41 少女は少年に「奇跡」を与える

『ユーリス殿下、本日はフォレノワール伯爵がいらっしゃいます』


 侍従兼教育係のダーレイがいつもどおりの退屈極まりない予定を読み上げる中に、その一言が加わるとふしぎと気分が晴れやかになった。


『……ダーレイ、三時にお茶とお菓子を用意してくれる?』


 幼い主人の声に、若き侍従はかすかに目を瞠る。

 ユーリスはたいてい気のない表情で、そう、とこぼすだけで特に反応を示すことがなかった。可愛げのない、子供らしからぬ子供――それがユーリス・モレットだ。


 それがいまは、どうだ――頬を紅潮させ、アイスブルーの右目を明星のようにちかちかと瞬かせている。まるで「普通」の子供のように見えた。

 かしこまりました、と言いながらも驚きを隠せないようすのダーレイに、ユーリスは「クリームたっぷりのシャルベリーケーキがいいな」と付け加えて微笑んだ。



『おいしぃ!』

『エリー、口にクリームがついてるよ』


 午後三時――サフィルス宮殿のサンルームに、真っ赤なドレス姿の少女と彼女を見守るユーリスの姿があった。真っ白な布巾サーヴィエットで口元をぬぐってやるなどして何かと少女の世話を焼くユーリスを前にして、給仕したダーレイは固まっていた。

 例によって、皇帝に呼ばれていると理由をつけてヴィオラは外しており、ユーリスのもとにふたたびエリーが預けられたのだった。

 

 まるで兄妹のように睦まじいようすを見て立ち尽くしていたダーレイは、いつのまにか退出していた。「あのユーリス殿下が」と、使用人たちのあいだで大げさに話していることだろう。

 始終見張られていたのでは人見知りのエリーが落ち着かないので有難い。


『好きなだけ食べていいんだよ』

『ほんとぉ? えへへ、嬉しいなぁ……』


 真っ白なテーブルクロスの上にずらりと並んだ菓子はユーリスが考えていたよりもはるかに多かった。

 ふわりとバターの香りが漂う焼き立てのスコーンにはクロテッドクリームを添えて。カラフルな色味のマカロン、愛らしくアイシングされたクッキーがティースタンドに所狭しと並んでいる。

 ユーリスが好まない酢漬け野菜ピクルスの代わりに、鮮やかなオレンジ色のキャロットケーキと濃厚なパンプキンプディングがワンホールずつ。


『すごぉい、このケーキ、おひめさまみたいだね……!』


 きゃっきゃとエリーがはしゃいだ声を上げる。

 なめらかなクリームでドレスのように着飾ったシャルベリーケーキは、サフィルス宮殿の厨房における製菓担当者パティシエの得意なケーキだった。


『うん……エリーみたいで可愛い』


 エリーの瞳にそっくりな真っ赤な果実と、波打つ髪のような純白のクリーム。

 ユーリスはどうしてもこれは、エリーに食べさせたかったのだ。


『えりぃ……おひめさまみたい?』

『エリーは僕のお姫様だよ』

『わぁい、おめさまっ……!』


 言い間違えたことにも気づかずに喜ぶエリーのようすを見て、くすと笑みがこぼれた。エリーがそばにいると、からからに渇いた心が満たされるような心地になる。


 用意された菓子は子供二人分にしては明らかに多すぎて、どれほど頑張ったとしても食べきれるはずがない。ユーリスなどは見ただけで胸焼けしそうなくらいだった。

 でも頬張った途端、真っ赤な瞳を輝かせて「おいしい!」と喜んだエリーを眺めていると、ユーリスもすこしは食べてみようかという気にもなるから不思議だ。ひとくち齧ればふだんひとりきりで食べる菓子よりもずっと甘く、香ばしい。

 余計に胸がいっぱいになってユーリスはもうこれ以上食べられなくなった。エリーを眺めている方がずっと楽しく、嬉しい。


「あちち……」

「ゆっくりね、蜂蜜を溶かしても甘くて飲みやすくなるよ」


 お菓子のお供にはグレイスローズの華やかな香りづけがなされたハーブティーと、たっぷりのミルクと蜂蜜。

 柔らかなひだまりの中で、エリーと過ごすひとときはユーリスがいままで生きてきた短い人生の中において最も幸せな時間だった。


『ゆーり、あのね、おめめだいじょうぶ……? もういたいのない?』

『――うん、痛くないよ。エリーのおかげだね』


 エリーはユーリスのことを「ゆーり」と呼んだ。ユーリス、と言おうとすると「ゆーりしゅ」になってしまうから、「ユーリ」でいいよと促したのだ。

 そんなふうに呼んでくれる相手はエリーを除いて誰もいない。


 この世界でたったひとりの僕の友達。

 

