39 婚約の裏で -3-
さて、婚約者殿のもとでも訪ねるとするか。
廊下を歩いていると先ほどエリーシャの妹だと紹介された少女とばったり行き会った。
「やあ。君は確か、サエラ嬢だね」
「……あなたは、泥棒さんですね」
サエラはユーリスを敵意をあらわに睨みつけた。
予想外の反応に驚いていると、ふいと顔を背けて足早に歩き去った。
いつのまにか嫌われてしまった理由を考えながら進んでいくと、角を曲がった先で部屋に入っていくエリーシャの背中が見えた。
おそらくあそこが彼女の自室なのだろう。許可を得るためにノックしたが返事はない。無断で部屋に踏み入る躊躇いはあったが、中で倒れているの可能性もある。どうせ自分たちは婚約するのだしといくつか言い訳を思いついたところでドアを開けた。
「エリーシャ?」
真っ先に大きな窓が目に入った。わずかに開いているのか、カーテンがひらひら揺れている。
部屋の奥に目を向ければ、天蓋付きの寝台の上で倒れるようにして眠っているエリーシャがいた。着替えてもいないらしく、昼食のときに着ていたブルーのドレスのままだ。
抱き枕のようにもこもこの毛玉――グルルとかいう仔羊を抱えてすうすう寝息を立てていた。
「……おまえが僕の婚約者と寝所を共にしているとはね」
羊に先を越された、というのも中々に腹立たしい。
起こさないように注意しながらベッドに腰かけ、寝顔を覗き込んだ。ユーリスといるときに見せるようなひきつった笑みを浮かべるでもなく、穏やかな表情をしている。
ユーリスが見てわかるほどにひどく緊張していたから疲れたのだろう。
しばらくのあいだ、うっかり見惚れて眺めてしまっていたがこうして盗み見ている罪悪感めいたものがちくりと胸を刺した。
「――いい夢を、エリーシャ」
ぎい、と寝台を軋ませ身体を倒す。
かすかに乱れたエリーシャの前髪の合間に、ちらりと見える額にユーリスはキスを落とした。
『ねえ、どうしておめめがぐるぐるなの?』
くちづけた瞬間、流れ込んできた情報の洪水の切れ端が、ユーリスのどこかに引っかかり、堰き止められる。
あどけない少女の声音――遠き日の記憶。
月光のように眩くひかる髪と、熟れた果実の瞳。
自らの中に埋もれていたそれと、いまユーリスに浸透したエリーシャの記憶のかたちがぴったりと重なる。思わず声を上げないように口を押えた。
まさか――そんなことがあるわけない。
そのとき身じろぎした羊と、目が合った。め、と憐れむようなまなざしを向けられて思わずベッドから離れていた。それが呼び水になったのかエリーシャが「グルル?」と仔羊を呼んだ。
「誰か此処にいるの……もしかして、サエラ?」
めえめえ仔羊が騒ぎ始める前にユーリスは部屋を飛び出ていた。足早に与えられた客間に飛び込んで背中でドアを閉め――そのままずるずると力なく座り込んだ。
「なんだっていうんだ、いったい……」
ユーリスのぜんぶが心臓そのものになったみたいに、全身が熱く激しく鼓動している。
開いた唇からこぼれた息まで熱を帯びて、なにがなんだかわからなくなった。
この感覚をユーリスは知らない。
いままで感じたことのないほどの高熱がじわじわと滲んで身体を支配するのを感じていた。
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