第17話

☆☆☆


その日、1度家に帰った奈穂はキッチンに立っている母親から牛乳を買ってくるように言われて再び外へ出ていた。

右手にはエコバックと小銭の入った財布。


向かう先は大きなデパートだった。

近所には小型スーパーもあるものの、奈穂の家でいつも飲んでいる牛乳はデパートでしか売っていない商品だった。


白くてピカピカ光っている自転車にまたがり、軽快にペダルを踏む。

太陽の光はまだ優しく体を包み込んで、肌にあたる風も心地よかった。


これからどんどん気温が高くなってくるんだなぁと思うと、今からうんざりした気持ちになってくるけれど、今はその心地よさに目を細めた。


たどり着いたデパートの地下へ向かい、お目当ての牛乳をカゴに入れる。

ついでにチョコレートの試食を楽しんでレジへ向かった。


デパ地下では夕方頃から頻繁に試食を出しているので、奈穂はお使いをふたつ返事でOKしていたのだ。



甘いもの以外にもできたてのお惣菜や、ドリンクの試飲なども出ていて、あちこちから店員さんの声が聞こえてくる。

デパ地下を歩いているだけでお腹がいっぱいになってしまいそうだ。


そんな中でも今日試食したチョコレートは奈穂のお気に入りだった。

ちょっと高級なチョコレートなので普段は滅多に口に入らないのだけれど、誕生日になればここのチョコレートケーキをおねだりしている。


口の中に残る芳醇な甘い香りを楽しみながらレジを通り、1階へ向かう。

せっかくここまで来たのだから他にも色々見て和まりたいけれど、残念ながらそんな時間もお金もない。


きらびやかなな店内で目移りしてつい立ち止まってしまいそうになる中、早足で出口へ向かう。

と、そのときだった。


見知った顔を見つけて奈穂の歩調が緩まった。

香水コーナーに立ち止まっているのは奈穂と同じ中学の制服を着た生徒だ。


誰だろうと思って近づいてくと、同じクラスの豊であることに気がついた。



豊が香水コーナーでなにをしてるんだろう?

好奇心から奈穂はその場に立ち止まって様子を伺っていたのだ。


豊から香水の匂いがしてきたことはないし、香水に興味があるようにも見えない。

なによりも、豊が今見ている香水はブランド品で、相当高級品なのだ。


中学生が購入できるような商品じゃない。

なにをしてるんだろう?


そう思って首をかしげた時、店員の目がそれた瞬間を見計らったように豊の手が展示されている香水に伸びた。

そして躊躇なくカバンの中にそれを入れる。


一瞬、奈穂はなにが起こっているのかわからなかった。

豊が万引するなんて少しも考えていなかったからだ。


豊はしばらくの間にその場に留まって商品を見る素振りを見せてから、そのまま店を出ていってしまった。

レジは通さなかった……。


☆☆☆


帰り道、自転車をこぎながらも奈穂の心臓はドキドキしていた。

クラスメートが万引する瞬間を目撃してしまい、動揺もしていた。


豊はどうしてあんなものを盗んだんだろう。

本当に欲しくて盗んだのかな?


奈穂には豊がどうしても欲しくて盗んだようには見えなかった。

それに、豊の家は確かとても裕福だったはずだ。


考えれば考えるほどに奈穂の心は沈んでいく。

豊の万引を目撃してしまってからしばらく店内に残っていた奈穂だが、結局豊がお店に戻ってくることはなかった。


そして外に出たときにはもう豊はいなかったのだ。

目撃したことを誰かに相談した方がいいんだろうか……。


そう思っている間に家についた。



「ただいまぁ」



暗い気持ちでキッチンへ向かう。



「あら、そんな顔してどうしたの? 試食がなかった?」



夕飯を作っている最中の母親がすぐに奈穂の変化に気がついた。

出かけるときには機嫌が良さそうだったのに、今はとても暗い顔をしているからだ。



「ううん、あったよ」



答えながらエコバッグから牛乳を取り出して冷蔵庫へしまう。



「じゃあなにかあった?」


「あのねお母さん……」



そういいかけたけれど途中で口が止まってしまった。

ここで本当に万引を目撃したことを話していいんだろうか。


話せば、なにか恐ろしいことが待っているような気がして言えなくなってしまった。



「どうしたの?」


「……ううん、なんでもない!」



奈穂は結局なにも言えずに、母親からなにか質問をされる前に自分の部屋に逃げたのだった。



それから奈穂は万引を目撃したことを、他の誰にも言えていなかった。

毎日が忙しく過ぎ去っていき、豊の万引のことなんて忘れてしまいそうになったときのことだった。



「あ~あ、こんなに早く学校に行くなんてめんどくさいなぁ」


「仕方ないでしょう? 今日提出の宿題を学校に置き忘れた奈穂が悪いんだから」



朝早い時間に置き出した奈穂は怠慢な動きで朝食を食べていた。

実は昨日、寝る前に宿題をしようと思ったけれど学校に置き忘れてきてしまったことに気がついたのだ。


今から学校へ行っても門がしまっていて中に入ることはできない。

だから今日、朝早くに学校へ行って宿題をするはめになってしまったのだ。


普段ならもっとゆっくりできる朝が、今日は慌ただしかった。



「こんなに忙しい朝が嫌なら、忘れ物をしないことね」



奈穂のために一緒に早起きをして朝食を作ってくれた母親に「はぁい」と気だるい返事をして学校へ向かう。

いつもの通学路を歩いていても犬の散歩をしているおじいさんも、早足で奈穂を追い越していくサラリーマンもいない。



人の姿も車の台数も少なくて、なんだか不思議な感覚がした。

見慣れた景色なのに、別世界にいるみたい。


そう思うとなんだか楽しい気持ちになってきて、奈穂はスキップするように学校へ向かった。

こんな早い時間だから門が開いているかどうか心配だったけれど、門はすでに開いていた。


職員室と事務室の明かりもついている。

人がいたことにホッとすると同時に、今から宿題をするのだと思うと重たい気持ちになってくる。


お母さんが言う通り、今度は絶対に忘れ物なんてしない。

そう心に誓って階段を上がっていく。


そして2年B組の教室まできたとき、中から物音が聞こえてきて奈穂は立ち止まった。

こんな早い時間に生徒が来ているとは思えないから、きっと先生がなにかしてるんだな。


そう思って薄くドアを開いて中を覗き見た。

そこにいたのは先生ではなく、クラスメートの一浩だったのだ。


一浩はクラス内でも派手な乱暴者で有名で、学校に遅刻してくる常習犯だった。

そんな一浩がすでに登校してきていることに驚いて奈穂は目を見開いた。

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