第8話

小さな声で呟いたのは豊だった。

豊の顔には疲れが滲んできていて、大きくため息を吐き出した。


一刻も早くこの不可解な教室から脱出したい。

それはここにいる全員の願いだった。


だけど出ることができない。

出口はどこにもない。


だから助けを待つしかないのに、今度は時間が止まってしまったのだ。

つい、死が脳裏にかすめても仕方ないことだった。



「死ぬなんて言わないで!」



珠美が青い顔をして叫び、「ごめん」と豊が小さな声で謝る。

するとそこで沈黙が落ちてきた。


みんななにも言わない。

どうにもできない八方塞がりな絶望感に支配される。



「俺が自殺すれば、時間が進むのか?」



沈黙を破ったのは一浩だった。

奈穂がハッと息を飲んで一浩へ視線を向ける。



一浩の手にはまだベッタリとナイフが張り付いていて離れそうにない。

その顔は青ざめて、ナイフをジッと見つめていた。



「一浩しっかりして。なにか方法を考えようよ」


「方法ってなんだよ!?」



奈穂の言葉に一浩が怒鳴る。

奈穂はビクリと体を震わせて黙り込んでしまった。



「方法はひとつしかねぇ。俺がこのナイフで死ぬことだけなんだろ!?」



その言葉は3人以外の誰かに向けられていた。

ここにいるはずの、見えない千秋へ向けて。



「くそっ! なんでこんなことになるんだよ!」



一浩がふらふらと教室後方へ向かう。

その後ろ姿を奈穂はなにも言えずに見つめた。



「ごめん、一浩」



そう言ったのは豊だった。

奈穂は驚いて豊へ視線を向ける。

豊の目はまっすぐに一浩へ向けられていた。



今の『ごめん』に込められている意味は、考えたくなかった。



「ごめんなさい……」



珠美も震える声で呟き、床に座り込む。



「待ってよみんな、なに言ってるの」



絶対に他になにか方法があるはずだ。

こんなひどいことをする必要はない。

そう思って一浩に近づこうとしたとき、一浩が振り向いた。


ナイフの先端は奈穂の方へ向いていて、奈穂はひるんで立ち止まる。



「俺に近づくな。あまり、見たくもないだろ?」



その言葉に返す言葉もなかった。

一浩はもう覚悟を決めているんだ。


そう理解すると、奈穂はもうこれ以上足をすすめることができなかった。

一浩がナイフを自分の首元へ持っていく。


奈穂は無意識の内に視線をそらせていた。



「俺が死んで時間が経過したら、ちゃんと死体を処理してくれよな」



一浩はそう声をかけると右手に力を込めた。

最初にチクリと痛みが首筋に走る。



「うわああああああ!!」



後は絶叫しながら恐怖をごまかしてどうにかするしかなかった。

千秋をイジメていたことが原因でこんなことになるなんて思わなかった。


イジメの原因は千秋のカンニングを知ったことだったけれど、それだけであそこまでする必要はなかったと、今では思っている。

カンニングしているのなら先生に相談をすればよかっただけのことだった。


そんなことにも気が付かなかったなんて……。

一浩の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。



「千秋……ごめんな……」



一浩はそう呟くと、その場に崩れ落ちたのだった。



教室の後方で一浩はたしかに自分の首にナイフを突き立てた。

その場に倒れ込んだところまではわかったけれど、静かになって視線を向けてみるとそこに一浩の姿はなかったのだ。


床にあったのは灰だけで、それも一分もしない内に消えて言ってしまった。



「今のはなんだったんだ?」



一浩の体が消えていく一部始終を見ていた豊が驚愕の声を上げる。



「わからない。消えたよね?」



奈穂が一浩が立っていた場所に近づいても、そこにはなにもなかった。

あのナイフも、いつの間にか教卓の上に戻っている。



「どういうこと!? なんで一浩はいなくなったの!?」



半分パニック状態の珠美が座り込んだまま叫び声を上げる。

