05 フォレノワール伯爵家の秘密
その知らせがフォレノワール州の領主である伯爵家に届いたのは、社交シーズンが終わってすぐの初秋のことだった。
帝都から領地に戻り、ほっと一息吐く間も与えられず、呼び鈴が鳴らされた。
執事が書状を持って書斎に向かい、エリーシャが父のフォレノワール伯爵のもとへと呼びだされるまではほんのわずかな間しかなかった。
至急の呼び出しを受け、着替える余裕もなく父のいる書斎へ向かうと漆黒のドレスに身を包んだ長身の女性が窓の方を向いて立っていた。
「お父様」
声をかけると、窓辺に立っていた女性がゆっくりと振り返る。
身体にぴったりと沿うようなデザインのシルエット、精緻なレースをあしらったデコルテが美しい。濡れた果実のような赤い双眸に、月光の煌めきを放つ銀髪が映えていた。
「可愛いエリー、どうぞこちらにいらっしゃい」
低めの声で囁くように言って、たおやかな花の微笑を浮かべたフォレノワール伯爵が娘を手招きした。
「今日もお綺麗ですね」
あら、ありがとうと伯爵は笑う。
ヴィオラ・フォレノワール――淑女の装いをしているがれっきとした男性であり、正真正銘、フォレノワール家の現当主である。どこをどう見ても女性にしか見えない父の姿を幼いころから見てきたので、違和感すらおぼえない。
帝都で政務に就くときや、社交をするときは主に男ものの衣服を身にまとい銀髪はさりげなく一つ結びにする程度だが、自らの領地であるフォレノワール州に戻ると今日のような女性もののドレス姿で執務に勤しむことのほうが多い――帝都で女装をすることがないのは、余計な混乱を抱かせないための配慮なのだろう。
おおらかなフォレノワールの民は、どちらの姿の伯爵も受け入れ「ヴィオラ様」と慕っていた。
「エリー、あなたには困ったものだわ」
執務机の前に立たされ、困惑していたエリーシャだったが何やら咎められているらしいと気づいて身構えた。
「思いを寄せる相手が出来たのなら教えてくれなきゃ」
「え……あの、お父様。わたしには何のことだかさっぱり……」
す、とヴィオラは開封済の手紙を「読んでちょうだい」とエリーシャに手渡した。中身はほとんどない、数行で終わる用件のみが端的に記されている。
「……ええっと『私、ユーリス・モレット・ヴィーダは、エリーシャ・フォレノワールに求婚、します』?」
ヴィーダ帝国歴七百二年、
『エリーシャ・フォレノワール嬢――僕と、結婚していただけますか』
あの晩、ユーリス・モレットから向けられた凄絶な微笑は悪夢としてエリーシャに刻まれ、いまだ魘される。
それでもエリーシャにとって、あの忌まわしい出来事は「なかった」こととなっていたのだが――すっかり青ざめた娘を前に、ヴィオラはあらあらと瞬きをした。
「ち、ち違います、お父様っ! 誤解です、何もかもが!」
「求婚状を受け取るなんて名誉な事よ、照れなくてもいいじゃない。しかもお相手はあの、ユーリス第二皇子殿下なんだから」
あのダンスパーティーの晩に起きたことは何かの間違いだった。
そういうことでよかったのに、いまさらなんだ。
遅効性の毒のような
じっくり考えてね、とは言われた気がするので、あえて手紙を送るなどしなかったのはユーリスとしては猶予期間を与えたつもりだったのかもしれない。
それにこの婚約は恋やら愛やらそういった感情がかかわる問題ではない。
ユーリスに、フォレノワールの秘密を知られてしまった――それを、どうヴィオラに伝えたものかエリーシャは悩んだ。
フォレノワール伯爵家は、かつてこの大陸の外れに住んでいた月影の民の末裔がヴィーダ帝国爵位を与えられ、それを代々継承してきた由緒正しい貴族である。帝国民のおよそ九割が信仰する唯一神ではなく、月女神ディアナを信仰する異端者として、かつては社交界ではつまはじきにされていたのだが、抜きんでた才能があるためあらゆる分野で重用されることが増え、名声と共に評判が上がった。
それは月女神からフォレノワールの血族に授けられる「
伯爵家当主であるヴィオラ・フォレノワールは、性別や年齢を含め、姿かたちを変えられる【
次代の当主とされるラーガは【
次男のウィルバーの【
これらの能力は思春期――十三歳から十五歳ごろに覚醒し、すぐに制御する方法を学ぶ。そろそろ妹のサエラの能力も目覚めるだろうが、月女神の強い加護を受けた美しい容姿から、とんでもなく強力な「何か」が出てくるのでは、と家族一同は期待半分、恐怖も半分の心持で見守っていた。
それに引き換え、エリーシャは……【
周囲に溶け込み、存在感を消すことができる。気付かれないように潜入したり立ち聞きしたりするぐらいしか使えない、あまりにも地味すぎる能力だった。気高く美しい月女神でも贔屓はするらしい。
「あ、あのねお父様……」
震えながらエリーシャは、ヴィオラに切り出した。
古くから「善きこと」のみに使え、さもなくばその「力」は失われるだろうと伝えられており、己を利するのみに利用し、結果他人を害することとなった者からは能力は失われたと伯爵家の歴史書には記されている。
