02 甘い顔には罠がある(※所説あります)

 伯爵令嬢エリーシャ・フォレノワールは困惑していた。


 その要因というのは主に――彼女の目の前に立っている金髪碧眼の美青年のせいである。


「愛らしいレディ、どうか僕と踊ってくれませんか」


 彼にそんな甘い言葉を囁かれ、傅かれ、手の甲へ口づけでも落とされたなら。


 この会場にいる多くの令嬢は天にも昇る心地になることだろう。

 だがエリーシャは違った――いうなれば無の境地だ。極力、眼前にあるこの美貌の青年を意識から排除することに全神経を注いでいた。


 ええ、喜んでと形ばかりの返事を儀礼的に口にしながら、突き刺さるような視線をエリーシャは背中に受けている。あの方、どなたかしら。お召しになっているドレスと来たら、なんて野暮ったいの。


 この手の悪口は受けるものではなく、耳をそばだてて聞くものなのに。


 エリーシャはちりちりと焦げ付くような嫉妬の視線を浴びて、ひたすらに居心地が悪かった。気分が悪いのを通り越して既に吐きそうだった。



✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼



 出席を命じられた夜会が開催されたのは、エリーシャが帝都のフォレノワール伯爵家別邸に到着した当日の晩だった。


 なんとか出席しない方法はないものか、と旅程で意味もなく道草を試みたものの、そんなエリーシャの抵抗を見越した使用人たちに宥められ、なんとかギリギリではあるが間に合ってしまった。


 湯浴み、化粧、髪型――淑女の身支度にはとにかく時間がかかる。急ぎに仕上げなければならないエリーシャには昼食や軽食を供される余裕もない。ドレスを試着している妹を横目に優雅に茶を飲んでいた次兄を恨めしく思いながらも、ぎゅうぎゅうと圧迫して締め付けるコルセットに失神しそうになっていた。


「うんうん、今日もいい感じだね。控えめで清楚、悪く言えばひどく地味でありきたりだ。見る人が見ればエリーの良さがわかるんだけど……兄としては実にもったいないと思うよ」

「仕方がないですよ。それに私は目立たない方が助かりますし」

「もうっ、それとこれとは話が別だよ! 私は可愛い妹を見せびらかして回りたいのだからっ。あーあ、フォレノワール家の宿命というのは本当に厄介だよ」


 次兄のウィルバーが大仰に肩を竦めた。長兄のラーガはフォレノワール伯爵と共に、公爵家の食事会へと参加することになっている。

 その代わりにエリーシャがウィンダミア卿夫人のダンスパーティーへと駆り出されたという流れのようだ。


 今日も素敵だよ、という身内の贔屓目ひいきめでしかない誉め言葉を残して父と長兄が食事会へと向かった後、上機嫌な次兄のエスコートを受け、エリーシャはダンスパーティーへと乗り込んだ。


 北ラースティン大陸のどこの国でもたいていそうだが、それ相応の身分にある紳士淑女は夜ごと開催される夜会に参加し、社交をするのが義務のようなものだ。

 そこでパートナーを見つけるもよし、火遊びに乗じるもよし――すべては良識次第だが、よほどのことがない限りは大ごとにならず内々で始末をつけてしまえる。


 こういった場でたいてい話題になるのは家と家の醜聞や噂話――自慢げに語られるそれらは、酒が入って滑りやすくなった口をさらに軽くする。

 そんな社交界の好悪の感情を拾い上げ、有益なものと塵屑ゴミクズを選り分けるのがエリーシャに求められている役割だった。そのためにも地味な装いで極力目立たず、フォレノワール家の「使命」のために情報収集を行う必要がある。


