第10話

奈穂が時計へ視線を向ける。

時計の針は動いているはずなのに、一向に時間が進んでいない。


まるでスローモーションの部屋にいるようだった。

今の時刻は3時5分になっている。


この時計は明らかにおかしかった。



「そんな……」



珠美がまたその場に座り込んでしまった。

奈穂も、豊も椅子に座り込む。


重たい沈黙が3人にのしかかってくる。

このまま無言の中で時間だけが過ぎてくれればいいのに、それすら敵わない。


やがて豊の呼吸が荒くなっていることに気がついて奈穂が顔を上げた。



「豊、どうしたの?」


「別に……なんでもない」



答える豊の顔は真っ青で、大粒の汗を流している。

明らかに様子がおかしい。


妙な空間に長時間いたことで体調が悪くなってしまったのかもしれない。

そう思って近づいたとき、豊の首に血がついていることに気がついた。



「豊、血が……!」



奈穂の言葉に珠美も駆け寄ってきた。



「さっき、ちょっと切れてたんだ。大丈夫だと思ったけど、思ったよりも傷が深いのかもしれない」



豊は荒い呼吸を繰り返しながら言う。



「このままじゃまずいよ。出血をどうにかしないと!」



そういうものの、この教室内にはなにもない。

教科書もノートも体操着もなにもない。


珠美が弾かれたように教卓へ向かい、ナイフを手に取った。



「珠美なにするの?」



奈穂が咄嗟に声をかける。

珠美は返事をせずにナイフでスカートの裾を切り裂いた。



「これで止血して」



スカートの切れ端を受け取った豊はそれを傷口に押し当てた。



「ねぇ珠美、ちょっと」



青ざめている豊から距離を取って奈穂は気になっていたことを話しだした。



「豊がこのまま死んだりしたら、どうなると思う?」


「やだ、そんなこと考えたくない」



珠美は左右に首を振る。



気持ちはわかるけれど、今は目をそらしていてはいけない。



「一浩は千秋が言っていた手順を踏んだから外に出られたのかもしれない。でも豊は違う。死んだからって外に出られるとは思えないよ?」



奈穂の言葉に珠美がしゃくしあげた。

さっきから頬を涙が伝い落ちている。

自分でも制御できないのかそれは次から次へと流れ落ちた。



「じゃあ、豊はどうすればいいの?」


「ここにいるってことはなにか告白しないといけないことがあるはずだよ。それを、言ってもらう。そうすればきっと、豊も外へ出られるんだと思う」


「本当に? 一浩は本当に外に出られたと思う?」



その質問に奈穂は答えられなかった。

でも、今は千秋の言葉を信じる以外に方法はない。



「一浩の体は教室から消えたよね。だからきっと出られたんだと思う」


「それじゃどうして一浩は迎えに来てくれないの?」


「それは……」



きっと、ここが異空間だからだ。

現実の学校じゃないから、一浩は助けたくてもここへ来ることができずにいる。


そう、思いたかった。



それをそのまま珠美に伝えると、珠美はうつむいて左右に首を振った。



「そんなのただの都合のいい願望じゃん」


「そうだけど、でもそう思わないとやっていけないじゃん!」


「私はそんなの信じない。少しずつでも時間は進んでるんだから今のままでいい」



奈穂はまた時計に視線を移動させる。

3時6分。


全然進んでいない。

このまま朝になるのを待つことなんてできない。

ここへ来てから飲まず食わずで、トイレにだって行けていないのだ。


これほど歩みの遅い時間の中、どれだけ我慢できるかもわからない。



「珠美、どうしてさっきから否定的な意見ばかりなの?」



聞くと珠美は一瞬ギクリとしたように体を震わせた。

手の甲で涙を拭って「別に、否定的じゃないよ。こんな、わけのわからない空間だから保守的にもなるよね?」と言った。

そうなのかもしれない。


だけどさっきから会話をしていると、まるでここから出たくないようにも感じられてきてしまう。



「本当にそれだけ? 早く外へ出たいよね?」



「当たり前じゃん!」


「それなら待ってるよりも行動に移したほうがいいよね?」



珠美はまた黙り込む。

今度はムスッとした表情で腕組みをして、明らかに不機嫌そうだ。


青ざめたり泣いたり怒ったり、珠美はさっきから不安定みたいだ。

こんな場所にいるのだから仕方ないという気持ちと、なにかおかしいという気持ちが交互にせめぎ合う。



「とにかく、豊をこのままにはしておけない」



奈穂はそう言うと珠美から離れたのだった。

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