『よかったぁ……ゆーり、いたいのやだから、よかったぁ』


 へら、とふにゃふにゃの顔をしてエリーは笑うからユーリスも思わず力が抜けて笑ってしまう。椅子からすべりおりると、軽い足音を立ててエリーがユーリスの目の前に立った。


『きょうも、おめめのとこなでなでするね!』

『えっ……? もう痛くないから、大丈夫だよ』


 包帯をぐるぐる巻きにしているが怪我をしているわけではないのだ。ただ――皆が、紅い眼を嫌うから。

 どうしてエリーのはこんなにも綺麗なのに、ユーリスのは「汚れ」ているのだろう。


『なでなで!』


 断っても、エリーは頑固にやると言い張った。仕方がない。エリーの手が届くようにユーリスは椅子から飛び降りた。


『……はい、どうぞ?』


 エリーは満足げに頷いた。そっと伸ばされたエリーの手がユーリスの眼球のうえあたりに触れた。じわ、と優しい温もりが瞼越しに伝わってくる。


『ゆーりが、いたいのなくなりますように』


 この声を聞くと泣きたくなるのは何故だろう。この温かさに触れると胸がぎゅっと締め付けられるのはどうしてだろう。

 そんなはずはないのにエリーの指先から、何かが流れ込んでくるような気がした。あたたかくてやさしくて気持ちがいい。

 少女の願いの結晶のようなそれ。


『エリー!』


 そのとき、ヴィオラがサンルームに駆け込んで来た。慌ててユーリスからエリーを引き離す。


『……し、失礼しました。殿下、何かご気分が悪くなってはいませんか?』

『いや……? 特に何も感じないよ』

『ぱぱ、どうしたの……?』

『いや、なんでもないんだよ。だめじゃないか、ユーリス様は皇子様なんだ。エリーが勝手に触っちゃだめなんだよ』

『どおして……?』


 ヴィオラはなだめるようにエリーの髪に触れていた。

 そのときはっとしたようにユーリスに向き直った。


『殿下! その……申し訳ありませんが、包帯を外させていただいてもよろしいでしょうか』

『ヴィオラ……?』


 何故フォレノワール伯爵がこんなにも焦っているのか、ユーリスには理解できなかったが理由もなくそんなことを言うような人物ではない。承諾を込めて頷くと、伯爵は慎重な手つきで包帯を外し始めた。

 エリーは無垢な瞳でそのようすをじっと見つめている。


 ユーリスの左目を見て、エリーはなんと思うだろうか。

 じぶんとおなじだ、と言って喜ぶだろうか――もしくは左右で色が違う目が不気味だ、と泣いてしまうかもしれない。そうしたらもうエリーは、ユーリスに笑いかけてはくれないかも。


『ヴィオラ、だめだ、やめてくれ……っ!』


 嫌だ。エリーに嫌われたくない。

 思わず叫んでいたがもう手遅れだった。


 はらりと、解かれた包帯が床に落ちる。ヴィオラはユーリスの左目から躊躇することなく眼帯を外した。


『……っ』


 息を呑む気配がした。もともと色白なヴィオラの顔が真っ青だった。

 よほど醜悪に見えるのだろうか。いびつで実の父母さえも疎むような化物の子だと、再認識したのか――。


『きれい……!』


 エリーが歓声を上げた。

 何を言っているのか、ユーリスはわからなかった。なにがきれいなんだ――? エリーは何を見ているんだ?

 いくら彼女の視線の先を辿っても、そこにはユーリスしかいなかった。


『ゆーりのおめめ、おそらのいろ、おみずのいろ、こおりのいろ! きれい』

『エリー……?』


 ヴィオラが、何も言わずにユーリスにすっと手鏡を差し出した。

 覗き込めば、そこには――あおの双眸の少年が映っていた。


 紅く染まっていた左目の虹彩は、右目とおなじあおに染まっていた。

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