 パーティー会場の隅で飲んだくれているウィルバーを一瞥いちべつしてから、意識を集中させ、エリーシャは静かに会場内を歩いた。


「聞きましたか、フース子爵夫人……庭師の若者に懸想をしてこっぴどく振られたらしいですよ」

「ガスクール伯爵の投資話、今度はグロスタリ鉱山だそうだ。なんでも良質な宝石が埋まっているとかで――」

「そうそう、第一皇子殿下のご活躍を聞かれましたか? つい先日も、街で暴れていたごろつきから颯爽と町娘を救出されたんですって」


 同時に十人ほどの会話を聞き分け、使えそうなものを拾い上げる。

 誰もエリーシャがそばにいることに気付かず、仲間内の話で大いに盛り上がっているようだ。管弦楽団が歌い上げる甘美な楽曲はパーティーをさらに華やかに演出し、蒔かれた種から発芽した噂話が派手に咲き乱れている。


 仕分け作業にすべての神経を集中し、テラスに出てお喋りをする恋人たちの内緒話に耳をすませていたときだった。


 ふっとエリーシャの目の前が暗くなった。誰かが、前に立ったということである。どうせ兄が、久しぶりの社交界で情報収集に勤しむ妹の仕事ぶりを確かめに来たのだろうと思ったのだが、予想は大いに外れた。



✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼



「……いったい、何が望みなのかしら」


 思わず独り言ちると、優雅にワルツを踊っていた相手は「何か言ったかな」と首をかしげる。そんな所作さえもため息を吐くほどに美しいと評判の青年、ユーリス・モレットは、ヴィーダ帝国でも指折りの美男子として有名だった。


 そのうえ、正真正銘の皇子様なのだから文句のつけようがない。


 ユーリス・モレット・ヴィーダ第二皇子殿下――皇帝と皇后の間に生まれた第二子であり、皇位継承権は当然ながら第二位。

 二が並びはしているが将来、この国の皇帝にも成り得る超が付くほどの要人だった。いまも護衛と思しき体格のいい男性がさりげなく皇子の近くに立っている。

 仮にダンスにでもお誘いされたのなら「ええ喜んで」以外の返答を許されないお相手だ。


 ――だから、わたしごときが殿下に何も言えるわけがないでしょうっ!


 唇に笑みを載せることで「いいえ何でもございません」の返事をするとそれを上回る大輪の薔薇の花のような微笑が返って来る――もう限界だ、耐え難い、なによりこのきらきらした雰囲気が。


 自分が注目されるという経験が皆無であるエリーシャの心臓は聞いたこともないほどの速度で激しく鼓動しているし、冷や汗が滝のように背中を伝っている。


 それに――いまも会場では、フォレノワール家が知っておくべき興味深い話題が飛び交っているかもしれないのに……せっかくの機会を逸してしまったことに申し訳なさを感じながらターンすると、何を思ったかユーリスはエリーシャの背を抱いて、ぐいと引き寄せた。


「気もそぞろ、といった顔をしているね」

「っ、ひぁ?」


 まるで恋人同士がする所作である。令嬢たちから一斉に悲鳴が上がった。きいんと耳を痺れさせた高音にエリーシャは思わず顔をしかめた。


「顔色が悪いようだね、フォレノワール嬢。どこか休めるところまで案内しようか」

「い、いえっ、お気遣いなく。殿下……」


 いたって自然に見えるような、恥じらいを示しながら頬を染めてみせる。

 この程度の演技はエリーシャにはお手の物だった。どこにでもいるようないたって平凡な令嬢らしく振る舞って、気まぐれな皇子の興味対象から消える。そうすれば、お役目も再開することが出来るし、父を失望させることもないだろう。


 胸の中は混乱と動揺でぐっちゃぐちゃになっていたとしても、表面上を取り繕うことなどたやすい。そういう教育を幼少期から叩きこまれれば、自分が本当はどう思っているかさえわからなくなる。怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも――。


