第18話
こんな時間からなにをしてるんだろう?
まさか、奈穂と同じように宿題を忘れたとかじゃないと思う。
一浩は宿題を忘れることくらいで、動揺するタイプじゃないから。
ということは、なにか他に理由があるはず……。
そう思って細く開けた隙間から覗いていると、一浩はマジックを片手に移動を始めた。
そして誰かの机にラクガキをはじめたのだ。
思わず「あっ」と声を上げてしまい、慌てて両手で口を塞いだ。
幸い、今の声は一浩には聞こえていなかったようだ。
一浩はまだ机にラクガキを続けている。
その机は千秋の机だとすぐにわかった。
なにを書いてるんだろう?
なんであんなことをするんだろう?
疑問は次々と浮かんでくるけれど、声には出せなかった。
黙ってジッと一浩の様子を見ていることしかできない。
声を出してしまえば最後、なにかとても悪いことが起こりそうで怖かった。
奈穂はしばらく一浩の行動を見守った後、そっとその場を後にしたのだった。
☆☆☆
「私が悪いんじゃない。私はなにも見てない」
トイレの個室で奈穂は何度も呟いて自分自身に言い聞かせた。
豊の万引も一浩のラクガキも、自分はただ目撃してしまっただけだ。
あんなの見たくなんてなかった。
奈穂が目撃したことは誰も知らないから黙っていればきっと嵐は去ってくれる。
そう信じていた。
思えば奈穂はクラス会のときなどでもなにも発言ができないタイプだった。
手を上げてあれがやりたい、これはどうだろうと言える生徒にすべてを任せていた。
そうして誰かが引いてくれたレールの上を歩いていれば、まちがいないからだ。
もしも自分でなにかを発言して、それで責任が生まれたらどうするの?
責任なんて取りたくないし、任せられたくない。
だからいつでも流れに身を任せてきた。
きっとほとんどの子たちが同じだと思う。
発言できるほんの一握りの生徒たちの任せておけばどうにかなると思っている。
だから今回もそうすることにした。
なにも見てない。
なにも知らない。
それが自分にとって1番安全だと感じたからだ。
それなのに、千秋が交通事故に遭う日の放課後、昇降口でバッタリ千秋と出会ってしまったのだ。
「あ……」
千秋の姿を見た瞬間奈穂の動きが止まる。
この頃にはすでにクラス内で起きているイジメに関しては有名になっていて、誰でも1度は目撃していた。
そうなったことで、一番最初にイジメを目撃してしまって黙っていた奈穂の罪悪感が薄れてきてもいた。
「奈穂」
運悪く千秋がこちらに気がついて顔を上げてしまった。
その上千秋の目には涙が滲んでいる。
またなにかされたのかもしれない。
奈穂はゴクリと唾を飲み込んですぐに千秋から視線を外した。
なにも気がついていないフリをして自分の靴を取り出し、履き替える。
そこで千秋は上履きのままなことに気がついた。
下駄箱へ視線を向けると、千秋の靴がなくなっている。
一浩がどこかに隠すか、捨てるかしたに違いない。
それを千秋はずっと探していたんだろう。
たった1人で。
一瞬胸がズキリと痛む。
こんなにちゃんと目撃してしまってそのまま帰るのはさすがに気がひける。
せめて『大丈夫?』と、声をかけるべきだ。
頭では理解している。
けれどここで声をかければ、今度は自分の身に恐ろしいことが起こりそうで怖かった。
もしも千秋に声をかけているところを一浩に目撃されたら?
次のイジメのターゲットは自分になるかもしれないんだ。
そう思うと怖くて唇を引き結んでいた。
急いで靴を履き替えて千秋に背を向ける。
千秋はなにかいいたそうな顔をしていたかもしれないけれど、そこから逃げるように大股で歩き出した。
背中に千秋の視線を感じる気がして、早足になる。
校門を出るころにはほとんど走っていた。
そうして家が見え始めた頃、奈穂はようやく足を緩めてふりむいた。
そこには帰宅途中の他の学生の姿が見えるだけで、千秋の姿はなかったのだった。
☆☆☆
「あの時千秋は靴を探すことができなかった。だから交通事故に遭ったときに、上履きのままだったんだよね? 私はその理由を知っていて、また何も知らないフリをしたの」
声が震える。
ナイフを握りしめている両手も震えて、汗が滲んでいた。
自分はなにもしてない。
確かになにもしてないかもしれない。
しなければならかったことまで、しなかったんだから。
豊の万引を目撃したときすぐに追いかけていれば。
そして千秋とふたりで説得していれば。
千秋へのイジメが誘発されることもなかったかもしれない。
一浩が千秋の机にラクガキをしているとき、勇気を出して教室へ入っていれば。
一浩へ向けて『おはよう』といつもの調子で声をかけることができていれば、一浩はラクガキを思いとどまっていたかもしれない。
そんなもしもの世界を、奈穂は自分の手でことごとく握りつぶした。
その結果、千秋は交通事故に遭ったんだ。
「ごめんね千秋。私はやるべきことをしなかった。自分の中でなかったことにして、記憶に蓋をしてた」
ナイフを握りしめた手がそっと持ち上がる。
怖くてどうしようもなくて、体中がガタガタと震えだす。
サッと血の気が引いて、座っているのに倒れてしまいそうだ。
それでもこうするしか道は残されていない。
時計の針はもうすぐ5時というところまで進んでいた。
外の景色は随分と白んできて、よく見えるようになってきている。
もう少しで朝が来る。
ここで私が自殺すれば、朝が来る……。
恐怖でヒクヒクと喉が引きつり、変な声が漏れる。
千秋はさっきからなにも言わない。
チョークも動かない。
けれど見ていることだけは確実だった。
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