03 キスとお菓子と皇子さま

 フォレノワール家の一族には「秘密」がある。


 ただその秘密は当主とその子供のみにしか知らされることなく、外部に漏れることはなかった。厳重に秘匿され、神秘として子供たちへと継承されていく――彼らが担う、役割についても。


 今宵のダンスパーティーは、帝国貴族の中でも華やかなものが大好きなウィンダミア卿夫人が開催したもので、招待状はいつもの顔ぶれだけではなくヴィーダ帝国学院にまでばら撒かれたという。年若い学生らしき少年や、留学生と思しき風貌の者もうろうろしていた。


 ふだん耳にすることのない話が飛び交う貴重な機会だというのに、会場を離れることになるのは惜しい――のだが、次兄のウィルバーがグラスを片手にご婦人方に囲まれていたのを視認していた。


 ふらふら遊んでばかりいて頼りないと長兄のラーガはぼやいているが、人好きがする性格と甘いマスクのおかげで社交界の人気者だ。現時点でエリーシャが予期せず注目を集めてしまったことだし、父の期待に応えられるのはもはやウィルバーしかいない。


 頑張ってくださいウィル兄さま――そんな気持ちを込めて、拳を突き上げ合図を送ると何を思ったかウィンクが返って来た。

 ウィル兄さまのそういうところをラーガ兄さまに心配されているのです、と詰め寄って説教したくもなったのだがぐっと堪える。


 いまはそんな心の余裕はなかった。エリーシャは息を吐くと、ふたたび意識して自らの気配を限りなく薄くしてから、意を決して会場を後にする。


 指定された中庭には、人気がなかった。

 風に当たりたいとかいうありきたりの理由で恋人同士がいちゃついたりするものだが、しんと静まり返っている。まるで人払いでもされているようだ、とすら思えた。

 手入れされた草木が煉瓦敷きの道に沿って植えられており、アーチ状の薔薇のトンネルをくぐるとおあつらえ向きのガゼボが見える。


 やはりここにも誰もいなかったが、八角形の屋根の下に入ると円形のテーブルの上に何故だかティーセットが用意されていた。三段重ねのスタンドにサンドイッチ、スコーン、プティフールが並んでいる。


 白い陶器のティーポットに触れるとまだ温かく、置かれたばかりのようだった。待ち合わせ場所として指定したのだと言われずともわかる。チェアには厚みのあるクッションが置かれていて、座り心地も悪くない。


 目を閉じ、意識を庭園内の気配に集中していたときだった。ぎい、庭園へと繋がるドアが開けられた――これは主に使用人が使う通用口だ。このガゼボに入るまでにエリーシャが確認した、屋敷から庭園へと入る三つの経路のうちのひとつである。


「待たせてしまったかな」


 かつ、と真白のタイルの床に硬質な足音を響かせガゼボの中に入って来たのは、つい先刻ダンスを踊ったばかりの第二皇子殿下だった。純白のジャケットと同色のジャボタイに濃紺のベストを合わせた夜会服は、ユーリスの高貴で上品な雰囲気を強く印象づけるものだ。


 彼の周りには花に群がる蝶のように多くの女性が集まっていたというのにどうやって振り切り、抜け出してきたのだろうと思っていると「少し眩暈がしたものだから」と悪戯っぽく笑った。


 月光に照らされたユーリスは、妖精が夜露に濡れた翅を乾かすために立ち寄ったと言われても信じてしまいそうなほどに儚げで美しく見える。


「……あの、何か私に御用でしょうか?」

「まあ座って。このお茶も、茶菓子も僕が用意させたものだから安心していい。毒など入っていないよ」


 ティーカップに注がれた茶からふわりと芳醇な香りが漂った。ユーリスが飲んだのを確認してから勧められるままにカップに口をつける。


「君は僕のことを知っているかな」

「もちろんです。ユーリス・モレット第二皇子殿下」

「他には?」

「……他、と言いますと」

「たとえば、僕は昔から身体が弱いと言われていて二十までは生きられないだろうと言われていることとか、ね」


 知っている――ただそれは帝国民のほとんどが知っている噂話のひとつである。ユーリスは聡明で、わずか八歳にして通常の貴族子女が学ぶ学問をすべて修めたとされる神童だ。

 さらには見目麗しく【帝国ヴィーダの薔薇】と呼ばれている――だが、唯一の欠点として挙げられるのは、その身体の弱さだった。

 幼いころから高熱で寝込むことが多く、侍医からは早逝する可能性も示唆されていたという。


「ええ、存じております」

「意外だな。知らない振りをすると思っていたよ」

「知っているのに知らない振りをするのは失礼に当たるかと」

「成程、いいね。誠実で好感が持てる――それが本心からの言葉であれば、だけれど」


 ふふ、と口元を緩めてユーリスはエリーシャを見遣った。甘やかな響きの中に仕込まれたかすかな悪意が見え隠れする。思わせぶりな態度を取る理由は、やはり色恋によるものではないと確信した――最初からおかしいとは思っていたから驚きはしない。


