第25話

できれば家で引きこもっていたいけれど、それは学生の千秋にとって簡単なことじゃなかった。

まず両親に嘘をつかないといけない。


嘘だとバレたら学校へ行かされるか、イジメについて無理にでも聞き出されてしまうだろう。

全部自分を心配してくれてのことだとはわかっている。


けれどそれが千秋にとっては重労働になるのだ。

自分がイジメを受けていると告白するときのことを想像するだけで、逃げ出してしまいたくなる。


誰からも心配なんてされたくない。

それが両親だったら、なおさらだ。


こんな惨めな自分を見られたくない。

同情だってされたくない。


そうして教室へ到着すると、また心臓が早鐘を打ち始める。

上靴は無事だったけれど、机はどうだろう。



ラクガキされていないだろうかと不安が膨らむ。

自分の席に近づいたときに視線だけで確認すると、そちらも無傷なことがわかってようやく席に座ることができた。


前は教室に入れば数人のクラスメートたちが必ず挨拶をしてくれたけれど、今はそんなこともなくなった。

千秋は無言で自分の席につくだけだ。


それからホームルームが開始されるまでは教室で透明人間としてそこに座っている。

もしくは女子トイレで時間をつぶす。


それ以外にやることもなくなってしまった。

友人同士のおしゃべりはもう何日もしていない。


教科書を取り出して読んでいようと考えたとき、教室前方のドアが開いた。

そこから入ってきた一浩の姿を見て千秋の体温がスッと下がる。


できるだけ視線を合わさないように教科書に目を移した。

心臓はさっきまでよりも早鐘を打っていて、呼吸も荒くなってくる。



手の先はとても冷たくて、まるで自分のものじゃないみたいだ。

一浩が歩くといつも大きな音がする。


腰やカバンににジャラジャラとストラップをつけていて、大股で力を込めて歩くからだ。

その足音が近づいてくるにつれて教科書の文字が読めなくなってくる。


全神経が耳に週中して、音を聞き逃さないようにそばだっていく。

そして一浩が通路を通り過ぎた瞬間、全身の力が緩んでいく。


よかった。

今日はなにもされなかった。


安心したのもつかの間、後ろから髪の毛を引っ張られた。

痛いほど強く引っ張られて頭がガクンッと後ろへ反る。


それを見て一浩は笑い声を上げた。

他のクラスメートたちも何人かが笑い声を上げる。


途端にカッと顔から火が出るほど恥ずかしくなる。

そして屈辱的な気持ちが沸き上がってきた。



「お前、イジメられてるくせに油断しすぎだろ」



一浩はそう言ってひときわ大きく笑ったのだった。



☆☆☆


一浩からイジメを受けるようになったのは一ヶ月くらい前からだった。

突然「こいつカンニングしてる」と言われ始めて、それがあっという間にクラス中に広まってしまった。


もちろんカンニングなんてしていないと説明したけれど、一浩は信じてくれなかった。

実際に自分がカンニングしていたとしても一浩には関係ないはずなのに、どうしてそんなに怒っているのかわからなかった。


ただ、力では勝てないことだけはわかっている。

仲間もだんだんと遠ざかってきて戦う威力が失せてくるまでそう時間はかからなかった。


人間の心は毎日踏みつけられれば簡単に壊れてしまう。

そして、あの日がやってきた。


交通事故に遭った日、一浩は比較的静かだった。

時折陰口を言われるくらいで直接手を下してくることはない。


一浩が動かなければ他の子たちが動くこともないし、千秋は勉強に週中することができた。



でも、それで終わりではなかったんだ。

放課後になってようやく家に帰れると思ったころ、昇降口の前で千秋は棒立ちになっていた。


靴がないのだ。

このときになってようやく一浩が今日1日おとなしくしていた理由がわかった気がした。


最後の最後に突き落とすためだ。

千秋はふらふらと昇降口の近くを探し始めた。


上靴は安く手に入るけれど、靴はそういうわけにはいかない。

それに、前回上履きを買ってもらったばかりで靴までなくなったなんて言えば、両親はもう黙っていないだろう。


イジメを受けていることを無理でも聞き出されることは目に見えていた。

それから千秋はあちこち靴を探して回った。


教室のゴミ箱の中。

掃除道具入れの中。

ロッカーの中。



それでも見つからなくて日が傾いてきた。

帰る時間が遅くなれば心配をかけてしまう。


なにがあったの?

と、容赦ない質問が飛んでくることも安易に想像できた。


だから千秋はこの日上履きのままで外へ出たのだ。

外はオレンジ色に染まっていて、公園で遊んでいた小学生たちも帰る時刻になっていた。


靴がないことを両親にどう説明しよう。

なにか、いい言い訳はないだろうか。


考えながら歩いていると、ついぼーっとしてしまった。

いつの間にか目の前に横断歩道が迫ってきていて、赤信号になっていた。


千秋が慌てて足を止めて左右に頭を振ってしっかりさせた。

とにかく家に帰って、それから考えよう。

明日はいていく靴は別のものを出してきて……。



「お前、ふざけんなよ!」



不意に後ろから聞こえてきた怒号に体が震えた。

それはさっき公園から出てきた子供たちの悪ふざけする声だった。


だけど今の千秋にはその声が一浩の怒号に聞こえたのだ。

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