第三者による悪用を避けるため、この力は家族以外には秘匿せよ――それが絶対に破ってはならないフォレノワールの掟だった。いくらエリーシャが父に愛されていたとしても、例外はない。どんな罰が待っているのかもわからなかった。
失態だ――家族の秘密をユーリスに握られて、婚約を迫られているなんて口が裂けても父には言えない。言わなくてはならないとは頭ではわかっている、でも。
「……ゆ、ユーリス皇子は何か狙いがあるのだと思います」
躊躇しているうちに、つい、核心を避けて遠回しの言い方を選んでしまった。ヴィオラは怒ると怖いのだ。下手に刺激するのはよくない。
「そういえば……エリーは私が【同調】で偵察を頼んでいた夜会で、殿下にお会いしたのよね。近頃、皇位継承の関係できな臭い動きがあることだし……ウィンダミア卿夫人がゲストをいつも以上に招いていたから気になっていたのだけれど」
ちら、とエリーシャに視線を投げて息を吐いた。
「まあ、あの晩は【帝国の薔薇】と逢瀬を楽しめるほどの余裕があったのだから、平和そのものだったみたいね」
「逢瀬、なんてそんないいものでは……とにかく、ユーリス殿下の思惑がわかりかねます! よりにもよってわたしに声をかけるなんて、おかしいじゃないですか!」
ユーリスは、何らかの手段で以てエリーシャの能力である【同調】を無効化、少なくとも弱体化したはずだ――ヴィオラはそのことに気付いていないわけでもないだろう。それなのに、微笑ましいものを見るようなまなざしをエリーシャに向けていた。
「あら、疑り深いのね。愛は盲目、私もメルと出会った瞬間にこの子と添い遂げたいと思ったものよ」
両手の指を組み合わせ、ヴィオラはうっとりとした表情を浮かべた。エリーシャの妹、サエラを産んですぐに亡くなった母――メルディアをヴィオラは深く愛していた。以後、再婚しないのもそれが理由だと言われている。
「違うんです、本当に。皇子とわたしの間に愛なんてありえませんっ」
エリーシャの顎を掴んだ指の感触を思い出し、ぞくっと背が震えた。
悪夢のような瞬間が頭をよぎる。あのとき、ユーリスの眸は氷のように冷たかった。恋だの愛だのという甘ったるい感情も、ぎらついた欲望の炎もまるで感じさせず、事務的に必要だからこなした――そんな感覚はおそらく外れてはいない。
あの男は危険、自分がフォレノワールの一族を守らなければ。けして父による語るも憚られるような罰から逃れようとしているわけではないのだ、と言い聞かせた。
「き」
「き?」
「だ、だって、このあいだわたし、いきなりキス、をされたのですよ……?」
もうこの方向で攻めるしかない――黙っていれば、なかったことになるわけではないがエリーシャは問題をすり替え、先送りにした。
涙目で訴えると、ヴィオラは頬に手をあてて恥じらうような仕草をした。
「あらあらまあ……最近の子ったら、情熱的ねえ」
「そんな簡単に片づけないでくださいっ」
いちおうこの件についても業腹ではあったし、納得はしていない。
なにしろ同意を得ずにキスをされたのだ――それで済ませてなるものか。皇子だからって何をしても許されるわけではない。
「それでは『皇子にふしだらな真似をされた』と皇室に訴えましょう。可愛いエリーの頼みですもの。それぐらいの申し立てをする覚悟はあるわよ」
「ひぇ……そ、そこまでしていただかなくても、大丈夫、かもです……」
ド田舎に引きこもっている伯爵家の娘ごときがそのような話を持ち出して、タダで済むとは思えなかった。逆にエリーシャがユーリス皇子を誘惑した、などと不名誉なでっちあげを付与される可能性の方が高い。
エリーシャは夜会などに参加しても【同調】を使って、帝国内で不穏な動きはないか探る内偵の役目を行っていることが多く、そもそもの性格からして人付き合いが苦手だった――帝都の社交界では無名なのである。よく知らない伯爵令嬢と【帝国の薔薇】、世間がどちらの言い分を信じるかは明らかだった。
エリーシャがそう言うと最初からわかっていたのか、ヴィオラは「そう?」とあっさり引き下がった。
「とにかく、近いうちにユーリス皇子殿下がご挨拶に来てくれるみたいだから、そのあたりも含めてじっくりお話ししましょうね。さすがに皇族のご訪問を拒絶するわけにはいかないもの」
「うぐ……」
「ねえエリー、そんなに落ち込まないで頂戴。父様はあなたの悲しそうな顔を見たくはないの」
うふふ、と楽しそうに口元を緩めたフォレノワール伯爵は、娘の頭を優しく撫でた。
「もし、皇子殿下があなたを虐めるようなことがあれば――そうねえ、フォレノワールのやり方で対処させていただくつもりだから。安心してね」
「……ひゃい」
華やかすぎる美貌の凄味を正面から浴びたエリーシャは、皇子訪問までの期間をびくびくしながら過ごすことになった。そして、肝心の「能力」について、ユーリスに知られてしまっていたことについては触れられずじまいだった。
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