリーナは信じられないと声を上げた。
「でも、ドロシー。退学処分になったら、あなた、どうするの? まさか、孤児院に戻るなんて言わないわよね? あそこは酷いところだって。あそこにいたくないから、軍に志願したんだって」
そうだ、リーナの言うとおり、ドロシーは孤児院での扱いを受けていた。
孤児院を取り仕切る寮母に嫌われ、嫌がらせを受けた幼少期。
その扱いに耐えきれずに、まだまともな扱いを受けられそうな魔法学校に来た口だ。
退学処分となった今、ドロシーはあの地獄に戻らなくてはならない。
リーナは、ドロシーが退学処分になったことよりも、ドロシーがあの孤児院に戻らなくてはならない現実を悲観しているように思えた。
ドロシーは空を見上げた。
青い空が広がっている。
春も半ばほど過ぎた晴天。日の強さが増しつつある昼下がり。
その晴天の果てに見える青白い山の尾根を見つめながら、ドロシーは言った。
「……わたしね、考えたんだ、リーナ。これはチャンスなのかもって」
「チャンス?」
「わたしが自由になるチャンスだよ」
そう言って、ドロシーはリーナの赤い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「わたし、孤児院には戻らない。旅に出るんだ! ね、素敵じゃない? 自由気ままな一人旅だよ。楽しそうでしょ?」
今ほど絶好のチャンスもないだろう。
戻ったところで折檻されるのが目に見えていたし、何よりドロシーはもう一六歳。
独り立ちの時期だ。
だったら、いっそ、一人で自分の好きなように生きても良いのではないか、と。
「でも、魔法装備は全部学校から支給されたもので、あなた、今、何も持っていないじゃない。ミスティルテインの杖だってないし……そんな装備で旅なんて危険よ」
「分かってる。でも、わたし、こうするしかないんだ。こうするしかないの」
そう言って、ドロシーは目を瞑る。
瞼の裏には、小さな頃孤児院で呼んだ旅行記の一ページが想起されていた。
心地良いさざ波が聞こえる、果ての見えない水の世界。
そう、海の情景がドロシーの頭の中に浮かんでいた。
「まずはさ、海に行こうと思うんだ」
「海?」
「うん、海。わたし山の方の出身でしょ? だから、まずは海を目指すの。一度も見たことがない世界、見てみたいんだ。色んな場所の夜空が見てみたい。ほら、夜の海とか、きっと綺麗なんじゃないかな?」
旅行記の中には、満月が二つに見える海の話があった。
光り輝く月を反射する鏡の水面。そこに映し出された夜。
上も、下も夜に包まれる世界――何よりも夜空を愛するドロシーにとって最高のロケーションであることには間違いない。
ドロシーの言葉に、リーナがこれ以上口を開くことはなかった。
いったところで無駄だと彼女は判断したのだろう。
「ドロシー、お前の気持ちは理解した。たった一六の娘が単身で旅をするなど、私であれば大反対だが……仕方ない。これを渡そう」
バーンリー教授が背嚢を下ろすと、長らく抱えていた長物に巻き付けた布を取り払った。そこから姿を見せるのは、よく使い込まれて飴色になった杖である。
さらに背嚢の口を開けて彼女が取り出すのは、パッチの当てられた古めかしいローブに三角帽子といった、魔法装備一式だった。
「これは私が昔使っていた装備だ。孤児院に戻るお前の道中の危険を少しでも排除出来れば、と思って持ってきたものだが……これからの旅にも役立つだろう」
最後に、教授が背嚢から取り出すのは、小ぶりな短剣だ。
ドロシーの小さな手でも何とか扱えそうなサイズの剣を鞘から引き抜くと、バーンリー教授は刃を日差しの下に晒した。
良く研がれた鋭い刃。白い煌めきを確認すると、教授は短剣を鞘に収めた。それからそれをドロシーの手に握らせる。