 お茶には毒はない、という言葉には嘘はなかったようで、舌が痺れることはない。ただ薔薇とうたわれたユーリス自身の存在が、エリーシャをじわじわと蝕んでいくのを感じていた。


「どうせおとぎ話だろうと思っていたのに、いざ君を前にすると信じる気にもなるよ」

「なんのことでしょう? おっしゃられている意味がよくわかりません」


 ユーリスにはどうも此方の反応を試しているような節がある。彼は、何を知っているというのだろう――? エリーシャは平静を保ちながら舌打ちしそうになる己を抑えた。


「光が差せば影は生じる。両者の均衡を以て、平和は保たれる。我がヴィーダ帝国が趨勢すうせいを誇る前、月の女神ディアナを信仰する地――現在のフォレノワール州では、その加護と寵愛を受けた民が住んでいたそうだね。まばゆい月明りのような銀髪、赤々と燃える星焔せいえんを宿した瞳を持つ夜の化身……まさに君のように」


 ユーリスはエリーシャの髪をひと房掴み、口づけを落とした。


 銀髪、といえば聞こえはいいがエリーシャのそれは暖炉の中で朽ち、燃え残った灰の色だと子供の頃はからかわれた。妹、そして兄たちの髪の方がよほど美しいとは自分でも思っている。


 ただ、血管が青く見えるほどに透き通る白い肌と、銀髪。そして赤眼はフォレノワール家に名を連ねる者によくみられる形質ではあった。


 ユーリスが指摘したように、北ラースティン大陸の西端に先住していた者――月影つきかげの民たちがかつてそうした特徴を持っていたときいている。いまとなっては、ヴィーダ帝国による占領後に血が混ざり、フォレノワール州でもこの特徴を併せ持つ者はほとんど見かけなくなった。


「身体が弱かった僕は図書室で本をよく読むことぐらいしか許されなくてね。特に好んだのは、月影の民とヴィーダ帝国が交わした密約を耳ざわりの好い物語に仕立て上げたものだった」


 ――月影の民は、争いを好まなかった。ヴィーダ帝国に国を明け渡し、手と手を取り合い、隣人として生きることを許した。月の女神を信奉する彼らは、植民を始めた帝国民に祝福を与え、歓迎した。


 ヴィーダ帝国の子供なら誰もが聞かされたことがある話だ。含み笑いをするユーリスをエリーシャは見つめる。


「歴史は支配者にとって都合のいいように書き換えられるものだ。静かに暮らしていた彼らを異教徒と断じて蹂躙し、見目のいい者たちを捕らえ慰み者にしたのだとしても――罪は栄光の証として、王冠を飾る宝石となる」

「……第二皇子殿下ともあろう方が、どうして帝国の品位を貶めるようなことをおっしゃるのですか」

「事実を口にしているだけ。知っているのに、知らない振りをすることほど無礼なものはない……その点において君と僕の感覚はおなじだよ、エリーシャ嬢」


 ユーリスは「それに君のおかげでから、確認も出来た」と言って肩を竦めた。


「見えた……です、か?」


 こちらの話だよ、とユーリスは微笑んだ。長い指がこんがりと焼けた菓子をつまむ。


「口を開けて」

「へ?」

「開けなさい」


 思いがけず強い口調で言われたので反射的に「あ」の形に開いていた。押し込まれた菓子のせいでバターの風味が口いっぱいに広がる。極度の緊張でごまかされていたが、そういえば今日は朝からほとんど何も食べていない。


 甘い。さくっとした食感が口の中でほろりとほどける。


「……美味しい?」


 思わず頷いたエリーシャの顎をユーリスは掴んだ。間近に迫ったアイスブルーの輝きに眼が眩んだせいで、反応がわずかに遅れた。


「んっ⁉」


 ふに、と唇にやわらかな感触が押し当てられた。かりっと香ばしいビスケットでもなければスコーンでもない。

 まだ砂糖の甘みの残る口の中に忍ばされた舌にびくっと背がしなる。


 ――キス。


 しかも、親愛を通り越して恋人同士が行うような濃厚な部類に入るそれに頭の中が真っ白になった。それはエリーシャの理解の範疇を越えた行為だったので、石のように固まることしかできなかった。


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