 そのとき、ユーリスの顔から笑みがふっと消えた。わずかな変化は、お互いの吐息が触れそうなほどに近くにいたエリーシャにしか見えなかっただろう。


「君の秘密を知っている」


 ぼそりと耳元で囁かれた声に、背がぞっと寒くなる。


 いまのはどういう意味なのか、問いただそうとした瞬間に弦楽器の和音がダンスホールに響き渡った。

 一曲が終われば、挨拶をしてお別れするのがマナーだ。婚約しているわけでもない男女が、立て続けに同じ相手と何曲も踊ったりはしない。


「あっという間に終わってしまったね。名残惜しいな、フォレノワール嬢。もうすこし君と踊っていたかったよ」


 勘弁してくれ、と内心思いながらユーリス皇子の社交辞令にはにかんだような笑みを浮かべる。そのあいだも先ほどの意味深な発言の意味を考えていた。


 そもそもどうしてユーリスは自分にダンスを申し込んだのだろう。


 エリーシャはダンスパーティーの会場である広間にいたと言っても、柱の影になるような位置について、気配を消していた。

 誰の目にも留まらぬように息を潜め、話に花を咲かせるうら若き乙女たち、紳士たちのそばを渡り歩いては有益な情報を拾い集めることに専念していたというのに――。


 彼女が本日の夜会に参加した目的は結婚相手を探すためなどでは断じてなかった。ごく普通の仕立屋で用意した無難な流行のドレスに袖を通し、この会場にいる淑女の八割がしている髪型を選び、可能な限り目立たないように過ごしている。


 そんなエリーシャをダンスに誘う者などまずいない。


 社交の場で非社交的であることを試みているため、壁の花であることにも誰も気づかない。そもそも、会場にいたという記憶にも残らないのだ。


 別日にお茶会などに参加し、再会したとして、エリーシャが挨拶をしても「ああ、あのときの」という感慨はまず起きない。


 ゆえに、エリーシャ・フォレノワールには同年代の友人はひとりもいなかった。


 まあそれはさておき、だ。

 この男と来たら、会場に到着するや否や、主催者や知人との挨拶も早々に切り上げ、そっと目立たないように息を殺し「見つけられるはずがなかった」エリーシャのもとに歩み寄った。


 そして貴公子にふさわしい優美な仕草で以てダンスのお誘いなどをしたのである――哀れに思ったのかなんだか知らないが、エリーシャからすれば迷惑でしかなかったが。


 こうして一旦、注目を集めてしまった以上、これから終了までの時間、目的どおり地味に過ごすことは困難を極めた。エリーシャは恨めしく思いながらも礼儀正しく、ユーリスにお礼を述べた。


「光栄ですわ、殿下……わ、わたくしなどをダンスにお誘いいただくなんてっ、慈善の心をお持ちなのですね」


 手を離せ、と念を込めながら笑顔を保ったままでエリーシャは応対した。なんなのこの男、細身のくせに意外と力が強い……!


「どうしてそんなことをいうんだい? 君はとても魅力的なのに――だけで、この会場にいるどの女性よりも美しく、魅力的だよ」


 ひっそりと静かに囁く声音には何か含みがある、そんなふうに思ったのは間近にいたエリーシャだけだった。


 思わずぼうっとしてしまったエリーシャを突き飛ばすようにして「次は私と」と声高に叫ぶ令嬢方に、ユーリスはあっという間に囲まれてしまう。


 押しのけられてはじき出されたところで、ほっと息を吐いた。エリーシャの任務はこれにて終了、大失敗なのだが、このままパーティーをおとなしくやりすごすか体調不良を装って帰宅するか――兄に相談しに行こう。


 やれやれと思いながら何気なく振り返ると、うんざりすることもなく微笑みを絶やさずにいるユーリスの姿が目に入った。


 ふっとアイスブルーの双眸と視線が絡み、白手袋を嵌めた人差し指が口許にそっと添えられる。


 あとで、中庭で。


 唇だけで囁かれた言葉をエリーシャは無視する勇気がなかった。

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