「魔法装備で身を固めていれば、相手がどれだけ幼い子供であろうと恐れ多くて簡単には手出しはできまい。孤児院に戻るにしろ、海を目指すにしろ、道中は危険だ。人里を離れればそこは魔獣の巣。他にも最近は近隣を荒らして回る野盗が出たという話もある。短剣は、万が一の時のためのものだ」
バーンリー教授のお下がりということもあって、魔法装備一式は随分と古ぼけてみえた。
サイズも小柄なドロシーには少々大きいようにも思える。
だが十分だ。
あまりに十分過ぎた。
「それから」
感動に視界が潤んできたドロシーに、バーンリー教授がそっと革袋を差し出した。
「これを持って行くといい」
教授が手の中で革袋を揺らすと、じゃりん、と金属が擦れ合う音がした。
「少ないが、これを旅の足しにしてくれ。危険な道では傭兵を雇っても良いだろう。まあ、長旅を共にしてもらうには足りない額ではあるがな」
「そんな、教授……お金までっ……」
いよいよドロシーの涙腺は崩壊寸前だった。
何から何まで、ドロシーはバーンリー教授にお世話になりっぱなしだ。
ぐず、とドロシーが鼻を鳴らしながら革袋を受け取ったところで「分かったわ!」と今まで沈黙していたリーナが声を張る。
「ドロシー。これも一緒に持って行って!」
そう言って、リーナは自身の胸を飾っていたペンダントをむしり取るようにして外した。
それから、ドロシーの短剣と革袋でいっぱいいっぱいになった両手に乗せた。
「これリーナの魔石ペンダントじゃない! お父さんからの贈り物なんでしょう? 高価なものなんじゃ……」
ドロシーは首を振って拒否の意を示した。
リーナの父親は名のある貴族なのだと聞いた。リーナ自身があまり語りたがらないので、あまり深いところは知らないが。
ただ、その貴族の父が我が娘にと贈った大粒の魔石ペンダントだ。
相当値の張るものに違いない。
「いいの。貰って、ドロシー。私の魔力が籠もった大切なペンダント。だから、ドロシーに持って行って欲しいの。あなたは私の大切な親友だから。せめて、私の魔力で護らせて」
「……ありがとう、リーナ。この石、お月様みたいで綺麗」
やや虹色の皮膜を纏った乳白色の丸く加工された石は、まさに月のような輝きをそこに携えていた。
魔石。
魔力はおろか、魔法すら吸い込む不思議な石。
この特性を生かして、様々な媒体で魔石は利用されてきた。
自身の魔力を込めることで、防魔の御守りとして運用している魔法使いも多い。
ドロシーは皆から貰った大切な贈り物をすぐに身につけていった。
シャツとスカートといった普段着の上に、バーンリー教授のお下がりであるローブを纏い、三角帽子を被る。
それから寮にあった私物を詰め込んだ背嚢を背負って、杖を握る。
最後にリーナから貰った魔石ペンダントを首から提げて、ドロシーは愛しの親友に抱きついた。
最後のハグだ。
「リーナ。大好きだよ」
「私もよ、ドロシー。ずっとずっと大好き」
リーナの細腕が一層強くドロシーの体を抱きすくめた。
――きょ、きょ、きょ。
そんな時に聞こえるのは、風変わりな鳥の囀り。
「あの鳴き声、夜鷹かしら?」
ドロシーを腕に抱きながら、疑問符を浮かべる銀髪の美少女。
彼女の言葉に頷くのは、暖かく二人の少女を見守っていたバーンリー教授である。
「昼間だというのに珍しいな」
「きっとドロシーの門出を祝っているのね」
そう言って、リーナはドロシーを解放した。
ドロシーは眼鏡の下、曇った視界をぐしぐしと手の甲で擦ってから、大きく笑ってみせた。
「行ってきます!」
落ちこぼれのドロシーに目をかけてくれていた、大切な二人に向かって大きく手を振って「またね」と一言。
それから踵を返した。
目指すは海。ドロシーの知らない世界である。
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