すぐに豊がかけつけた。



「大丈夫。きっと、大丈夫だから」



珠美を慰めながらも、豊自身もなにが起こったのか理解できないままだった。

どうして一浩の体が消えてしまったのか、わからない。


でもこの教室ではありえないことばかりが起こっているから、それを受け入れるしかなさそうだった。



「一浩は死んだ……んだよね?」



奈穂が呟くと、またチョークが空中へ浮かんだ。

3人の視線が一斉に黒板へ集まる。


カッカッと文字が書かれていく様子をかたずを飲んで見守る。



「一浩は外へ出ることができた……? どういうこと?」



書かれた文字を声にだして呼んで奈穂が首をかしげる。

黒板には確かに『一浩は外へ出ることができた』と書かれている。



「自殺すれば外に出れるってことか?」



ハッと気がついたように豊が呟く。

そうなんだろうか?


でも、外へ出ることができたという保証はどこにもない。

一浩との連絡手段はないのだから。



「千秋の言うことなんて信じられない!」



珠美が叫んで頭を抱える。

さっきよりも震えが強くなっているみたいだ。



「珠美落ち着いて。一浩は外へ出られたかも知れないけれど、私たちはまだここにいるんだから」



奈穂が時計に視線を向けると、時間はまた進み始めていた。

それを確認してひとまずホッと息を吐き出す。


一浩が罪を認めて自分を罰したから、時間が進み始めたのかも知れない。

そうなると……と、残っている珠美と豊に視線を向ける。


このふたりも同じようになにかの罪を認めて罰を受ければ外に出られるんじゃないか?

そんな風に考えたのだ。


けれどすぐに左右に頭を振ってその考えを否定した。

珠美や豊が千秋をイジメていたところなんて見たことがない。


ふたりとも真面目な生徒だからこんなところに閉じ込められる原因はないはずだ。

もちろん、自分にだって……。


じゃあ、これから先はどうすればいいんだろう?

奈穂は一浩が消えた場所をジッと見つめた。


一浩は確かに派手な生徒だった……。


☆☆☆


「やーい! お前っていつもトロいなぁ!」



それは一浩が小学校4年生の頃だった。

同級生よりも体が一回り小さな一浩は、いじられるターゲットになることが多かった。



「返してよ!」



同級生に奪われた体操着袋を奪い返そうと、必死で手をのばす。


けれど同級生と一浩は一回りも体格差があり、どれだけジャンプして見ても、伸ばされた手に掴まれている袋には届かなかった。



「チービ! そんなんだから女子と間違われるんだよ!」



よく日焼けしている同級生に対して、一浩は華奢で色白だった。

元々あまり日焼けしないタイプで、成長も遅かったことから本当に女子と間違われることも多かった。


それは一浩が一番気にしていたことだった。

今なら男だからって男らしくしていないといけないことはないんだとわかる。


だけど当時の一浩はまだ小学生で、女みたいだと言われて笑われることが悔しくて仕方なかった。



「返せよ! 返せ!!」



それでも手は届かない。

どれだけ頑張っても追いつけない。


クラスメートたちはそれを見てみんなで笑っている。

一浩が叫べば叫ぶほど、おもしろそうに笑う。


一浩の体操着袋はまるでボールみたいにあっちにこっちに投げられて、そのたびに一浩は走り回った。



「返せってば!」



両手を伸ばしてつかもうとした瞬間、今度は足をひっかけられた。

派手に転んであちこちに痛みが走る。


けれどそれを助け起こす生徒はいない。

一浩がこけた瞬間大きな笑い声が教室内に沸き起こった。


みんなが一浩を見て笑っている。

見下して、蔑んで、バカにして、笑っている。


一浩よりも小柄な女子生徒もみんなと同じように笑っていた。

この世界では強い者が勝って弱い者が負けるんだ。


それを、このときに一浩は知った。

だったら強くなってやる。

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