40 少女は少年に「 」を与える

『このこ、だあれ……?』


 七歳のユーリスに引き合わされたのは、舌ったらずな喋り方をする子供だった。


 遊び相手にでもしてやってください、と言ってフォレノワール伯爵は優美な微笑を浮かべる。手を引かれ、無理やり宮殿に連れて来られたらしい白銀の髪の少女は一目でヴィオラの娘だとわかった。

 心細げに父の脚にしがみついて、びくびくとユーリスを見つめている。


 初めての場所に緊張しているのか涙の膜が張った瞳は、ユーリスの左目とおなじ紅だった。


『エリー、このお方はユーリス様。この国の皇子様なんだよ』

『しょうなの? しゅごいねぇ……!』


 口を開けた笑うと乳歯の抜けた不格好な歯並びがあらわになった。


 ユーリスがそんな喋り方をしたならばすぐに教育係が間違いなく定規で手の甲を叩く。そして、あの紛いものは、と隠れて囁き合うのだ。

 母の腹を借りて生まれた悪魔の子、そんなふうにヴィーダ帝国教会の敬虔な信徒である使用人がしばしば口にしていたけれど、咎める者は誰もいなかった。


 第二皇子ユーリス・モレットは、生まれつき身体が弱かった。

 その年ごろの子供らしく皇宮の庭を犬と駆けまわることもできないし、やがて始めねばならなかった皇子の務め――剣術をはじめとした武術訓練にはそのひ弱な身体では耐えられないだろうと言われていた。


 ぜえぜえと喘鳴を伴う苦しげな呼吸が夜通し続き、ときには吐血することもある。

 ヴィーダ皇室の高貴な血を受け継ぐ子は、原因不明の病に蝕まれてはえずき、回復したと思えばすぐ身体を壊した。


 皇帝はそんな第二皇子を、静まり返ったサフィルス宮殿に閉じ込めて、隠した。自分と似てはいない、第一皇子の替えでしかない子供に構っている時間などなかったのだろう――ひとにも見せず奥深くに仕舞い込み、必要最低限の使用人をつけて、そのまま忘れた。


 ユーリスは、帝国にとってさほど価値がない子供ものだった。


 皇后も第一皇子という完成品が既に居たからか、出来損ないの存在ことは極力考えないようにしている。時折、罪悪感に駆られて「顔を見に来たの」と二言三言話しかけてぎこちなく見舞うくらいで、それも次第に遠のいていった。


 唯一、ジェスタ第一皇子だけが、頻繁にユーリスのもとを訪れ、一緒に積み木で城を組み立てたり、本を読んだりしていた。なにか特別な話をして絆を深めたわけでもないし、秘密の冒険に繰り出したような記憶もない。


 黙々と、ときには視線さえも交わさずにただ同じ場所にいるというだけ。


 さらさらとカーテンを揺らす風の音さえ聞こえる沈黙の中で、幼い兄弟はふたりで過ごした。誰もがユーリスのそばにいることさえ嫌がるのに、ジェスタだけは「悪魔の子」をただの「弟」として扱った。



『ユーリス殿下』



 ヴィオラに呼ばれ、身の内に沈んでいた思考から引き上げられる。すこしぼんやりしていたようですが、と気遣うような視線が向けられていた。


『今日のお加減はいかがですか?』


 顔を合わせるたびに投げかけられる、もはや恒例となった質問だ。

 ヴィオラ・フォレノワール伯爵は、ユーリスの眸のことで呼び出されて以来、皇帝から何かと相談事を受けるようになっていた。

 それに合わせてサフィルス宮殿にいるユーリスのもとを見舞うのが常だ。


 変化に乏しい生活をしているユーリスは最近読んで興味を持った本は、といったような当たり障りのない話しかしないが、ヴィオラの話すフォレノワール州の話は興味深かった。


 北ラースティン大陸の西端、異民族である月影の民がかつて暮らしていた小さな領地。

 人間よりも家畜の頭数の方が多いとされ、月女神ディアナというヴィーダ帝国教会の「神」とは別の存在を崇め奉っているらしい。

 いまフォレノワール州に住んでいるひとのなかにはほとんどいないが、かつての月影の民は皆、ヴィオラのような白銀の髪と紅い眼をしていたのだそうだ。

 ヴィオラの話から興味を持ったので今度、書庫で地図や歴史書でも見てみようと思っていた。


 そんなふうに交わす雑談をヴィオラが「治療」と称していることをユーリスは知っていた。それにかこつけて彼は訪ねて、時には差し入れと称して宝石のように美しい飴玉キャンディを持って来てくれた。

 ヴィオラはユーリスの周りにはほとんどいない、純粋にユーリスのことを気にかけてくれる大人だった。


『……悪くはないよ。でも』

『それはよかった! 私、実は陛下に呼ばれているのです。エリーをよろしくお願いますね』


 そう言ってヴィオラはユーリスの部屋から出て行った。

 待って、と声を掛ける隙さえ与えられなかった。まさかとは思うが子守をさせるつもりなのだろうか。忌子と蔑まれろくな扱いを受けてきていない自分に――とてもじゃないが、正気とは思えない。


 乳母もメイドも気味悪がって寄り付かないから、ユーリスはたいていひとりぼっちだった。


 朝も昼も夜も。


 必要最低限の世話を焼かれ、必要最低限の教育を施し、必要最低限の声を掛ける。だから、この謎の生きものと一緒に放置されてもしょうじき扱いに困るのだ。


 茫然としていると、エリーと呼ばれていた少女がユーリスの服の裾を「ねぇねぇ」と引っ張った。


『どうして、おめめがぐるぐるなの?』


 左目に巻きつけた包帯のことを言っているらしい。


 紅い眸が気味が悪いと泣き喚いたメイドによって、眼帯をつけさせたうえに何かを封じるよう幾重にも重ねられたものだ。他の使用人たちは常軌を逸した彼女の行動に呆れていたが、彼らの表情からはかすかに安堵の色が見て取れた。


『これはね……』


 言いかけて迷った。

 彼女の瞳もおなじ赤眼だ。ヴィオラいわくフォレノワール一族ではこれが「普通」なのだという、忌まわしい呪いの眼。


 ユーリスとよく似た、血のように紅い……――否、違う。


 エリーの赤い虹彩は、きらきらと星屑を散りばめたように輝いていて、涙で濡れたように潤む彼女の双眸は熟した果実のように瑞々しかった。


 同じはずなのに、綺麗だと思った。


『おうじさま、おけがしているの? いたいのは、や、だね……?』


 人見知りなのかびくびくしているようなのに、エリーはユーリスを心配している。初めて会った相手にどうして心を砕けるのか、ユーリスは理解できなかった。

 

 おずおずと目を覆う包帯に小さな手が触れる。



『おうじさまいたいの、えりぃもやだから、よくなってね……』



 なでなで。よしよし。子供じみた仕草と言葉でユーリスを慰撫する。



 母はユーリスに触れようとしなかった。

 父はユーリスを見ようとしなかった。



 見ず知らずの少女は、ユーリスを食い入るように見つめ、心に触れた。



 エリー、フォレノワールの娘。

 ユーリスの左目と同じ色の瞳を持つ少女。



「おうじさま、なかないで……? いたいの、すぐによくなるよ」



 じわりと目の奥が熱くなったのはわかったが、ユーリスは自分がどんな顔をしているのかはわからなかった。


 ただ喉奥から獣の咆哮のような嗚咽が上がっていた。

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